冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
五年前だった──。
当時、綾子はすでに西園寺グループの役員の地位にあった。夫がグループ経営筋の直系であるため、結婚後まもなく経営側に迎えられ、いくつかの関連会社を任されていた。
その中のひとつに、かつて綾子と大樹が共同で立ち上げた小さなソフト会社がある。
大樹による運用資金の着服事件のあと、会社は西園寺グループの資金によって吸収され、いまは完全にグループ傘下の企業になっていた。現在は、その会社の管理も綾子の担当になっている。
その日、綾子はほんの気まぐれだった。
特別な理由があったわけではない。役員として回ってきた資料の山の中で、ふと、その会社の過去の経営資料を手に取っただけだった。
そして、ある資金移動の数字に目を止めた。
胸の奥に小さな違和感が走った。
理由は説明できない。処理としては整っている。整いすぎている。事件のあとにしては資金の動きが早すぎる。まるで最初から準備されていたように見えた。
綾子は資料を閉じた。気のせいかもしれない。それでも気になった。
そこから調べ始めた。
最初は確認のつもりだった。グループ傘下に吸収される以前の、古い資金の流れを辿るだけの作業のはずだった。
だが終わらなかった。
資料をひとつ掘ると次の資料が必要になる。財務記録、決裁書、関連会社の資金移動、役員会の議事録、当時の契約書。
本来、その会社は西園寺グループの資金とは無関係のはずだった。事件のあと、救済という名目で吸収されたに過ぎない。
だが調べていくうちに、不自然な記録が見つかり始めた。
グループ系列企業との取引記録。
説明のつかない資金移動。
綾子はいまグループの中枢にいる。過去の記録にも手が届く立場だ。だからこそ、調べれば調べるほど見えてくるものがあった。
さらに、ひとつのメモ紙を見つけた。
いまの夫に宛てた報告らしい走り書きだった。
それは、冤罪事件の直前の時期に、夫が動かしていた企業資料の束の中に紛れていた。
そこに書かれていた数字を見た瞬間、綾子は息を止めた。金額は、大樹が着服したとされた金額と、完全に一致していた。
違和感は、疑念へと変わった。
綾子はさらに、資料を探した。
数字を確認する。計算をやり直す。資金移動の経路を追う。だが結論は変わらない。
これは、偶然ではない。
この数字は、意図して作られている。
もし、この金が最初から用意されていたのだとしたら。
あの事件は。──作られたものになる。
その日から、綾子の調査は仕事ではなくなった。
執念になった。
役員としての仕事を終えたあと、夜のオフィスに残った。資料室の鍵を開け、過去の契約書を洗った。
系列企業の財務記録を辿り、決裁書を確認し、資金の流れをひとつずつ繋げていった。
ひとつの資料を見つけるたびに、次の資料が必要になる。
点が線になり、線が面になっていく。
そして半年後──。
綾子は理解した。
どう見ても、仕組まれた冤罪だった。
あの事件は、大樹を消すために作られていた。
当時紛失したはずの運転資金は、西園寺グループに一時的に隠匿されていた。紛失については、大樹による着服だとされ、社内証言者と証拠も用意されていた。
すべてが整っている。
整いすぎている。
綾子の手が震えた。
そして最後に残ったのは、ただひとつの問いだった。
誰が企んだのか……。
綾子には、いまの夫としか思えなかった……。
当時、綾子は大樹と婚約していた。
だが仕事の関係で知り合った西園寺グループの御曹司──いまの夫に、しつこく迫られていた。
事件が起きたのは、ちょうどその頃だ。
大樹は逮捕された。
綾子は、すでに会社の金を使い込んでいたと聞かされた。
会社を潰さないためには、すぐにでも運転資金の穴を埋める必要があった。
そのとき話を聞いてくれたのが、西園寺グループの御曹司だった。
彼の仲介で資金援助が決まり、会社はなんとか持ち直した。
そして、その縁で──綾子は彼と結婚した。
綾子が最後に大樹と顔を合わせたのは、逮捕されたあの日だった。
そのあと、一度も会いに行っていない。
裁判にも出廷しなかった。
法廷では、綾子の供述書だけが読み上げられたと、あとで聞かされた。
大樹を信じなかったばかりか、自分の口で言葉を交わすことすら避けたのだ。
綾子は、あの夜、夫を問い詰めた。
酒を飲ませてから資料を机の上に叩きつけて訊ねた。
夫は、少し考えるような顔をしてから、あっさりと言った。
「……ああ。五年前の話か。お前を手に入れたかったからやったんだ」
夫は笑って言った。
綾子は、凍りついた。
その夜のことを、それ以上、綾子は覚えていない。
気がついたときには、部屋は壊れていた。
辛うじて記憶に残っているのは、そばにあった花瓶を夫の頭に叩きつけたことだけだった。
だが夫は死ななかった。頭を割っただけだった。
酔って転んだということにされ、夫は病院で治療を受けた。
西園寺グループ創始者の直系夫婦のスキャンダルを防ぐため、事件はグループとして隠蔽された。
大喧嘩の理由を、綾子は話さなかった。
夫もまた、言えるわけがなかった。
結局、ただの痴話喧嘩ということになった。
夫には愛人が何人もいた。
痴話喧嘩になる理由など、いくらでもあったのだ。
なにより、その頃にはすでに、グループの中での綾子の立場は夫よりもはるかに重くなっていた。
それ以来、離婚はしていない。
だが、別居状態は続いている。
あのときの光景は何度も蘇った。あの日、綾子は婚約者だった男を信じなかった。冤罪で捕まった大樹を疑い、そのまま距離を置き、関係は終わった。
誰が見ても、一番の悪人は綾子だ。
婚約者を冤罪で刑務所送りにし、会社を奪い、首謀者の男と結婚してのし上がった。
なんというクズ女だ──。それが綾子なのだ。
思い出すたびに、綾子は吐き続けた。胃の中のものを全部吐き。床に手をついたまま、涙も止まらなかった。
そして、もうひとつの事実──。
五年前の時点で、大樹は、すでに三年の刑を終えて出所していた。
綾子が真実に辿り着いたときには、大樹はもう刑務所の中にすらいなかった。そして、行方不明だった。出所後の届け出住所は、すぐに空き部屋になっていた。
綾子は死のうと思った。
だが死ねなかった。綾子が死んだところで大樹の人生は戻らない。綾子は十年を奪ったのではない。彼の人生を奪ったのだ。
綾子は眠れなくなった。夜になると、十年前の光景が何度も蘇る。薬がなければ眠れない。強い睡眠薬を常用するようになった。
それから、さらに五年──。
綾子は狂ったように働いた。会社を拡大し、資金を集め、グループの権力の中枢に食い込んだ。
大樹に再会することがあれば、奪ったものに見合うものを、彼に与えられるように。
同時に、大樹の行方を追い続けた。
また、もうひとつのことも進めた──。
裏切った元部下への報復だった。
表向きにはなにも起きていない。
だが綾子は、静かに、確実に、その男の人生を潰した。仕事を失わせ、信用を奪い、逃げ場をなくした。最後には、家族にも見放されて、自分がなぜ破滅したのかも理解できないまま、安アパートで首を括って死んだ。
そして夫もまた、静かに弱っていた。
五年かけて身体を蝕む毒だった。綾子自身が用意して、夫の愛人を使って少しずつ飲ませていった。
いま夫は入院している。医師も買収済みであり、回復することはないだろう。
それでも綾子は夫を殺さなかった。
大樹が望むかもしれないからだ。
もし大樹が復讐したいと思うなら、あの男は生きていなければならない。
綾子自身が、自殺しなかった理由と同じだ。
そして五年後、綾子はやっと大樹を見つけた。
日雇い労働者だった。
虫が這うような簡易宿泊所で暮らしていた。狭い部屋、湿った布団、薄汚れた廊下。埃まみれの作業服を着て、日雇いの仕事を終え、安い酒を飲んで戻るだけの生活だった。
綾子は、大樹が不在のときに、そこに入った。
胸が潰れそうになった。大樹は落ちていた。綾子が奪った人生の底に。
綾子は、その足で大樹に会いに行った。
場末の居酒屋だった。
だが大樹の言葉は、復讐ではなかった。恨みでも怒りでもなかった。ただ、忘れようとしていた。綾子のことを……。
その瞬間、綾子にはそれが、殺されるよりも重い罰のように思えた。
忘却だけは、受け入れるわけにはいかなかった。
綾子は、復讐されなければならないのだ──。
綾子はその夜、大樹をリムジンに乗せた。再会を祝うようにビールを注いだ。綾子はグラスを持つ手を止めず、自分のバッグから小さな薬瓶を取り出した。
五年前から常用している睡眠薬だった……。
綾子はそれをビールに静かに混ぜた。
大樹がグラスを口に運ぶのを見ながら、綾子は思った。
逃がさない──。
忘れさせない──。
大樹には、自分を破滅させてもらう。
そのためなら──彼をさらってでも……。
綾子は、回想をやめて、社長室のソファでゆっくり目を開いた。
窓の外は、すでに夜だった。
だが、現実はさらに残酷だった。
大樹には逃げられてしまった。
監禁させていた屋敷でのことだった。
見張りを任せていた部下が大樹に暴力を振るったのだ。
大樹は返り討ちにした。
部下を叩きのめし、そのまま逃げた。
それ以来、大樹は再び行方不明になっている。
数日後、一枚の葉書が届いた。
差出人の名前はなかった。
だが、筆跡は間違いなく大樹だった。会社宛に届いたため、不審葉書として放置されて、到着後から七日が経っていた。
そこに、あったのは、ただ一行──。
『お前は、十年前のあの日から、なにも変わってない。お前の傲慢さには反吐が出る』
綾子は、その場に崩れ落ちた。
そして、声を上げて泣いた。
号哭だった。
大樹の捜索は、いまも続けさせている。
だが、いまのところ、大樹の居場所に辿り着く手掛かりはなにもない。
大樹の新たなメッセージが届いたのは、それからさらに数日後だった。
会社の執務室の扉が、勢いよく開いた。
飛び込んできたのはアンナだった。
大樹捜索の全面指揮は、すべて彼女に任せてある。
もし見つけられなければ、二度と綾子のそばでは使わない──そう言い渡してあった。
アンナは、それこそ寝る間も惜しんで捜索していた。
社内の人員を動かし、外部にも金をばらまき、独自に特別班まで編成していた。
「奥様……いえ、綾子様……」
アンナは息を切らしている。
「大樹……様からと思われるメッセージが……」
「大樹から──? 中身はなに?」
綾子は立ち上がった。
「これです」
アンナは手に持っていたものを差し出した。
小さなUSBメモリだった。
銀色の本体に、小さなシールが貼られている。
そこにはボールペンで、『綾子への手紙』と書かれていた。
綾子の眉がわずかに動く。
「どこで見つけたの?」
「スマホです」
「スマホ?」
「はい。大樹様が奪った、もう一台の方です」
綾子の目がわずかに細くなる。
逃走のときに、大樹は二台のスマホを拓哉とアンナから奪っている。一台目のスマホは、すでに見つかっていた。あの屋敷から麓に下りる途中の道端に落ちていたのだ。
だが、もう一台は違った。
GPS信号そのものが消えていた。
電源が切られたか、破壊されたか──。
とにかく追跡は完全に途絶えていた。
「……それが見つかったの?」
「はい。今日になって、突然GPS信号が発信されました。それにUSBも括り付けられてました」
「ええっと、突然に?」
「はい。信号が復活しました。おそらく、大樹様の手元にあるあいだは、裏蓋を開けて電池を抜いていたんだと思います。それが改めて繋げられたので、GPSで位置がわかりました。それで回収に行くと見つかったんです。都心の公園の樹木にビニル袋に入れてぶら下げられてました」
アンナは言った。
「つまり、大樹が意図的に信号を出した可能性が高いということね」
綾子はUSBを見つめた。
「中身のデータですが、パスワードが掛かっていました。見てもらった方が早いかと」
「わかった」
綾子はすぐに自分のパソコンにUSBを差した。
数秒後、USBの中のプログラムが自動的に起動する。
画面に、小さなウインドウが現れた。
八桁の数字を入力する欄──。
その上には、無機質な文字が表示されている。
“残り回数──5”
さらに、その下にもう一行──。
『忘れてはならない二人の記念日』
「……記念日?」
綾子は呟いた。
ほんの数秒、考えて、すぐにひとつの数字が浮かんだ。
大樹が、綾子にプロポーズしてくれた日だ。あの日のことを、忘れたことがない。
綾子はキーボードに指を置く。
間違えないように注意して、西暦から始まる八桁の日付をゆっくりと打ち込んでいく。
エンターキーを押した。
画面が一瞬だけ暗くなり、すぐに文字が表示された。
“番号違い”──。
そして表示が変わる。
“残り回数──4”
綾子の指が止まった。
「……ほかに記念日って……」
綾子は呟いた。
残りの余裕は四回。
大樹はプログラムにも機械にも強い。
おそらく五回間違えれば、データは完全に消失するようになっているのだろう。
記念日すら思い出せない女を相手にする必要などない──。
大樹がそう言っている気がした。
初めてキスした日。
初めて愛を交わした日。
思いつくものはいくつかあった。
だが、綾子は正確な日付を覚えていない。
それとも、大樹は大事に覚えていたのだろうか。
綾子は必死に記憶を巡らせた。
そして今度は、最初に出会った日を入力することにした。
大樹と綾子は高校一年のときに同じクラスになった。
それが縁で交際が始まった。
つまり──高校の入学式の日付──。
綾子はゆっくりと数字を入力した。
エンターキーを押す。
画面が一瞬暗くなり、すぐに表示が変わる。
“番号違い”
“残り回数──3”
綾子は小さく息を吐いた。
だが、すぐに顔を上げる。
「……そうだ」
大学二年の秋に二人で立ち上げたソフト会社。
資金も人脈もなかった。
あったのは、大樹の技術と、綾子の営業力だけだった。
それでも二人は会社を作った。
あの日がなければ、いまのすべては存在していない。
──二人の原点。
綾子は会社設立の日付を思い浮かべた。
登記を出した日だ。
法務局の帰りに、二人で安い居酒屋に入った。
紙の上だけの会社だった。
だが、大樹は本気で嬉しそうに笑っていた。
「これで俺たちの会社だ」
あの声を、綾子ははっきり覚えている。
なにもなかった──。でも、夢だけはあった──。
綾子はキーボードに指を置いた。
西暦から始まる八桁の数字を、ゆっくりと入力する。
エンターキーを押す。
そして──。
“番号違い”
“残り回数──2”
綾子の喉が小さく鳴った。
「……綾子様……」
画面を一緒に見ていたアンナが、心配そうに声を掛けた。
「うるさい──話しかけないで──」
綾子は怒鳴った。
必死に頭を絞る。
付き合い始めた日──。
同棲を始めた日──。
それとも、会社が最初の契約を取った日──。
考えがめまぐるしく巡る。
残りは二回。
あと二度失敗すれば、データは消える。
おそらく、大樹には二度と会えない。
綾子には、それだけははっきりわかっていた。
“忘れてはならない二人の記念日”──。
どうしても、わからない。
綾子はぐっと拳を握った。
ふと視線が動く。
数日前から、ずっと机の上に置いている葉書。
そこに書かれている一行の文字。
『お前は、十年前のあの日から、なにも変わってない。お前の傲慢さには反吐が出る』
十年前から、綾子はなにも変わっていない──。
大樹のことが、わかっていないのだ。
彼がなにを“記念日”に選んだのか。
それすらも──。
正解に辿り着けない悔しさに、綾子の頬を涙が伝った。
残りは二回。
あと一度失敗すれば、残りは一回。
綾子の胸の奥で、心臓が早鐘のように鳴っている。
そのとき、ふいに記憶の奥に光が差した。
「……そうだ」
高校一年の夏。
近所の河川敷で花火大会があった夜だ。
帰り道の暗い歩道で、大樹が突然立ち止まった。
『……あのさ、綾子。付き合ってくれないか』
あのときの声。
照れ隠しのように視線を逸らしていた顔。
──あの日だ。
綾子の唇がわずかに震える。
「あの日……」
忘れてはならない日だった。
大樹が、初めて綾子に交際を申し込んでくれた日──。
綾子はスマホを取り上げた。
花火大会の日付なら、すぐにわかる。
検索すると、すぐに答えが出た。
その年の開催日。
綾子はゆっくりとキーボードに指を置いた。
八桁の数字を打ち込む。
そして──。
“番号違い”
“残り回数──1”
綾子の呼吸が止まった。