冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
昼の光の下で、郊外へ向かう道路は広く見えた。
街路樹の影がアスファルトに細く落ち、車はその影を次々に踏み越えていく。
大樹はアクセルを一定に保ったまま、バックミラーを繰り返し見た。
後続車の列はまばらだった。追跡らしい動きは見えない。
都心から離れるほど、車の流れは緩くなる。
あの屋敷は郊外にあったが、大樹はそこからさらに都心から離れる方向に向かっていた。
綾子── 西園寺グループが本気で大樹を追い掛ける気があるかはわからない。奪ってきたスマホは助手席にある。電源は切ったが、GPSを発信している可能性はある。この車自体が位置情報を送っている可能性も高い。
その気になれば、現段階までの大樹の居場所を特定することは容易だろう。
大樹はハンドルを軽く切り、緩いカーブを抜けた。やがて道路脇に、目当ての色の強い看板が現れた。
ホームセンターだ。
場所も絶妙だ。ほかに建物らしきものが少ない場所にぽつんと建っている。こういう場所だと、店自体に警備カメラがあっても、そこから先を追跡しにくいのだ。
広い駐車場には、軽トラックとワゴン車が数台止まっていて、平日の昼らしい、気の抜けた空気が漂っていた。
大樹はウインカーを出し、ゆっくりと駐車場へ車を入れた。
店へ向かう。
自動ドアが開くと、蛍光灯の白い光と乾いた空気が流れ出た。店内には作業着姿の男と、買い物かごを持った中年の女がいるだけだ。平日の昼らしい静けさだった。
大樹は工具売り場へ歩く。
棚から精密ドライバーのセットを取る。ほかに、小型のカッター。簡易ナイフ、ピンセット──。それから黒いリュックサック。
かごに入れ、レジへ向かった。
拓哉から奪った財布から現金を出し、支払いを済ませる。
そのまま駐車場へ戻る。
車に乗り込み、ドアを閉めた。外の音が遠ざかる。
大樹は袋から精密ドライバーを取り出した。助手席のスマートフォンを膝の上に置く。
裏蓋の継ぎ目にドライバーの先端を差し込む。
わずかに力を入れる。
ぱき、と小さな音がした。
裏蓋が浮く。
指をかけて外すと、内部の基板と電池が露出した。
大樹は電池をつまみ、ゆっくり引き抜く。
それで完全に沈黙する。
通信も、GPSもここで止まる。
買ったばかりのリュックを開き、外した電池とスマホ、それに工具をリュックに入れる。
ドアを開けて車を降りるとリュックを背負った。
鍵は抜かない。ロックもしない。鍵は隣接の畑に放り捨てた。
駐車場を横切り、ホームセンターの敷地を出る。
近くの駅までどのくらいあるのかはわからない。だが、歩くのは慣れている。車とは違い、一度大きな道路から離れれば、徒歩は追跡を巻きやすい。
大樹は、やって来た県道には戻らず、畑のあいだへ入り、あぜ道を進んでいった。
都心へ戻ってから、数日が過ぎていた。
人の流れの中に紛れてしまえば、個人など簡単に見失われる。大樹はそれをよく知っていた。
昼は駅前の雑踏を歩き、夜は場所を変える。ビジネスホテル、ネット喫茶、カプセルホテル。ひとつの場所に二度は泊まらない。
いまのところ、追跡はない。
その日、大樹は雑居ビルの前で足を止めた。
古い看板が出ている。
小さなネオン文字──アダルトショップだ。
階段を上がり、扉を押して入る。
鈴が鳴る。
店内は暗かった。棚には派手な箱が並び、照明は低く落とされている。古い空調の音だけがかすかに響いていた。
カウンターの奥に座っていた男が顔を上げた。
一瞬、視線が止まる。
「……おっ、もしかして、大樹か──」
頭頂がすっかり薄くなった老人だった。年齢は七十に近いはずだが、眼だけは妙に鋭い。
「久しぶりだな、おやっさん」
大樹は軽く頷いた。
三崎修造。七十歳──。
刑務所で同房だった男だ。
先に出所し、この店を始めた。
大樹が出所したとき、一度だけここを訪ねた。それ以来になる。
「おいおい、生きてたかよ。お前──出てきたばっかのとき一回顔出して、それきりじゃねえか」
「まあ、忙しくてな」
「忙しいって顔じゃねえなあ」
三崎は椅子から立ち上がった。背は低いが、腰はまだしゃんとしている。
「陽に灼けてるし、ごっつい身体になったな。さしずめ肉体労働者様か?」
「まあ、そんなところだ。点々とした」
「だったら、わしのところに転がり込めばいいじゃねえか」
三崎は笑いながらカウンターから出てきた。
「そんなことしていいのか?」
大樹は、苦笑する。
「おう──。この店は、お前がムショで繋いでくれた筋がなきゃ始まってねえ。仕入れ先も、ネットの売り方も、全部お前に教わったんだ。大樹ひとりくらい、喰わしてやるぜ」
三崎は大樹の肩を叩いた。老人とは思えない、骨の固い手だった。
「おやっさんも頑張ってるみたいだな。評判はよく耳にする」
「まあ、食うには困らねえさ」
三崎は鼻を鳴らした。
「商売はそれが大事だ。地道が一番だ」
「……ああ、お前に念を押されたからな。……とはいえ、いまは商売の半分がネットでな。そういうのに詳しいのが欲しかったんだ。どうだ、雇わせてくれねえか。給料はかなり色つけるぜ……いや、お前なら共同経営でもいい」
三崎は笑う。
「共同経営か? そりゃあ、好待遇過ぎるだろう」
「いやいや、ムショじゃあ、経営のことよく勉強させてくれた。お前なら是非に一緒にやりてえぜ」
「ありがとう。でも、今日は客で来た」
大樹の言葉に、三崎の眉が上がった。
「客だと? なにが欲しい? なんでも持っていっていいが、ここにはアダルトグッズしかねえぞ。そういう店だ」
三崎は店内をぐるりと指して笑う。
大樹は肩をすくめた。
「三十二の人妻だ。金持ちの女社長だな。そいつを落とす。それに必要な道具を買いたい」
「ほう」
三崎の笑いが止まる。
「ただ、待ち合わせが限られてる。だから、とりあえず手付けだけ払う。あとは、その女をものにしてからだ」
大樹の言葉に老人の目が細くなる。すこしのあいだ、古い空調の音だけが響いた。
「……七年前に会ったときとは、ずいぶん変わったな」
三崎は口の端を吊り上げた。
「変わってないさ。俺は俺だ」
「いや、眼付きも態度も変わった。……悪い意味でな」
にたりと笑う。
大樹は肩をすくめた。
「ただ、地道に生きてきただけだ」
大樹は口元を綻ばせた。
「それが一番大事さ」
三崎も微笑む。
「そうか?」
「ああ」
三崎は笑った。
「ムショのときとは違う。横領を失敗して、死んだような顔してたくせになあ。今度は失敗すんじゃねえぞ」
「いや、俺の罪は横領じゃないぞ。忘れたのかい?」
「えっ?」
三崎がきょとんとする。
「……いや、会社の金を横領して使い込んだって話だったろう。違わねえよ」
「俺の罪は無実の罪だ」
大樹は言った。
一瞬の沈黙のあと、三崎が吹き出した。
「そうだった、そうだった。ムショじゃあ、無実の罪を言い張る奴ばっかりだったな。わしも、お前も無実の罪だ。前科三犯のな」
三崎が笑いながらカウンターに手をついた。
笑いの発作が収まるのを待ち、大樹は口を開いた。
「女用の貞操帯だ。玩具じゃない、簡単に外せないような本物が欲しい」
「ほう、チャスティティベルトか」
「そんな名前なのか?」
大樹は微笑んだ。
「いいのがあるぜ」
三崎が奥へ引っ込む。
棚の奥で金属の触れ合う音がした。しばらくして三崎が戻ってくる。
手に持っていたのは、革製の貞操帯だった。
幅のある腰ベルトに、股間を覆う帯が繋がっている。黒い革は厚く、縁は不自然なほど硬く盛り上がっていた。表面には金属の小さなロックユニットが埋め込まれている。
三崎がカウンターにそれを置く。
「特注品だ。本来は注文品だったがな、受け取り前に客が逃げやがった」
三崎は肩を竦める。
「結構、重いな」
大樹は手に取った。
「重いのは女に調教されていると自覚させる効果はある、だから、あえて軽量にはしないんだ。それに、外は革だが、縁に航空機用のワイヤーを入れてある」
三崎が指で縁を叩いた。
「なるほどな。ワイヤーがあるから簡単に切断できないということか」
「簡単どころか、強引に切断しようとしても、装着したまま肌を傷つけずにやるのはまず無理だな」
三崎はロック部分を指差す。
「鍵は電子ロックだ。暗証番号とカードキーの二重式になってる。両方揃わないと開かねえ」
三崎は金属の小さな端子を見せる。
「電子ロックの電源は?」
「内蔵電池だ。半年は持つ」
「ここは?」
大樹は、股間部位の帯にある取り外しできそうは丸い金属の蓋を指差す。
「ディルドを装着する穴だ。蓋も電子ロックで閉じられる」
三崎は貞操帯を裏返した。
内側の陰部に当たる部分にはびっしりと短い毛が縫い付けられていた。
「なんだ、これ?」
指で触れる。
すると、毛を装着してある基板の部分が全体に動いて、指先に微妙な刺激を与えてきた。むず痒いような刺激に、慌てて指を引っ込める。
「馬の毛だ。束にして仕込んである。歩くたびに揺れて当たる仕掛けだ」
三崎が笑い声をあげる。
「だが、妙に固いな」
大樹は表側から股間に当たる部分を叩く。
「三重構造になってる。外はワイヤー入りの革。中はスチールプレート。そして内側は馬の毛だ」
三崎が鼻で笑う。
「特にここを見てみな」
三崎の指が小さな突起を示す。
「クリトリスに当たる位置に突起を作ってある。そこには馬の毛をさらに密集させてある」
「思ったよりも、精密なんだな」
「そりゃ特注だからな。まともな女に使う道具じゃねえ。こんなのを使う男もまともじゃねえ」
三崎はにたりと笑った。
「これ用のディルドはあるか?」
「当たり前だ。チャスティティベルトで調教するなら、ディルドがないと始まらねえ。どんなのがいいんだ。調整する」
「アナルは素人だ。小さめにしよう。前は標準でいい。ただ、中が空洞になっていて、振動すると表面から液薬が滲み出る構造にできないか」
大樹は言った。
「えげつねえことを考えるな。そういう完成品はねえが用意してやる」
三崎は鼻で笑った。
「仕込む薬は、効果が高いものだ。身体に害がないもの」
「なら、いいのがある」
三崎がにやりと笑う。
「……中東産の特殊もんの液剤だ。表に出回ってる安い媚薬とは別物だ。少量でも老母が腰を振り出すという保証ものだ」
「じゃあ、それでいい」
三崎はカウンターの奥に目をやった。
「ディルドは、ベルト用に合わせる。軸も作り直してやる。明日の夕方まで待ってくれ」
「わかった、そのときには、ディルドの内部には、液剤の媚薬を仕込んでおいてくれるか?」
「そらいいが、どのくらいに薄めるんだ。普通は十分の一くらいで使うらしいぞ。それで、じわじわと効いてくる感じだ」
「原液でいい」
大樹は即答した。
十年前のことはともかく。今回の監禁と仕打ちは、まだ腹の奥に残っていた。
「そりゃあいい。装着されたら最後、泣き喚くしかねえだろうな」
三崎が愉しそうに顔を歪めた。
「ところで、ディルドの電源と、ベルトの電源は別になるのか?」
「独立した内蔵電池だ。こっちも半年は持つはずだ。まあ、使い方によるがな」
三崎が白い歯を見せる。
「そういえば、ディルドの遠隔操作はどうやるんだ?」
大樹は訊ねた。
「Bluetoothで飛ばす。操作用のアプリは、送ってやる。スマホ持ってるか?」
「……いや、持ってない。できれば、スマホも準備してくれ。足がつかないものな」
「足がつかないものとなると、値は張るぜ。しかも、チャスティティベルトとディルドは、特注扱いだ。まとめれば、かなりの値段になる」
「幾らだ?」
「五十万と言いてえが、大樹なら三十五万でいい」
「わかった」
大樹は、カウンターに、紙幣を三枚置く。
「……残りは、後払いにしてくれ……。女から引っ張る。倍払う」
「倍か……。自信があるんだな。そういえば、狙っている女は、金持ちって言ってたか? 簡単に出しそうなのか?」
三崎が紙幣をカウンターから取りながら、何気ない口調で訊ねた。
「西園寺綾子。西園寺グループに所属する企業の女社長で、たしか、役員のひとりだ」
「はあ?」
三崎の顔色が変わった。
「……冗談じゃない。降りた」
三崎はカウンターの紙幣を掴むと、大樹の前へ押し戻そうとした。
「なんでだ?」
「なんでだじゃねえ。西園寺綾子といえば、有名なやり手の美人社長じゃねえか。冷酷で頭脳明晰。しかも隙のねえ堅物の評判だ。あれを堕とすなんざ正気か? ありえねえよ」
「へえ、綾子って、それほどの評判なのか?」
大樹は訊ねた。
出所してから七年。綾子の噂は、あえて耳に入れないようにしてきた。実際に彼女が実業家としてどれほどの地位にあるのか、大樹は知らない。
大樹にとっては、数日前に安酒場で再会したときのことしか知らない。
自分の前で土下座するように泣いて謝り、どんな仕打ちでも受けるから復讐してくれと言ってきた、ヤンデレじみた女という印象しかない。
「お前が手を出したくなるほどの女ってのは認める。だがな、あれは堕とそうとして堕ちる女じゃねえ。あの若さで女帝の異名があるほどのやり手だ。どんな関係かは知らねえが、とにかくやめとけ」
三崎が首を横に振る。
しかし、大樹はにっこりと微笑む。
「……どんな関係か、か……。まあ、簡単に言えば元婚約者だ。俺を冤罪で陥れる片棒を担ぎ、陥れた男と結婚した。まあ、そんな関係だ」
大樹は言った。
「えっ? えっ……どういうことだ?」
「だから、俺の冤罪を信じずに、俺をムショに入れた女だ。数日前に泣いて謝ってきたから、ついていったが、あいつの用心棒に殴られて反撃して逃げた。それだけだと、腹の虫が収まらないから、今度はこっちから仕掛けてやろうと思ってな」
大樹の説明を聞き終えると、三崎はしばらく呆けたような顔をしていた。
やがて、その表情が引き締まる。
「……本当の話なんだな?」
三崎の眼が尖る。大樹が初めて接する三崎の表情だ。
「俺はおやっさんに嘘を言ったことはないよ」
「……だから、復讐しようっていうことか?」
三崎の顔は険しい。大樹を睨みつけるように鋭い眼光をぶつけてくる。
「復讐? わざわざ、そのために、こんな凝ったものを準備するものか」
大樹は肩を竦めた。
「復讐じゃあ……ねえのか?」
三崎はきょとんとしている。
「ああ、復讐じゃねえ。俺はこれでも常識人だ。折角だから、寝取ってやろうと思ってるだけだ」
大樹は言った。
一瞬の沈黙のあと、三崎が腹を抱えて笑い出した。
「ところで、協力してくれるのか。それとも、してくれないのか?」
大樹は、三崎の馬鹿笑いを遮った。
三崎はゆっくりと息を吐いた。
「……してやる。他に必要なものがあれば、なんでも言え。お前には借りがある。ムショの義理は忘れねえ。アダルトグッズじゃなくてもいい。合法でも非合法でも構わねえ。必ず明日までに揃えてやる」
「恩に切る、おやっさん」
大樹はにっこりと笑った。
「……わかった。だが、お前は本当に、この七年で変わっちまったな。実際のところ、なにがあったんだ?」
三崎が大きく息を吐く。
「最初に言ったろ。地道な暮らしだけだ」
「なにが地道だ」
三崎が苦笑のような表情を浮かべた。
その都心環状線の大きな駅前は、夕方を迎えて人の波が激しくなった。
世界でも有名なスクランブル交差点に接する駅前広場は、若者たちの雑踏が渦巻いていた。
その光景を、大樹は高い場所から見下ろしていた。
駅前の商業施設の高層階にあるガラス張りの喫茶店の窓際の席だ。
コーヒーカップの向こうの駅前広場を大樹は静かに眺めている。
眼下を見下ろす小さな双眼鏡の中には、紺のスーツに身を包んだひとりの女性が写っていた。
西園寺綾子──。
遠目からでも、その姿は目立つ。
背筋の伸びた立ち姿と、周囲とは明らかに違う落ち着いた雰囲気。双眼鏡がなくても、彼女を見失うことは、まずなさそうだ。
綾子が広場に現れたのは、大樹が指定した時刻より三十分以上前だった。
それから、約束の時間はすでに三十分過ぎている。
つまり、彼女はもう一時間近く、そこに立ち続けていることになる。
しきりに、左右に視線を走らせているのは、大樹の姿を探しているのだろう。
約束の時間を過ぎたあたりから、その動きには焦りが混じり始めていた。
『今度は、護衛を連れてくるな。ひとりで来い』──。
大樹はそう指示していた。
西園寺グループの中で頭角を現し始めている若き女実業家でもある綾子が、本当にひとりで来るのかどうかは賭けだった。
いや──。
大樹からの伝言が綾子に届くかどうかさえ、確信はなかった。
綾子に伝言を送った手段についても、あの拓哉から奪ったスマホの電源を繋ぎ直して、手紙を張り付けておいただけだ。
大樹を必死で捜索してなければ、そもそも、スマホの電源を入れ直しても、位置捜索はしてないだろうし、手紙も見つかることはない。
手紙が見つかったとしても、大樹は、綾子につけられていたホディガードをすでにふたりも倒している。
そんな危険人物を、綾子がひとりで接触することが許されるわけがない。
大樹が綾子の身辺を守る役割であれば、絶対にそんなことはさせない。
だから、これは綾子の本気度を確認するための試験のつもりでもあった。
だが、綾子は来た。
そして、いまのところ、大樹の目には護衛らしい人影は見当たらない。
どうやら、本当にひとりでやってきたらしい。
大樹の指示は三つだった。
ひとつ──『指定した時間と場所に、ひとりで来ること』
ふたつ──『身につけていいのは上下に一枚ずつ。それ以外は下着さえも身に付けない。持ち物は許されない』──。
みっつ──『待ち合わせの場所には、事前に渡す淫具を受け取り、装着すること』
ひとつでも破れば、もう二度と会わない。
大樹は、そう書いて送ったし、その決心だ。
しかし……。
もし綾子が、すべて従うのなら……。
……彼女の望む「復讐ごっこ」に付き合ってやってもいい……。
そう思っていた。
結果として、最後のひとつを除いて、綾子はすべての指示に従っていることが確認できた。
残る指示は、あとひとつだ。
大樹は双眼鏡を覗いたまま、テーブルの上に置いたスマートフォンを手に取った。
三崎に用意させたものだ。
足のつかない端末。
指先で画面を操作し、信号を送る。
その瞬間──。
双眼鏡の中の綾子の身体が、びくりと震えた。
膝が崩れそうになる。
だが、彼女は倒れなかった。
雑踏の中で、必死に体勢を保っている。
大樹は小さく息を吐いた。
どうやら、装置はきちんと作動しているらしい。また、綾子は最後のひとつについても、指示を守った。
大樹はほくそ笑んだ。
「……じゃあ、始めようか、綾子」
誰にも聞こえない声で呟く。
そして、コインロッカーの中に置いておいた使い捨ての携帯電話の番号へスマホから発信した。
双眼鏡の中では、綾子がまだ腰を折ったまま震えている。大樹はとりあえず、信号を送って振動を止める。
綾子が脱力したようになる。
綾子の手に握られていた携帯電話が耳に当てられた。
通話が繋がる。
大樹は、双眼鏡をおろさなかった。
「もしもし、大樹だ……」
【再会篇・完】