※この作品はR-18です。

冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】   作:ドン・ドナシアン

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006 Adieu──永遠の別れ

 残り回数──1。

 

 “忘れてはならない二人の記念日”……。

 

 綾子の指が、キーボードの上で止まった。

 呼吸が浅い。胸の奥で心臓が早鐘のように鳴っている。

 

 高校の入学式。

 同じ教室で初めて大樹と出会った日。

 

 夏の花火大会。

 帰り道の暗い歩道で、大樹がぎこちなく言った。

 ──付き合ってくれないか。

 

 会社を作った日。

 法務局の帰りに、二人で安い居酒屋に入った。

 

 プロポーズの日。

 将来を一緒に歩こうと言ってくれた夜。

 

 どれも違う。

 だが、まだある。

 

 初めてキスをした日……。

 初めて体を重ねた夜……。

 同じ大学に合格した日……。

 学生のまま作った会社が、少しずつ大きくなっていった日々……。

 同棲を始めて……愛を深めていき……。

 営業に走り回り、契約を取り、社員が増え、仕事は忙しくなっていった。

 二人の人生は、そこから加速していった。

 

 そして──あの事件……。

 

 大樹がどの日を"記念日”に選んだのか……。

 試されている。

 綾子は、そう思った。

 

 “忘れてはならない二人の記念日”──。

 

 その言葉が、頭の中で何度も反響する。

 

 忘れてはならない……。

 

 綾子は、はっとした。

 

「……忘れてはならない」

 

 小さく呟く。

 いまの自分が、絶対に忘れてはならない日……。

 

 それは、恋人になった日ではない。

 キスをした日でもない。

 会社を作った日でもない。

 忘れてはならないのは──贖罪すべき罪の日……。

 

 裁判所で、大樹の刑が確定した日──。

 大樹は、高裁の判決を受け入れた。上告はしなかった。

 その日こそが──綾子の罪の日だった。

 

 綾子は、机の引き出しを開けた。あの横領事件を調べ直したときに作ったファイルだ。確認をして、高裁で判決が確定した日を正確に入力する。

 これですべてが決まる。

 何度も確かめる。

 綾子は、震える指をエンターキーに持っていく。

 

「……違う」

 

 綾子は指を戻した。

 大樹が答えを求めているのは、“二人の記念日”だ。

 

 一審の判決も、二審の判決も──刑期が終わった日も──。

 大樹はずっと独りだった。

 綾子はいなかった。

 

 再会した夜、大樹は言った。

 

 もう終わったことだ、と。

 

 ならば──。

 数日前に居酒屋で再会した日の数字を入力した。

 綾子にとっては、忘れられない日だ。

 だが、すぐに消す。

 

 これも、違う──。

 

 大樹が「忘れてはならない」と告げているのは……。

 

 綾子は、別の日付を入力する。

 

 大樹が逮捕された日だ。

 逮捕された大樹に、綾子は面会に行かなかった。

 会社を立て直すための資金繰りを優先した。

 裁判にも出廷しなかった。

 

 綾子と大樹が最後に顔を合わせたのは──その日。

 つまりは、忘れてはならない二人の記念日とは……。

 

 愛が終わった日──。

 

 一瞬の躊躇いのあと、綾子はエンターキーを押した。

 

 画面が変わり、"綾子へ"から始まる文章から始まる次の画面が表示された。

 

 綾子は安堵で脱力した。

 文字を追う。

 

 

 

“綾子へ。

 

 この文章を読んでいるということは、正解に辿り着いたのだな。

 

 お前は昔から記憶力がいい。人の名前も、商談の数字も、契約の条文も、全部覚えていた。俺はよく感心していたものだ。

 

 だが、お前は一番大事なことを忘れる。

 それが、お前だ。

 

 だから、"あの日"を思い出せたなら、それだけで十分だ。

 

 あの日、会社に警察が来た。俺は連れて行かれた。社員たちはざわついていた。

 お前は、何も言わなかった。

 俺は、お前が信じてくれると思っていた。

 だが違った。

 お前は、そのあと一度も会いに来なかった。

 それだけの話だ。

 

 いまさら、恨んでいるわけじゃない。十年もあれば、人はだいたいのことを忘れる。

 俺も忘れた。

 お前とのことも、一緒に作った会社のことも、全部だ。

 

 だから、あの夜、居酒屋で再会したとき、俺は本当に驚いた。

 お前は、十年も経っているとは思えないくらい、まだ綺麗だった。

 ただ、顔色が悪かった。

 

 眠れているのか。

 ちゃんと食事はしているのか。

 働き過ぎてはいないのか。

 

 そんなことが気になった。

 お前が、あんな顔をするとは思っていなかった。もう、俺のことは忘れていると思っていた。

 

 お前はいつも、自分の道をまっすぐ進む女だった。

 だから俺は好きだった。

 それが全部終わったのが、あの日だ。

 

 もしも、俺のことをまだ引きずっているなら、お前には辛いことなのかもしれないが、もう忘れろ。

 新しい人生を進む努力をしろ。

 

 俺のことで、自分の人生まで壊す必要はない。

 お前が答えに辿り着けたなら、それでいい。

 

 もう一度言う。

 俺はお前を恨んでいない。

 ただ、あの日を思い出せたなら十分だ。だが、もう思い出さなくていい。

 

 それだけだ。

 

 お前との別れの選択を準備した。下の選択を押して、新しい人生を進め。

 

 

 ──大樹”

 

 

 

 手紙の文字が上からゆっくりと消えていき、"Adieu" の文字が書かれた選択ボタンが画面の真ん中に現れた。

 

 フランス語だ。"Adieu"──"永遠の別れ"。

 

 綾子の視界が滲んだ。

 文字が揺れる。

 読み終わる前に、涙が頬を伝った。

 

 息がうまく吸えない。

 胸の奥が締めつけられるように痛い。

 綾子は両手で顔を覆った。

 

「……大樹……」

 

 声にならない声が漏れる。

 涙が止まらなかった。

 肩が震える。

 嗚咽がこみ上げる。

 

 綾子は、机に突っ伏した。

 画面の文字は、もう見えない。

 それでも、頭の中にははっきり残っていた。

 

 もう、思い出さなくていい。

 

 その一行だけが、何度も何度も、胸の奥で繰り返されていた。

 

「綾子様──。画面を──」

 

 すると、背後で静かに見守っていたアンナの慌てたような声が飛んだ。

 顔をあげると、"Adieu"の下に、言葉とともに、さらに選択肢が出現していた。

 

 

 "追記──。しかし、お前がそれでは納得できないという場合に限り、別の選択肢をやろう。ここからは、遊びの時間だ。JUSTINE / JULIETTE、好きな方を選べ"

 

 

 その下に、二つのボタンが並んでいた。

 

 JUSTINE

 JULIETTE

 

 呆然としていた綾子は、思わず「ふふ」と笑ってしまった。

 すると、アンナが遠慮がちに訊ねた。

 

「……どういう意味でしょうか?」

 

 綾子は画面を見つめたまま、小さく笑った。

 

「マルキ・ド・サドの小説よ。ジュスティーヌとジュリエット。美徳の女と、悪徳の女の物語。ジュスティーヌは善人で、いつも被害者。ジュリエットは罪を犯す側。大樹はこういう文学が好きだったの。文学だけじゃなく──そんな遊びもね」

 

「遊び……ですか?」

 

 アンナが少し戸惑った顔をする。

 

「昔ね……。とにかく、これは、わたしがどちらを選ぶのかという選択肢よ」

 

「……どちらの女を選ぶか……ですか?」

 

「そういうこと」

 

 綾子は小さく肩をすくめた。

 

「どちらを選べば?」

 

 アンナが画面に視線を向け直す。

 綾子は、くすりと笑ってしまった。

 

「決まっているわ。わたしのような女が、ジュスティーヌのはずがない。わたしは、悪徳の女。ジュリエットだわ」

 

 綾子は迷わず JULIETTE をクリックした。

 さらに画面が切り替わる。

 

 

 "お前が悪徳の JULIETTE であれば、遠慮なく遊んでやろう。

 再会の場所は、俺たちが最初にデートしたときに待ち合わせた駅。待ち合わせた場所に一番近いコインロッカーに、場所と指示が置いてある。ロッカー番号と暗証番号は……”

 

 

 

 数字が書いてあり、さらに文字が続く。

 綾子は素早く、写真で画面メモした。

 すぐに続く文章を追う。

 

 

 

 ”そこにいるのがお前ひとりなのか、ほかにもいるのかはわからないが、その場所は誰にも教えるな。

 来るのもお前ひとりだ。

 もしも、誰かを連れてきたり、お前を護衛させたりすれば、俺は二度とお前には会わない。

 

 なお、待つのは、6時間だけだ。

 遅れれば、やはり俺に会える機会はなくなる

 

 ──大樹”

 

 

 すると、画面の下に、カウントダウンの数字が出現した。

 

 "5:59:55" ──。

 

 数字はどんどん減っていく。それだけじゃなく、USBを繋げているノートパソコンから、ネットを通じて、どこかへデータが送信されたのもわかった。

 新しい文章がまたもや出現した。

 

 

 

 "思い出の場所には、ロワシーの館に向かう格好で来い。

 意味は、覚えているはずだ。

 

 じゃあ、遊びの始まりだ──。"

 

 

 

 綾子は立ちあがる。

 六時間後──。

 夕方──十六時二十分頃──。

 

 最初のデートの待ち合わせ場所──。

 はっきりと覚えている。

 高校一年生のときの五月の連休。

 新幹線も通る、あの巨大な駅。

 水族館のある側の改札口の前で大樹と待ち合わせた。

 

 綾子と大樹の始まりの場所でもある──。

 そこで大樹に会えるのだ──。

 綾子は、バッグとコートを掴んだ。

 

 最後に大樹が指示した意味もわかった。

 綾子は、戦慄と胸の疼きを隠すことができなかった。

 

「お待ちください。危険です。あの男におひとりで会われるのは──」

 

 アンナが声をあげる。

 綾子はせせら笑った。

 

「危険? それがわたしの望みだわ。言っておくけど、ついてきたら殺すから」

 

 綾子は、さっきのメモをバッグにしまうと、扉に向かいながら、振り返ることなく言った。

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