冤罪で俺の人生を奪った元恋人が、俺の人生を買いに来た話【完結】 作:ドン・ドナシアン
改札を抜けた瞬間、ただでさえ激しかった喧噪が、巨大な駅のざわめきとなって身体にぶつかってきた。
発車案内のアナウンス。電子音。靴底が床を叩く無数の足音。キャリーバッグの車輪が擦れる乾いた音。人の声が重なり、天井の高い構内で反響している。
平日の昼間だというのに、流れる人の数はまったく減らない。
スーツ姿の会社員、学生、買い物帰りらしい女、観光客の集団。すべてが忙しそうに行き交い、誰も立ち止まらない。
その人の流れの中を、綾子は歩いていた。
紺のスーツのジャケット。
膝上のスカート。
一見すれば、よくいる会社帰りの女にしか見えない。
だが、その内側には、なにも身につけていない。
ブラも、インナーも、ショーツも、大樹の指示で、最初の駅のロッカーに預けてきた。
ジャケットの裏地が、直接、胸に触れている。
スマホも、財布もない──。許されているのは、ICカード一枚だけ。すでに残金は百円を切っている。多分、ぎりぎりになるように、計算されて事前に入金されていたのだろう。
誰かに連絡を取ろうにも、その手段すらない。仮に助けを求めたとしても、この格好の理由を説明しなければならない。
それができるとは、とても思えなかった。
ジャケットの襟元は、どうしても胸元が開く。
歩くたびに、ジャケットの裏地の中で、柔らかな胸が揺れる。ブラを着けていない重みが、そのまま布に触れている。
ジャケットの前合わせのわずかな隙間から、谷間の線が覗く。布一枚隔てただけの柔らかな重みが、自分でもはっきりと分かる。
動揺すれば、むしろ衆目を集めることはわかっているので、綾子はできるだけ平静を装って、視線を落とさないように前だけを見て歩いた。
男の視線には慣れている。
会社でも、街でも、そういう目を向けられてきたのだ。三十を越えているが、綾子は自分が、十分に男の視線を集める女だということを理解している。視線の動きは、意識しなくてもわかる。
その視線が、今日はいつもより多い。
すれ違う男の目が、一瞬だけ胸元に落ちる。
別の男が、歩きながらちらりと、胸と脚を振り返る。
若い学生の視線が、脚から胸元まで滑る。
気のせいではない。
スーツの下は裸──。胸元は大きく開き、谷間が見える。さすがに、スカートの下に下着までも着けていないことまではわからないだろうが、ブラを装着してないのはわかるはずだ。脚はストッキングもない。
これはもう痴女と変わらない格好だ。
唇をきつく結ぶ。
視線を浴びることには慣れている。だが、慣れていることと、羞恥を感じないことは別だ。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
大樹──。
その名前が心に浮かぶ。
刑務所の十年──。
男たちに押さえつけられた夜──。手紙に書かれていた言葉……。
胸の奥が重くなる。
どんなに屈辱だったろう──。どんなに口惜しかっただろう。
これくらいの綾子の羞恥で償えるとは思わないが、大樹が味わった恥辱なのであれば、綾子はそれを味わわなければならない。それだけはわかっていた。
どんな理不尽で、恥辱的な命令であっても、従っていれば、必ず、大樹に会える。償う機会を与えられる。
すべてを捧げても構わない。地位も、名誉も、財産も──綾子のすべてを──。
そう思うと、胸の奥に別の鼓動が生まれる。
贖罪──。
その言葉が、胸の奥に沈んでいる。
人の流れに押されながら、綾子は構内を進んでいった。
頭上の案内板の下に、長く並んだコインロッカーの通路が見えた。
あそこだ──。
大樹が指定した場所だ。
胸の鼓動が、また強くなる。
今度は、どんな罰が待っているのか……。
視線を感じながら、綾子はゆっくりとロッカーの並ぶ通路へ歩いていった。
コインロッカーの並ぶ通路は、コンコースの人の流れに面していた。
壁際にずらりと並んだ金属の扉の前を、途切れることなく人が通り過ぎていく。スーツ姿の男、旅行客らしい外国人の夫婦、スマートフォンを見ながら歩く学生。立ち止まってロッカーを開け閉めする人間も少なくない。
綾子は、歩調を落とした。
頭上の番号表示を確かめながら、指定された番号を探す。
──あった。
コンコースに面した列の、ほぼ中央──。
人の流れから、はっきり見える位置だ。
胸の奥が、わずかに締めつけられる。
ここで開けるのか──。
だが、ためらっている時間はない。
綾子はロッカーの前に立ち、身体を少しだけ扉に寄せた。
暗証番号を入力する。
電子音が一度だけ鳴り、金属のロックが外れる小さな音がした。
綾子はゆっくりと扉を開いた。
「……えっ?」
次の瞬間、思わず小さな声が漏れてしまった。
中に入っていたのは、黒いラバーの下着だった。
下着、と呼んでいいのかわからない。
形はTバッグに近い。腰に巻く細いベルトがあり、そこから股間に向かって帯状のパーツが伸びている。その帯の中央に、二本の突起が並んでいた。
ディルドだ。
一本は短く太い。もう一本は、やや細く長い。
ラバーの黒い表面が、ロッカーの蛍光灯の光を受けて鈍く光っている。慌てて、身体をロッカーにつけて、外から見えないようにする。
淫具──。
アパートのキッチンの棚に隠されていたメモで、そう書かれていた。
だから、驚きはしなかった。
むしろ、これくらいなら想像の範囲だとすら思った。
もっと醜悪なものさえも覚悟していた。
だが、困ったことがひとつある。
それは、この淫具がロッカーの中にむき出しのまま入れられていたことだ。
綾子は一瞬、周囲を見た。
この駅で、人の流れは途切れなることは、夜中にでもならない限りあり得ない。
ロッカーの前を誰かが通るたびに、背中の皮膚がひりつく。
これを、このまま持ち出すのか?
でも、包むものがない。
バッグはない。
コートもない。
スーツの下は裸だ。ブラウスもインナーも着ていない。ジャケットの内側は直接肌だ。財布もないので、なにかを購うこともできない。ICカードの残金は、百円もない。
隠す方法がない……。
綾子は、自分の背中に冷たいものが流れるのを感じた。
本当になにもないのだろうか……?
綾子は、ロッカーの扉の陰に身体を寄せ、できるだけ中が見えないようにして手を入れた。
ラバーの表面が指に触れる。冷たく、しっとりとした感触──。
その奥を探る。
すると、ディルド付きの下着の奥に、まだなにかがあるのがわかった。
注意深く、そっと隠しながら取り出す。
ひとつは、小さな瓶だ。
透明な液体が入っている。ローションのようだ。
そしてもうひとつは、手のひらに収まるほどの、小型の携帯電話だった。
スマートフォンではない。
折りたたみ式の、古いタイプのガラケーだった。
だが、普通の携帯とは違う。
液晶画面はある。
スピーカーも、マイクもある。
だが、ダイヤルボタンがないのだ。
数字キーも、通話ボタンも、メールボタンもない。発信に関係する部分が、すべて改良されて取り払われていた。
あるのは電源と受話のキーだけ。
つまり──着信専用。
綾子からは、どこにも連絡できない。
この電話は、大樹がかけてくるのを受けるためだけの道具ということなのだろう……。
胸の奥が、じわりと重くなる。
完全に、逃げ道を断たれている。
さらに、ローションの瓶には、小さなメモが貼られていた。
綾子はそれに視線を落とす。
“Mっ気のある君のことだから、もう濡れているかもしれない。それでも、入れにくいならこのローションを使え。”
綾子は一瞬、目を閉じた。
人の足音が、すぐ横を通り過ぎていく。
その喧噪の中で、綾子は、ロッカーの前で立ち尽くしてしまった。
そのとき、すぐ横でコインロッカーの扉が開く音がした。
綾子ははっと顔を上げる。
いつの間に来たのか、隣のロッカーの前に、身体の大きな外国人の男が立っていた。四十歳くらいだろう。スーツケースを持ち上げながら、こちらを見る。
「Pardon, madame? (どうかしましたか?)」
フランス語だった。
「Hein ? (えっ?)」
綾子は反射的に身体をロッカーへ押しつける。
背中で、開いた扉と中身を隠す。
慌てていたので、思わず前を向いてしまった……。
しかも、淫具の入っているロッカーの扉は開いたまま。背中で隠れているだけだ。
「Non。Ce n’est rien! (なんでもないわ!)」
短く言い返す。
しかし、男の視線が、綾子の胸元に落ちた。
紺のジャケットの隙間から、ブラを着けていない胸の谷間が覗いている。
「Madame…? (おや…?)」
男の口元がわずかに歪む。
……好色そうな目だった。
その男がゆっくりと近づいてくる。