冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
残り回数──1。
“忘れてはならない二人の記念日”……。
綾子の指が、キーボードの上で止まった。
呼吸が浅い。胸の奥で心臓が早鐘のように鳴っている。
高校の入学式。
同じ教室で初めて大樹と出会った日。
夏の花火大会。
帰り道の暗い歩道で、大樹がぎこちなく言った。
──付き合ってくれないか。
会社を作った日。
法務局の帰りに、二人で安い居酒屋に入った。
プロポーズの日。
将来を一緒に歩こうと言ってくれた夜。
どれも違う。
だが、まだある。
初めてキスをした日……。
初めて体を重ねた夜……。
同じ大学に合格した日……。
学生のまま作った会社が、少しずつ大きくなっていった日々……。
同棲を始めて……愛を深めていき……。
営業に走り回り、契約を取り、社員が増え、仕事は忙しくなっていった。
二人の人生は、そこから加速していった。
そして──あの事件……。
大樹がどの日を"記念日”に選んだのか……。
試されている。
綾子は、そう思った。
“忘れてはならない二人の記念日”──。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
忘れてはならない……。
綾子は、はっとした。
「……忘れてはならない」
小さく呟く。
いまの自分が、絶対に忘れてはならない日……。
それは、恋人になった日ではない。
キスをした日でもない。
会社を作った日でもない。
忘れてはならないのは──贖罪すべき罪の日……。
裁判所で、大樹の刑が確定した日──。
大樹は、高裁の判決を受け入れた。上告はしなかった。
その日こそが──綾子の罪の日だった。
綾子は、机の引き出しを開けた。あの横領事件を調べ直したときに作ったファイルだ。確認をして、高裁で判決が確定した日を正確に入力する。
これですべてが決まる。
何度も確かめる。
綾子は、震える指をエンターキーに持っていく。
「……違う」
綾子は指を戻した。
大樹が答えを求めているのは、“二人の記念日”だ。
一審の判決も、二審の判決も──刑期が終わった日も──。
大樹はずっと独りだった。
綾子はいなかった。
再会した夜、大樹は言った。
もう終わったことだ、と。
ならば──。
数日前に居酒屋で再会した日の数字を入力した。
綾子にとっては、忘れられない日だ。
だが、すぐに消す。
これも、違う──。
大樹が「忘れてはならない」と告げているのは……。
綾子は、別の日付を入力する。
大樹が逮捕された日だ。
逮捕された大樹に、綾子は面会に行かなかった。
会社を立て直すための資金繰りを優先した。
裁判にも出廷しなかった。
綾子と大樹が最後に顔を合わせたのは──その日。
つまりは、忘れてはならない二人の記念日とは……。
愛が終わった日──。
一瞬の躊躇いのあと、綾子はエンターキーを押した。
画面が変わり、"綾子へ"から始まる文章から始まる次の画面が表示された。
綾子は安堵で脱力した。
文字を追う。
“綾子へ。
この文章を読んでいるということは、正解に辿り着いたのだな。
お前は昔から記憶力がいい。人の名前も、商談の数字も、契約の条文も、全部覚えていた。俺はよく感心していたものだ。
だが、お前は一番大事なことを忘れる。
それが、お前だ。
だから、"あの日"を思い出せたなら、それだけで十分だ。
あの日、会社に警察が来た。俺は連れて行かれた。社員たちはざわついていた。
お前は、何も言わなかった。
俺は、お前が信じてくれると思っていた。
だが違った。
お前は、そのあと一度も会いに来なかった。
それだけの話だ。
いまさら、恨んでいるわけじゃない。十年もあれば、人はだいたいのことを忘れる。
俺も忘れた。
お前とのことも、一緒に作った会社のことも、全部だ。
だから、あの夜、居酒屋で再会したとき、俺は本当に驚いた。
お前は、十年も経っているとは思えないくらい、まだ綺麗だった。
ただ、顔色が悪かった。
眠れているのか。
ちゃんと食事はしているのか。
働き過ぎてはいないのか。
そんなことが気になった。
お前が、あんな顔をするとは思っていなかった。もう、俺のことは忘れていると思っていた。
お前はいつも、自分の道をまっすぐ進む女だった。
だから俺は好きだった。
それが全部終わったのが、あの日だ。
もしも、俺のことをまだ引きずっているなら、お前には辛いことなのかもしれないが、もう忘れろ。
新しい人生を進む努力をしろ。
俺のことで、自分の人生まで壊す必要はない。
お前が答えに辿り着けたなら、それでいい。
もう一度言う。
俺はお前を恨んでいない。
ただ、あの日を思い出せたなら十分だ。だが、もう思い出さなくていい。
それだけだ。
お前との別れの選択を準備した。下の選択を押して、新しい人生を進め。
──大樹”
手紙の文字が上からゆっくりと消えていき、"Adieu" の文字が書かれた選択ボタンが画面の真ん中に現れた。
フランス語だ。"Adieu"──"永遠の別れ"。
綾子の視界が滲んだ。
文字が揺れる。
読み終わる前に、涙が頬を伝った。
息がうまく吸えない。
胸の奥が締めつけられるように痛い。
綾子は両手で顔を覆った。
「……大樹……」
声にならない声が漏れる。
涙が止まらなかった。
肩が震える。
嗚咽がこみ上げる。
綾子は、机に突っ伏した。
画面の文字は、もう見えない。
それでも、頭の中にははっきり残っていた。
もう、思い出さなくていい。
その一行だけが、何度も何度も、胸の奥で繰り返されていた。
「綾子様──。画面を──」
すると、背後で静かに見守っていたアンナの慌てたような声が飛んだ。
顔をあげると、"Adieu"の下に、言葉とともに、さらに選択肢が出現していた。
"追記──。しかし、お前がそれでは納得できないという場合に限り、別の選択肢をやろう。ここからは、遊びの時間だ。JUSTINE / JULIETTE、好きな方を選べ"
その下に、二つのボタンが並んでいた。
JUSTINE
JULIETTE
呆然としていた綾子は、思わず「ふふ」と笑ってしまった。
すると、アンナが遠慮がちに訊ねた。
「……どういう意味でしょうか?」
綾子は画面を見つめたまま、小さく笑った。
「マルキ・ド・サドの小説よ。ジュスティーヌとジュリエット。美徳の女と、悪徳の女の物語。ジュスティーヌは善人で、いつも被害者。ジュリエットは罪を犯す側。大樹はこういう文学が好きだったの。文学だけじゃなく──そんな遊びもね」
「遊び……ですか?」
アンナが少し戸惑った顔をする。
「昔ね……。とにかく、これは、わたしがどちらを選ぶのかという選択肢よ」
「……どちらの女を選ぶか……ですか?」
「そういうこと」
綾子は小さく肩をすくめた。
「どちらを選べば?」
アンナが画面に視線を向け直す。
綾子は、くすりと笑ってしまった。
「決まっているわ。わたしのような女が、ジュスティーヌのはずがない。わたしは、悪徳の女。ジュリエットだわ」
綾子は迷わず JULIETTE をクリックした。
さらに画面が切り替わる。
"お前が悪徳の JULIETTE であれば、遠慮なく遊んでやろう。
再会の場所は、俺たちが最初にデートしたときに待ち合わせた駅。待ち合わせた場所に一番近いコインロッカーに、場所と指示が置いてある。ロッカー番号と暗証番号は……”
数字が書いてあり、さらに文字が続く。
綾子は素早く、写真で画面メモした。
すぐに続く文章を追う。
”そこにいるのがお前ひとりなのか、ほかにもいるのかはわからないが、その場所は誰にも教えるな。
来るのもお前ひとりだ。
もしも、誰かを連れてきたり、お前を護衛させたりすれば、俺は二度とお前には会わない。
なお、待つのは、6時間だけだ。
遅れれば、やはり俺に会える機会はなくなる
──大樹”
すると、画面の下に、カウントダウンの数字が出現した。
"5:59:55" ──。
数字はどんどん減っていく。それだけじゃなく、USBを繋げているノートパソコンから、ネットを通じて、どこかへデータが送信されたのもわかった。
新しい文章がまたもや出現した。
"思い出の場所には、ロワシーの館に向かう格好で来い。
意味は、覚えているはずだ。
じゃあ、遊びの始まりだ──。"
綾子は立ちあがる。
六時間後──。
夕方──十六時二十分頃──。
最初のデートの待ち合わせ場所──。
はっきりと覚えている。
高校一年生のときの五月の連休。
新幹線も通る、あの巨大な駅。
水族館のある側の改札口の前で大樹と待ち合わせた。
綾子と大樹の始まりの場所でもある──。
そこで大樹に会えるのだ──。
綾子は、バッグとコートを掴んだ。
最後に大樹が指示した意味もわかった。
綾子は、戦慄と胸の疼きを隠すことができなかった。
「お待ちください。危険です。あの男におひとりで会われるのは──」
アンナが声をあげる。
綾子はせせら笑った。
「危険? それがわたしの望みだわ。言っておくけど、ついてきたら殺すから」
綾子は、さっきのメモをバッグにしまうと、扉に向かいながら、振り返ることなく言った。