※この作品はR-18です。

冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】   作:ドン・ドナシアン

5 / 31
005 忘れてはならない二人の記念日

 五年前だった──。

 

 当時、綾子はすでに西園寺グループの役員の地位にあった。夫がグループ経営筋の直系であるため、結婚後まもなく経営側に迎えられ、いくつかの関連会社を任されていた。

 その中のひとつに、かつて綾子と大樹が共同で立ち上げた小さなソフト会社がある。

 大樹による運用資金の着服事件のあと、会社は西園寺グループの資金によって吸収され、いまは完全にグループ傘下の企業になっていた。現在は、その会社の管理も綾子の担当になっている。

 

 その日、綾子はほんの気まぐれだった。

 特別な理由があったわけではない。役員として回ってきた資料の山の中で、ふと、その会社の過去の経営資料を手に取っただけだった。

 そして、ある資金移動の数字に目を止めた。

 胸の奥に小さな違和感が走った。

 理由は説明できない。処理としては整っている。整いすぎている。事件のあとにしては資金の動きが早すぎる。まるで最初から準備されていたように見えた。

 綾子は資料を閉じた。気のせいかもしれない。それでも気になった。

 

 そこから調べ始めた。

 最初は確認のつもりだった。グループ傘下に吸収される以前の、古い資金の流れを辿るだけの作業のはずだった。

 だが終わらなかった。

 資料をひとつ掘ると次の資料が必要になる。財務記録、決裁書、関連会社の資金移動、役員会の議事録、当時の契約書。

 本来、その会社は西園寺グループの資金とは無関係のはずだった。事件のあと、救済という名目で吸収されたに過ぎない。

 

 だが調べていくうちに、不自然な記録が見つかり始めた。

 グループ系列企業との取引記録。

 説明のつかない資金移動。

 綾子はいまグループの中枢にいる。過去の記録にも手が届く立場だ。だからこそ、調べれば調べるほど見えてくるものがあった。

 

 さらに、ひとつのメモ紙を見つけた。

 いまの夫に宛てた報告らしい走り書きだった。

 それは、冤罪事件の直前の時期に、夫が動かしていた企業資料の束の中に紛れていた。

 そこに書かれていた数字を見た瞬間、綾子は息を止めた。金額は、大樹が着服したとされた金額と、完全に一致していた。

 

 違和感は、疑念へと変わった。

 綾子はさらに、資料を探した。

 数字を確認する。計算をやり直す。資金移動の経路を追う。だが結論は変わらない。

 

 これは、偶然ではない。

 この数字は、意図して作られている。

 もし、この金が最初から用意されていたのだとしたら。

 あの事件は。──作られたものになる。

 

 その日から、綾子の調査は仕事ではなくなった。

 執念になった。

 役員としての仕事を終えたあと、夜のオフィスに残った。資料室の鍵を開け、過去の契約書を洗った。

 系列企業の財務記録を辿り、決裁書を確認し、資金の流れをひとつずつ繋げていった。

 ひとつの資料を見つけるたびに、次の資料が必要になる。

 点が線になり、線が面になっていく。

 

 そして半年後──。

 綾子は理解した。

 どう見ても、仕組まれた冤罪だった。

 あの事件は、大樹を消すために作られていた。

 当時紛失したはずの運転資金は、西園寺グループに一時的に隠匿されていた。紛失については、大樹による着服だとされ、社内証言者と証拠も用意されていた。

 

 すべてが整っている。

 整いすぎている。

 綾子の手が震えた。

 そして最後に残ったのは、ただひとつの問いだった。

 

 誰が企んだのか……。

 綾子には、いまの夫としか思えなかった……。

 

 当時、綾子は大樹と婚約していた。

 だが仕事の関係で知り合った西園寺グループの御曹司──いまの夫に、しつこく迫られていた。

 事件が起きたのは、ちょうどその頃だ。

 大樹は逮捕された。

 綾子は、すでに会社の金を使い込んでいたと聞かされた。

 会社を潰さないためには、すぐにでも運転資金の穴を埋める必要があった。

 そのとき話を聞いてくれたのが、西園寺グループの御曹司だった。

 彼の仲介で資金援助が決まり、会社はなんとか持ち直した。

 そして、その縁で──綾子は彼と結婚した。

 

 綾子が最後に大樹と顔を合わせたのは、逮捕されたあの日だった。

 そのあと、一度も会いに行っていない。

 裁判にも出廷しなかった。

 法廷では、綾子の供述書だけが読み上げられたと、あとで聞かされた。

 大樹を信じなかったばかりか、自分の口で言葉を交わすことすら避けたのだ。

 

 綾子は、あの夜、夫を問い詰めた。

 酒を飲ませてから資料を机の上に叩きつけて訊ねた。

 夫は、少し考えるような顔をしてから、あっさりと言った。

 

「……ああ。五年前の話か。お前を手に入れたかったからやったんだ」

 

 夫は笑って言った。

 綾子は、凍りついた。

 

 その夜のことを、それ以上、綾子は覚えていない。

 気がついたときには、部屋は壊れていた。

 辛うじて記憶に残っているのは、そばにあった花瓶を夫の頭に叩きつけたことだけだった。

 だが夫は死ななかった。頭を割っただけだった。

 酔って転んだということにされ、夫は病院で治療を受けた。

 

 西園寺グループ創始者の直系夫婦のスキャンダルを防ぐため、事件はグループとして隠蔽された。

 大喧嘩の理由を、綾子は話さなかった。

 夫もまた、言えるわけがなかった。

 結局、ただの痴話喧嘩ということになった。

 夫には愛人が何人もいた。

 痴話喧嘩になる理由など、いくらでもあったのだ。

 なにより、その頃にはすでに、グループの中での綾子の立場は夫よりもはるかに重くなっていた。

 それ以来、離婚はしていない。

 だが、別居状態は続いている。

 

 あのときの光景は何度も蘇った。あの日、綾子は婚約者だった男を信じなかった。冤罪で捕まった大樹を疑い、そのまま距離を置き、関係は終わった。

 誰が見ても、一番の悪人は綾子だ。

 婚約者を冤罪で刑務所送りにし、会社を奪い、首謀者の男と結婚してのし上がった。

 なんというクズ女だ──。それが綾子なのだ。

 思い出すたびに、綾子は吐き続けた。胃の中のものを全部吐き。床に手をついたまま、涙も止まらなかった。

 

 そして、もうひとつの事実──。

 五年前の時点で、大樹は、すでに三年の刑を終えて出所していた。

 綾子が真実に辿り着いたときには、大樹はもう刑務所の中にすらいなかった。そして、行方不明だった。出所後の届け出住所は、すぐに空き部屋になっていた。

 

 綾子は死のうと思った。

 だが死ねなかった。綾子が死んだところで大樹の人生は戻らない。綾子は十年を奪ったのではない。彼の人生を奪ったのだ。

 綾子は眠れなくなった。夜になると、十年前の光景が何度も蘇る。薬がなければ眠れない。強い睡眠薬を常用するようになった。

 

 それから、さらに五年──。

 綾子は狂ったように働いた。会社を拡大し、資金を集め、グループの権力の中枢に食い込んだ。

 大樹に再会することがあれば、奪ったものに見合うものを、彼に与えられるように。

 同時に、大樹の行方を追い続けた。

 

 また、もうひとつのことも進めた──。

 裏切った元部下への報復だった。

 表向きにはなにも起きていない。

 だが綾子は、静かに、確実に、その男の人生を潰した。仕事を失わせ、信用を奪い、逃げ場をなくした。最後には、家族にも見放されて、自分がなぜ破滅したのかも理解できないまま、安アパートで首を括って死んだ。

 

 そして夫もまた、静かに弱っていた。

 五年かけて身体を蝕む毒だった。綾子自身が用意して、夫の愛人を使って少しずつ飲ませていった。

 いま夫は入院している。医師も買収済みであり、回復することはないだろう。

 それでも綾子は夫を殺さなかった。

 大樹が望むかもしれないからだ。

 もし大樹が復讐したいと思うなら、あの男は生きていなければならない。

 綾子自身が、自殺しなかった理由と同じだ。

 

 そして五年後、綾子はやっと大樹を見つけた。

 日雇い労働者だった。

 虫が這うような簡易宿泊所で暮らしていた。狭い部屋、湿った布団、薄汚れた廊下。埃まみれの作業服を着て、日雇いの仕事を終え、安い酒を飲んで戻るだけの生活だった。

 綾子は、大樹が不在のときに、そこに入った。

 胸が潰れそうになった。大樹は落ちていた。綾子が奪った人生の底に。

 

 綾子は、その足で大樹に会いに行った。

 場末の居酒屋だった。

 だが大樹の言葉は、復讐ではなかった。恨みでも怒りでもなかった。ただ、忘れようとしていた。綾子のことを……。

 その瞬間、綾子にはそれが、殺されるよりも重い罰のように思えた。

 

 忘却だけは、受け入れるわけにはいかなかった。

 綾子は、復讐されなければならないのだ──。

 綾子はその夜、大樹をリムジンに乗せた。再会を祝うようにビールを注いだ。綾子はグラスを持つ手を止めず、自分のバッグから小さな薬瓶を取り出した。

 五年前から常用している睡眠薬だった……。

 綾子はそれをビールに静かに混ぜた。

 

 大樹がグラスを口に運ぶのを見ながら、綾子は思った。

 逃がさない──。

 忘れさせない──。

 大樹には、自分を破滅させてもらう。

 

 そのためなら──彼をさらってでも……。

 

 

 

 

 

 綾子は、回想をやめて、社長室のソファでゆっくり目を開いた。

 窓の外は、すでに夜だった。

 

 だが、現実はさらに残酷だった。

 大樹には逃げられてしまった。

 

 監禁させていた屋敷でのことだった。

 見張りを任せていた部下が大樹に暴力を振るったのだ。

 大樹は返り討ちにした。

 部下を叩きのめし、そのまま逃げた。

 それ以来、大樹は再び行方不明になっている。

 

 数日後、一枚の葉書が届いた。

 差出人の名前はなかった。

 だが、筆跡は間違いなく大樹だった。会社宛に届いたため、不審葉書として放置されて、到着後から七日が経っていた。

 そこに、あったのは、ただ一行──。

 

 

『お前は、十年前のあの日から、なにも変わってない。お前の傲慢さには反吐が出る』

 

 

 綾子は、その場に崩れ落ちた。

 そして、声を上げて泣いた。

 号哭だった。

 

 大樹の捜索は、いまも続けさせている。

 だが、いまのところ、大樹の居場所に辿り着く手掛かりはなにもない。

 

 

 

 

 

 大樹の新たなメッセージが届いたのは、それからさらに数日後だった。

 

 会社の執務室の扉が、勢いよく開いた。

 飛び込んできたのはアンナだった。

 

 大樹捜索の全面指揮は、すべて彼女に任せてある。

 もし見つけられなければ、二度と綾子のそばでは使わない──そう言い渡してあった。

 アンナは、それこそ寝る間も惜しんで捜索していた。

 社内の人員を動かし、外部にも金をばらまき、独自に特別班まで編成していた。

 

「奥様……いえ、綾子様……」

 

 アンナは息を切らしている。

 

「大樹……様からと思われるメッセージが……」

 

「大樹から──? 中身はなに?」

 

 綾子は立ち上がった。

 

「これです」

 

 アンナは手に持っていたものを差し出した。

 小さなUSBメモリだった。

 銀色の本体に、小さなシールが貼られている。

 そこにはボールペンで、『綾子への手紙』と書かれていた。

 綾子の眉がわずかに動く。

 

「どこで見つけたの?」

 

「スマホです」

 

「スマホ?」

 

「はい。大樹様が奪った、もう一台の方です」

 

 綾子の目がわずかに細くなる。

 逃走のときに、大樹は二台のスマホを拓哉とアンナから奪っている。一台目のスマホは、すでに見つかっていた。あの屋敷から麓に下りる途中の道端に落ちていたのだ。

 だが、もう一台は違った。

 GPS信号そのものが消えていた。

 電源が切られたか、破壊されたか──。

 とにかく追跡は完全に途絶えていた。

 

「……それが見つかったの?」

 

「はい。今日になって、突然GPS信号が発信されました。それにUSBも括り付けられてました」

 

「ええっと、突然に?」

 

「はい。信号が復活しました。おそらく、大樹様の手元にあるあいだは、裏蓋を開けて電池を抜いていたんだと思います。それが改めて繋げられたので、GPSで位置がわかりました。それで回収に行くと見つかったんです。都心の公園の樹木にビニル袋に入れてぶら下げられてました」

 

 アンナは言った。

 

「つまり、大樹が意図的に信号を出した可能性が高いということね」

 

 綾子はUSBを見つめた。

 

「中身のデータですが、パスワードが掛かっていました。見てもらった方が早いかと」

 

「わかった」

 

 綾子はすぐに自分のパソコンにUSBを差した。

 数秒後、USBの中のプログラムが自動的に起動する。

 画面に、小さなウインドウが現れた。

 

 八桁の数字を入力する欄──。

 その上には、無機質な文字が表示されている。

 

 “残り回数──5”

 

 さらに、その下にもう一行──。

 

 

 『忘れてはならない二人の記念日』

 

 

「……記念日?」

 

 綾子は呟いた。

 

 ほんの数秒、考えて、すぐにひとつの数字が浮かんだ。

 大樹が、綾子にプロポーズしてくれた日だ。あの日のことを、忘れたことがない。

 

 綾子はキーボードに指を置く。

 間違えないように注意して、西暦から始まる八桁の日付をゆっくりと打ち込んでいく。

 エンターキーを押した。

 

 画面が一瞬だけ暗くなり、すぐに文字が表示された。

 

 “番号違い”──。

 

 そして表示が変わる。

 

 “残り回数──4”

 

 綾子の指が止まった。

 

「……ほかに記念日って……」

 

 綾子は呟いた。

 

 残りの余裕は四回。

 

 大樹はプログラムにも機械にも強い。

 おそらく五回間違えれば、データは完全に消失するようになっているのだろう。

 

 記念日すら思い出せない女を相手にする必要などない──。

 

 大樹がそう言っている気がした。

 

 初めてキスした日。

 初めて愛を交わした日。

 

 思いつくものはいくつかあった。

 だが、綾子は正確な日付を覚えていない。

 それとも、大樹は大事に覚えていたのだろうか。

 綾子は必死に記憶を巡らせた。

 

 そして今度は、最初に出会った日を入力することにした。

 大樹と綾子は高校一年のときに同じクラスになった。

 それが縁で交際が始まった。

 

 つまり──高校の入学式の日付──。

 

 綾子はゆっくりと数字を入力した。

 エンターキーを押す。

 画面が一瞬暗くなり、すぐに表示が変わる。

 

 

 “番号違い”

 “残り回数──3”

 

 

 綾子は小さく息を吐いた。

 だが、すぐに顔を上げる。

 

「……そうだ」

 

 大学二年の秋に二人で立ち上げたソフト会社。

 資金も人脈もなかった。

 あったのは、大樹の技術と、綾子の営業力だけだった。

 それでも二人は会社を作った。

 あの日がなければ、いまのすべては存在していない。

 

 ──二人の原点。

 

 綾子は会社設立の日付を思い浮かべた。

 登記を出した日だ。

 法務局の帰りに、二人で安い居酒屋に入った。

 

 紙の上だけの会社だった。

 だが、大樹は本気で嬉しそうに笑っていた。

 

「これで俺たちの会社だ」

 

 あの声を、綾子ははっきり覚えている。

 なにもなかった──。でも、夢だけはあった──。

 

 綾子はキーボードに指を置いた。

 西暦から始まる八桁の数字を、ゆっくりと入力する。

 エンターキーを押す。

 

 そして──。

 

 

 “番号違い”

 “残り回数──2”

 

 

 綾子の喉が小さく鳴った。

 

「……綾子様……」

 

 画面を一緒に見ていたアンナが、心配そうに声を掛けた。

 

「うるさい──話しかけないで──」

 

 綾子は怒鳴った。

 必死に頭を絞る。

 

 付き合い始めた日──。

 同棲を始めた日──。

 それとも、会社が最初の契約を取った日──。

 

 考えがめまぐるしく巡る。

 

 残りは二回。

 

 あと二度失敗すれば、データは消える。

 おそらく、大樹には二度と会えない。

 綾子には、それだけははっきりわかっていた。

 

 “忘れてはならない二人の記念日”──。

 

 どうしても、わからない。

 綾子はぐっと拳を握った。

 

 ふと視線が動く。

 数日前から、ずっと机の上に置いている葉書。

 そこに書かれている一行の文字。

 

『お前は、十年前のあの日から、なにも変わってない。お前の傲慢さには反吐が出る』

 

 十年前から、綾子はなにも変わっていない──。

 大樹のことが、わかっていないのだ。

 彼がなにを“記念日”に選んだのか。

 それすらも──。

 

 正解に辿り着けない悔しさに、綾子の頬を涙が伝った。

 

 残りは二回。

 あと一度失敗すれば、残りは一回。

 綾子の胸の奥で、心臓が早鐘のように鳴っている。

 そのとき、ふいに記憶の奥に光が差した。

 

「……そうだ」

 

 高校一年の夏。

 近所の河川敷で花火大会があった夜だ。

 帰り道の暗い歩道で、大樹が突然立ち止まった。

 

 『……あのさ、綾子。付き合ってくれないか』

 

 あのときの声。

 照れ隠しのように視線を逸らしていた顔。

 

 ──あの日だ。

 

 綾子の唇がわずかに震える。

 

 「あの日……」

 

 忘れてはならない日だった。

 大樹が、初めて綾子に交際を申し込んでくれた日──。

 

 綾子はスマホを取り上げた。

 花火大会の日付なら、すぐにわかる。

 検索すると、すぐに答えが出た。

 その年の開催日。

 

 綾子はゆっくりとキーボードに指を置いた。

 八桁の数字を打ち込む。

 

 そして──。

 

 

 “番号違い”

 “残り回数──1”

 

 

 綾子の呼吸が止まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。