冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
004 今度こそ、どんな手段を使っても
「二人いて、素人ひとりにやられたの?」
綾子は声をあげた。腹のなかでは怒りが煮え狂っている。それでも、まだ我慢している。ここで爆発させれば、命令が先に出てしまう。怒鳴り散らしたところで、大樹が戻ってくるわけではない。
目の前の神崎アンナは床に跪いたまま、顔を上げない。
黒いスーツは埃と汚れでくすみ、膝の布は擦れている。腰から下は大きなバスタオルで覆われていた。綾子がリビングで見つけたとき、アンナは拘束されたまま床に倒れ、失禁していたのだ。
しかし、綾子は着替えを許さずに、報告を先にさせている。
また、大樹の世話を命じ、大樹の見張りと兼ねて護衛を指示したはずの拓哉は、地下室でアンナ同様の格好で見つけた。ただし、アンナよりもはるかに重傷であり、すでに同行の操縦手に命じて、病院に連れて行かせた。
拓哉は、腕を骨折し、右膝の関節を抜かれ、顎も砕かれていた。
本人が喋れなかったため、なにが起こったのかと、監視カメラの映像を見たが、最初に拓哉が大樹を殴り、それで仕返しをされたというのが発端だった。
そのことについても、怒りは収まらない。
綾子は、大樹を丁重に扱えと、命じてあったのだ。
すでに、夜である。
大樹が逃亡したのは、昼間のことらしく、ここまで状況把握が遅れたのは、この建物に大樹を監禁したことを秘密にするために、監視を拓哉とアンナの二人に限定したことと、大樹に使われることがないように、外部との連絡手段を屋敷に置かなかったことだ。
逃亡に際して、大樹は拓哉からも、アンナからもスマホを奪っていた。
そのうえで、ふたりの手首と足首を背中側で交差するように手錠をかけるというやり方で、完全に無力化することに成功していた。
だから、綾子がここに戻るまで、発見されることなく、ふたりとも放置されていたというわけだ。
「申し訳ありません……。でも、彼は素人では……。いえ、言い訳です。いかようにも処分を……」
アンナは、項垂れている。
綾子は数歩近づき、アンナの前で足を止めた。
「彼が素人じゃないですって? わたしは、大樹を高校生のときから知っているわ。彼は喧嘩なんて一度もしたことない。格闘技だって習ってないわ」
綾子の胸の奥では、怒りが渦を巻いている。だがそれ以上に、落ち着かない焦燥が綾子の神経をざらつかせていた。
あのまま屋敷を出るべきではなかったという思いが、鈍い棘のように残っている。
「……でもこれだけは言わせてください。彼は強い。あたしが咄嗟に先に手を出すほどに。決して油断したわけでもなんでもありません……」
アンナが膝の上でぐっと拳を握った。
だが、綾子は、珍しいことだと思った。
アンナの男嫌いは本能のようなものだと感じていたし、彼女の口から男を評価するような言葉を聞いたのは、初めてのような気がする。
それで、ほんの少しだけ頭が冷える。
確かに、監視カメラの映像で見た大樹の動きは妙に洗練されていた。身体の使い方も巧みで、なによりも圧倒的に強かった。
考えてみれば、そうでなければ、拓哉やアンナに一方的に勝てるわけがない。
あの大樹が?
綾子は怪訝に思う。
「とにかく、捜索します。すぐに」
アンナが顔をあげる。
その言葉に綾子は舌打ちで返した。アンナがびくりと震える。
「五年よ」
「えっ?」
アンナの眼が細くなる。
「大樹を見つけるために、わたしは五年かけた。そして、やっと昨夜、再会できたのよ。それをお前たちは台無しにしたの。わかっているの」
「わ、わかってます。申し訳ないとしか……」
「いえ、わかるはずなどないわ──」
綾子の声が低く落ちる。
一歩、アンナに近づく。
「わたしは、大樹を逃がさないようには命じた。でも同時に、丁重に扱うようにも指示したわ。わたし自身よりも……」
言葉を区切る。
「それが、これなの?」
「もうしわけ……」
「お前はそれしか言えないの──?」
綾子は吐き捨てた。
「とにかく、大樹に手を上げた拓哉は罷免──。お前も後任が見つかり次第、ほかの部署に回すから覚悟しなさい」
「そ、そんな。それだけは──」
アンナが悲鳴のような声をあげ、綾子の脚にすがりつく。
綾子はその手を足で蹴り払った。
「触るな──役立たず──。どうしてくれるのよ。また、五年もかけて大樹を探させるつもりなの──?」
「お許しを──。どうか挽回の機会を──」
アンナが床にひれ伏した。
綾子はしばらく黙って見下ろしていた。
怒りはまだ消えていない。だが、頭の奥では別の計算も動いている。
「……名誉挽回?」
綾子はゆっくり言った。
「は、はい、なんでもします──」
アンナが顔を上げる。
「へえ……、本当になんでもすると誓えるかしら?」
「もちろんです」
「誓えないなら、お前は用無しよ。でも、誓えるというのであれば……。まあ、考えるわ」
綾子はアンナを見下ろした。
「誓えます。喜んで」
アンナの表情が、わずかに緩む。
綾子はそれを見て、淡く笑った。
「……その言葉、忘れないようにね」
綾子は吐息とともに告げる。
「は、はい──ありがとうございます──。ああ、感謝を──」
アンナが安堵の声をあげる。
実のところ、男嫌いのアンナの恋愛の対象は女だ。アンナが密かに恋慕しているのが、綾子であることには気がついている。それを綾子は、忠誠心として利用している。今回のことは失態だが、ここでアンナを手放すのは惜しい。
大樹に戻ってもらったときには、なんとか許してやってもらいたい。
そのためには、アンナにはなんでもやってもらう。
たったいま、言質は取った。
綾子は、視線を窓の外へ向ける。
夜の闇が広がっている。
「……とにかく、大樹の行方を捜しましょう。最優先よ」
静かな声で言った。
「はい」
「それと、グループのほかの役員にはこれは知られてはならないわ。今度こそ、大樹を逃がしてはならないの」
「わかりました」
アンナが深く頷いた。
とにかく、大樹は逃がさない──。
今度こそ、どんな手段を使っても……。
だが、大樹の行方は、杳としてわからなかった。
綾子の焦燥と後悔は限界にまで膨らんだ。
その大樹から、突然に伝言が届いたのは、実に七日の時間が過ぎてからだった。
『お前は、十年前のあの日から、なにも変わってない。お前の傲慢さには反吐が出る』
それだけを書いた一通の官製葉書だった。
投函されたのは、大樹が乗り捨てた車が見つかったホームセンターの近くの郵便局だった。
ただ、住所が綾子の会社になっていて、受け取った総務の担当が悪戯と思い、放置していたのだ。
見つけてきたのは、アンナだ。
綾子はその担当者を叱責した。
そして、綾子は、その文字を見て呆然となり、しばらくして、絶望して慟哭した。
もう二度と、大樹に償うことはできない──そう思った。
しかし、次のメーセージは、さらに翌日に、思わぬ形でやってきた。