彩葉、α
ヤチヨ、β~Ω
「ッッ!!」
一瞬で分かったのは家に充満しているΩのフェロモン。
おかしい。そんなはずはない。
おかしい。ありえない。
おかしい、おかしい、おかしい。
家の中に行けば行くほどフェロモンが濃くなっていく。冷や汗と興奮が入り交じる心臓を抑えるように胸元の服を握りしめ、一番濃いフェロモンが香る自室へたどり着いた。そして、部屋を開けて布団の上にある『巣』と思われる場所へ手を伸ばした。
「彩葉…?彩葉なの…?」
世界がひっくり返る感覚がやって来た。巣にある服を一枚めくるとそこに居たのはヤチヨだった。
「ぅ…そ…」
頭が真っ白になった。
“そんなはずはない。”
“ありえない。”
だって、だってヤチヨは───
「ヤチヨって…βじゃなかったの…?」
・・・・・・*
永らく生きて八千年。様々な人を、様々な歴史を、わたしは見てきた。人の素晴らしさも、醜さも、わたしはこの目で見てきた。そう。見てきただけなんだ。本質的に見ただけで何も変えられなかった。触れなかった。ただ手を伸ばして泣き叫ぶしか出来なかった。どれだけ奇跡を起こしても、人はそれをただの現象として捉えてしまう。課程も、方法も、何も見ようとしない。
人というのはそうして生きてきた。
───そうして、わたしは時々、夢を見る。
『どうしてこうなったんだ!!』
ずっとずっと昔のような。
『なんで私たちがこんな目にあわなきゃいけないの!!!』
まるでごく最近のような。
『俺達が悪いって言うのか!!!!』
それでも、焼き付いて離れない記憶の一つとして、脳裏にずっと残っている。忘れられない負の遺産。逃れられない犠牲の上。ずっとずっと、近くで見てきた。人と人が争う様を。どれだけ時代が映り変わろうと、人の本質は変わらない。戦い、奪い、築いていく。歴史とはそういうものだ。お互いの正義がぶつかり合って、どうしようもなくなった時、人は暴力を振るう。認めないから、間違いだから、仕方ないから、だけどそれも、人の本質。いつまでも、変わらない本質。
『それでも、わたしの居場所は此処なの』
だけど、そこに彩葉が巻き込まれたら?今は無いにせよ、これから起きるかもしれない。わたしはずっと見てきた。色々な場所で、色々な死を。
もし、その死の中にもし彩葉が混ざってしまったら、わたしには何が残るの?
わたしはどうすれば、彩葉が居なくなっても彩葉を感じることが出来る?
『此処に居ることでわたしの生きた証が見えるの』
そしてまた、彩葉と生きたという証が欲しくてわたしはまた焦り出す。焼け野原で人の愚かさを嘆き悲しんだあの時のように。わたしはまたわたしを嫌い、孤独にする。
・・・・・・*
「ヤチヨ…?」
「っ!?」
叩き起されたかのように目が覚めた。目の前には心配そうに顔を歪めた彩葉が居た。体の動悸が激しい。冷や汗までかいている。どうやら、また悪い夢を見ていたらしい。
「大丈夫?うなされてたけど…」
「ごめん…多分昔の夢見てた……」
「昔って?」
「戦争、してた頃だと思う」
「それ…」
記憶というものは残酷なもの程残りやすい。どれだけ幸せな時間を積み重ねても、たった一瞬の悪意が全てを塗り替えてしまう。時々、それを思い知らせるかのようにわたしの夢にその情景が出てくる。だから、それを拭う事は出来ない。今はただ縋ることしか出来ない。
「大丈夫だよ。ここには、私とヤチヨだけだから」
「………うん」
抱きしめてくれる温もりはまだ暖かくてあの時のような血の冷たさじゃない。
「彩葉…」
「ん?」
「もう少し…このままで居させて…」
「分かってる。そのつもりだよ」
彩葉はあまり踏み込まない。踏み込んだ所で終わった出来事を思い出してるだけだって分かってるから。戦争の何たるかは知らないけど。それでも、人と人が殺し合う描写はフィクションだけにして欲しい。
彩葉に縋るこの一瞬だけが、今わたしが生きているっていう証になる。
・・・・・・*
「それじゃ、ヤチヨ。行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
翌日は彩葉のお陰で難なく起きることが出来た。あのまま独りだったらどうしようかと思ったけど、今は彩葉が居る。わたしにはそれだけで十分。それなのに、玄関に立っている彩葉の顔は晴れないままでわたしを見つめていた。
「彩葉?」
「ぁ…いや、昨日の今日で大丈夫かなって。今日はなるべく早く帰るから。お昼の配信頑張ってね」
「ありがとう彩葉。晩御飯楽しみにしててね」
「うん。行ってきます」
そう言いながら、わたしの頬にキスを残して彩葉は玄関を開けて歩き始めた。ドアが閉まって足音が消える頃、わたしの顔からも笑顔が消える。彩葉のいない時間が始まってしまった。一緒になっても寂しいものは寂しくて、家の全てが広く感じてしまう。
「とりあえず、洗濯かな」
パサ、パサ、昨日の洗濯物を畳む音がリビングに響く。今日の配信はお昼から。それまでに気分をリセットしておきたいんだけどなんだかそうそううまく行きそうにない。意地でも残してしまった8000年の記憶の全て。割合で言えば悲惨な記憶の方が多い。それもそのはず、人の歴史は争いから始まることが多いから。戦争は発明の母という言葉を聞いた事がある。わたしがこうしてツクヨミ中だけにいたわたしが体を持っているのも、皮肉な事に戦争のお陰なのを理解してる。
わたしの生きている時間もまた、人々が争いを起こした証なんだ。
「……っ!」
また夢の中の感覚がやってくる。忘れたくないと言って記憶を残したはいいものの、幸せが募った時にそれはまるで暴風のようにやってくる。惨劇に惨状、悲鳴に怒号。あんな場所にいて生き残っていた人々を見るのが怖かった。それは紛れもなく人と人が争った証だったからだ。
「彩葉……っ!」
忘れたくて、逃れたくて、畳んでいた彩葉のシャツを抱き締める。めいっぱい吸い込んでもただの柔軟剤の香り。彩葉のものじゃない。彩葉の匂いが欲しい。そう考え始めたのはごく最近のことだ。いつも彩葉と寝ているから、もっとずっと感じていないと不安になる。わたしが彩葉のものだと証明する証のようなものを欲しがるようになってしまった。
「わたしがΩだったら、それが叶ったのかな…」
項を撫でてため息を吐く。生憎私の体はβ仕様。彩葉の番になれる訳じゃない。それなのに最近は彩葉の匂いを色濃く感じるようになった。それはただ単にわたしが彩葉の事を好き過ぎるだけなのだろう。だから、最近は夜に求める事が多い。彩葉もそれに答えてくれる。αの彩葉とβのわたし。相容れない事は知っているのに。
「彩葉……」
一人になると思い出す。夜の彼女の顔を。突き刺すような視線にわたしのナカを穿つソレ。わたしはずっと彩葉を感じたいと言ってるけど、避妊は大事だよ、と彩葉はいつも真面目さんだった。
「ん…っ…」
疼く体に濡れる股下。寂しさ恋しさ逃げたくて、勝手にソコへ伸びていく。彩葉のシャツを吸いながら、自分で自分を慰める。こんなに悲しい時間があるだろうか。それを答えてくれるひとはいない。感じてる自分が満足すればいい。自慰とはそういうものだ。
「っ……んんっっ!」
簡単に達すれば、迫ってくるのはまた寂しさ。
「全然足りないよ…」
物足りない。刺激が弱すぎる。濡れた掌睨みつけ。わたしは自然と歩き出す。もっと彩葉がある所。彩葉の匂いが染み付いた所。まるでΩのような思考になる。寂しさの埋め方はΩであっても、βであっても変わらない。
「ぁ…もう時間だ…」
時計を見れば、もう少しで配信を始めないといけない時間。あんまり夢中になるとすぐに時間を忘れてしまう。ヤッチョはイケナイ子になりたくないのでとりあえず配信準備をする。まだ収まらない体に無理やり言う事を聞かせて。
・・・・・・*
『ヤオヨロ〜!今日も配信始めるよ〜!』
お昼休みに入った頃。ヤチヨはちゃんと時間通りに配信を始めた。それを見ながらのお昼ご飯。とはならず、私は持ってきたスマコンを取り付けた。
「FUSHI、居る?」
「あぁ」
スマコンを付けた目を開けると、私のパソコンの前にのそのそとやってくるウミウシが居る。配信中のヤチヨの肩に乗っているのは恐らくは分身。FUSHIもヤチヨと同じでツクヨミでは何体にも身体を分けることができるみたいで。今日は特別に本体を呼んだ。
「ごめんね。急に来てもらって」
「気にするな。お前の言いたい事は何となくわかる」
威厳のある喋り方だが、どことなく可愛い声。ポヨポヨと弾むその様はウミウシと言うよりはマスコット。だけど、私と同じぐらいヤチヨの事を理解している唯一の相棒だ。
「今日のヤチヨは少し無理してるな」
「なんか戦時中の夢を見ちゃったみたいでさ。それでちょっと不安定なのかも」
「“また”か…」
「また?」
FUSHIはフン、と小さく鼻を鳴らすとヤチヨの配信画面を見た。
「前にも何度かあってな。データの処理中に記録のメモリーに残された残骸の中の記憶を掘り起こして夢を見ているみたいなんだ」
「そういう事か…」
「だから言ったんだ、もう忘れた方がいいって」
FUSHIは分かりやすく怒った声を出して画面のヤチヨに八つ当たる。怒ってはいるだろうけど効果音としてはプニプニしているからあんまりそういう風には見えなかった。
「彩葉はそういうのは無さそうだな」
「うん。まぁ、ね」
「たしかに、記憶を共有した訳じゃないが、悲惨な場面を見たろう。割合的には人と人が争っている方が多い。ショッキングな事は長く続くからな」
「私の事を待ってる間もずっとそうだったの?」
「当たり前だ。説得しても聞かなかったからな」
「どうして…」
「忘れたくないの一点張りだよ。『彩葉に話さないけど残しておいて』ってな」
「ヤチヨ…どうして…」
「彩葉。ヤチヨが見てきたものはヤチヨだけのものだ。それでアイツが何も言わないしお前にこれ以上何も見せたがらないのならオレは何も見せないぞ」
「……」
全部見てきたのに冷静を保ってきた。その掌も汚れて見えた。確かにヤチヨが見たものを私も見た。だけど、何を感じて、何を思ったのかは、私には分からなかった。気づかなかきゃいけないことがあった様な気がする。記憶中から本能に疑われている。
「彩葉。ヤチヨは……何かを犠牲にしてまでお前にたどり着きたかった訳じゃないんだ」
「うん…」
そんな事はわかっている。そんな事をする人じゃないって確信はあるから。だけど───
「確かに、お前の推測通り。ヤチヨが関わったことで人生が変わった人も少なからず存在する。人と関わることっていうのはそういう事だ。けどな、彩葉」
「何?」
「ヤチヨは今を生きている。もうその時その時だけの一瞬の命じゃないんだ。だから、出来るだけヤチヨとは一緒にいてやってくれ。オレが言えることはそれぐらいだ」
FUSHIは跳ねながら私の膝に乗る。
「ヤチヨは番に成れなくて生き急いでるわけじゃない。お前に自分を受け入れてもらえてるのか不安だからああなんだ。大丈夫だと口にしても、あんまり鵜呑みにするなよ」
「うん。分かってる」
確かにそうだ。数えてきた年数なんて思い返せばただの数字。会えなかった時間も、生きてきた時間も、今は関係ない。目の前にヤチヨが居て、今を生きている。それだけで、私は幸せなつもりでいた。その世界では『番』になる事でそれを永遠にする事が出来る。でも、ヤチヨはβだ。αの私と番になれる訳じゃない。Ωにでもならない限りは無理だ。
「私はヤチヨ以外選ばないよ」
「そう考えてくれるだけでいい。オレじゃ解決出来ないことはヤチヨのやつずっと飲み込んでくれていたんだ」
「うん。ありがとうFUSHI。私頑張るよ」
「おぅ。コッチでゆっくり見守ってるぜ」
・・・・・・*
「ふぅ…」
配信が終わり、椅子に体重を預けて天井を仰ぐ。
「彩葉、今日帰り早いんだよね…」
一呼吸すると、思い出したように体が疼き出した。
「っ…」
もっと彩葉を感じたい。そこにいる証が欲しい。体はそう訴えている。
「ん?」
突然、ふわりと漂ってくる甘い匂い。お菓子を出していた訳じゃないし、ケーキを作っていた訳でもない。それでも、その匂いを辿るべくわたしはチェアから立ち上がる。
「なんだろう?これ」
扉を開けて周りを見る。流石に2階じゃないと思ったけどリビングには何も用意してないから多分この辺りなんだと思う。廊下を渡り、匂いの元を辿る。
「彩葉の部屋から…?」
鼻を鳴らして歩いていくと辿り着いたのは彩葉の部屋だった。ちょうど良かった。さっきの続きをしてしまおう。
雑に敷かれた布団の上に倒れて、枕に顔を埋めて息を吸う。
「っ…んぅ…」
途端に体が反応した。火が灯るように体が熱くなる。さっきのTシャツよりも濃い匂い。まるで本人がそこにいるかのように感じ取れるそれはわたしとしては変態みたいで少し嫌だった。でも、彩葉がそこに居るみたいで少し嬉しかった。
「は、ぁ…」
大きくなぞる訳でもなく、小さく小刻みにするわでもなく。ただ疼く体に刺激を与えるように手が動く。枕に顔を埋めても、布団を全部被せてもまだ何か足りなかった。何が足りないのか分からないから、自慰を止めて手当たり次第に彩葉の部屋にある服や下着をかき集めて自分の周りに置き始める。
「ん、彩葉……っ…」
自分の周りが埋まるような量になってようやく安心できる空間になった。なんか本当に変態みたい。彩葉の証を求めてここまでする必要なんて無いのに、なんでわたしはΩみたいな事をしてるんだろう。服を抱きしめ、下着に顔を埋めて、夜を思い出して、自分の股に手をかける。小さいのじゃ収まらないから大きくなるように少し時間かけてイこうかな…。彩葉が帰ってくるギリギリに終わるようにすればいいかな…多分。
・・・・・・*
FUSHIとの会話の後、そのまま仕事を終わらせてなる早で帰る予定を立てていたから、どこにも寄らずに真っ直ぐ家に着いてしまった。今日切れていたシャンプーあたりを買ってくるなんて考えていたような気がしたけれど家のドアノブに手をかけた瞬間からどうでも良くなった。そして、いざ家の中に入るといつも出迎えてくれるはずのヤチヨが来ない。
「ヤチヨ〜?」
とりあえず1回呼んでみるが反応がない。よく見るとリビングの電気が付いてない。だが、靴はそのまま置いてある。外には行ってないのかな。だとすると、配信が終わった後にそのまま寝てしまったのだろうか。
「だったら、部屋かな?」
靴を脱いで玄関に上がったその瞬間だった───。
「ッッ!!??」
鼻で一息吸うとΩのフェロモンが漂っているのがわかった。しかも普通の濃さじゃない。ヒートが起きているΩだと分かる程に濃いフェロモン。
おかしい。そんなはずはない。
おかしい。ありえない。
おかしい、おかしい、おかしい。
慌てて家の中を駆け巡り、そのフェロモンの元を辿る。リビングでも無い。風呂場でもない。トイレでもない。2階へ上がり、ヤチヨの部屋を開けてもパソコンが付けっぱなしで誰もいない。そして恐る恐る自室の方を向く。
自室に行くほどフェロモンが濃くなっていく。冷や汗と興奮が入り交じる心臓を抑えるように胸元の服を握りしめ、自室へ入ると、布団の上にある『巣』と思われる場所へ手を伸ばした。
「彩葉…?彩葉なの…?」
世界がひっくり返る感覚がやって来た。巣にある服を一枚めくるとそこに居たのはヤチヨだった。
「ぅ…そ…」
頭が真っ白になった。
“そんなはずはない。”
“ありえない。”
だって、だってヤチヨは───
「ヤチヨって…βじゃなかったの…?」
途端に力が抜けてへたり込んでしまった。この状況ならいくらαでも無理はないと思う。βだと思っていた相方がΩの『巣作り』をしている。それにこの自分の体の動悸の激しさはΩに出会った時のものだ。
「なんで…どうして…」
「なに…いろは…どうしたの?」
ヤチヨは惚けた顔をした後、自分の姿を見るとそれに気づいた途端にすぐさま布団で自分の体を覆う。どうやら、無自覚でこんな事をしていたらしい。ヤチヨの顔を見る限り頭にハテナが浮かんでいるのがよく見える。
「え、い、彩葉、早かった…ね?ごめ、ちょっ、部屋から出て行ってくれるかな?すぐに服着るから…!」
「待って、ヤチヨ。その前にそれ何やってたの?」
「ち、ちがくて、これは、その…」
じわじわとヤチヨの瞳が滲んでいく。声に嗚咽が混じり始める。情緒が安定しないのはこっちも同じで心臓が爆発しそうな程に脈を打ち出している。少しでも気を抜いたら今にもヤチヨを噛んでしまいそう。だから、理由だけでも説明して欲しい。今この瞬間にΩになったという証が欲しい。
「や…だっ…見ないでっ…彩葉…」
そんな事言われても、本能には抗えない。目の前にいるヒートを起こしたΩがいる。αとしての本能が其れを喰えと叫んでいる。だけど、ヤチヨは怯えている。多分今自分に起こっている事の整理がついてないんだと思う。身を守るように私の服に身を隠して弱々しく後退する。
「なんで…ヤチヨ…っ」
一歩前へ。
「分かんない…なんで自分もこんな事してるかなんて…っ」
ヤチヨは下がる。
「いつから…こんな…っ」
一歩前へ。
「やだ…ゃだぁ…見ないでぇぇ…」
ヤチヨは下がる。
「ッ……」
そんなに可愛い声で鳴かないで欲しい。こっちだって必死に抑えているんだ。ヤチヨはβだと思っていたから、家にいる間は抑制剤を服用していない。家から出る時に飲んで、家に帰ってくるまでに効果が切れるように時間を決めて使っていた。だから、今抑制剤を飲んだ所で抑えられそうにない。この濃いフェロモンの中で目の前にいる最愛の人が本当の『番』として現れている。
何が起きているのか分からなくなりそうだった。頭で考えるより、本能が先走ってしまう。下半身に張ったテントも段々痛くなってきた。今すぐ脱いで解放させないと血が出そうな程に勃起している。
「ええから答えて、ヤチヨっ…!」
ついに壁を背にしたヤチヨ。余裕が無くなりかけている私はヤチヨの肩を強引に掴んで問い詰めた。よく見るとヤチヨはもう既に泣いている。混乱して何が何だか分からない顔をしている。
「彩葉と…っ…ずっと一緒に居たいって…思ったら…っ彩葉と居るって証が欲しいって思ったら…ぐすっ…なんか…いつの間にかこんな…っ…」
「っ…!?」
ビッチング…?だけど、思考だけで体の構造が変わるとは思えない。どうしてβだったヤチヨの体がΩの体質に変化したのか。それすら、考えられない程に今のヤチヨから漂ってくるフェロモンが私の本能を刺激する。
「ごめん。ヤチヨ」
「っ…!?」
顔を隠す腕を無理矢理剥がしてその泣き顔を拝む。その瞳から零れる涙すら、滲んだ汗すら、滴る体液すら、極上の甘味に見える。抑えた腕に抵抗は無い。ヤチヨの表情も次第に落ち着いて来た。
「彩葉ぁ…」
「っ……」
飲み込まれそうな程に尊い顔がそこにある。汚い欲望だけで動いている自分が嫌になりそうなぐらい綺麗で儚い。一歩でも踏み間違えれば本能が理性を勝ってしまう。だから、なるべくいつも通りにして、事を済ませない。
「ヤチヨが欲しい言うてるもん、あげてもええ?」
私の言葉にヤチヨは俯きながらも頷いてくれた。
あぁ、私って最低だ。キスしたらもう止まれなくなるって分かってるのに。こんなに嬉しがってる自分が嫌になる。ごめんね。ヤチヨ。せめて、せめて優しくするから。今だけはこの甘さに溺れさせてね。
・・・・・・*
「ん…ふ……んんんっ…!」
ヤチヨは壁を背にして逃げられず、彩葉はそれをいい事に押し付けるようなキスをする。ヤチヨの顔を掴んでのめり込む程に濃厚なものを味わう。
「っ、っっ〜〜はぁ!…はぁ…はぁ…」
ようやく離れたかと思えば、二人の間に透明な橋。涙目で息が上がっているヤチヨの顔は彩葉にとって世界中のどんな女性よりも美しい顔に見えた。
「彩葉っ…ちょっと…きゅうけぃ…」
「ごめん、無理そう」
「へ?………きゃぁっ!」
壁から一気に体を反転させて、床に押し倒す。月明かりだけの窓辺に二人だけの湿度が混ざる。汗で滲んだ肌と張り付いた服。体の線が見えて妙にいやらしい。吐き出す吐息がまるで毒のように染み込んできて彩葉の息が余計に上がる。
「彩葉…怖いよ、顔」
「そんなこと言ったって、ヤチヨの顔は凄くやらしいよ」
頬に手を添え輪郭をなぞる。それはもう一度唇を重ねる合図とも取れる。今度はなるべくそっと摘んで壊れ物を潰さないように唇を奪う。そうすると、ヤチヨはようやく受け入れる体勢ができたのか彩葉の首に腕を回した。息のこもった声に息苦しさと嬉しさを交えながら、やってくる彩葉の舌を必死に迎え入れる。
「んっ、っ、は…んっ、ふぁ…」
ヤチヨとのキスは酸欠になりかけるぐらいがちょうど良いと彩葉は知っている。肩で息をしているヤチヨの顔は随分気持ちよさそうに蕩けている。いつもなら理性が効いてここらで褒め言葉のひとつでも出る頃なのだが、今の彩葉にそんな余裕は無い。Ωのフェロモンがずっと毒みたいに彩葉に染み込んでくるからだ。
「いろは…なんか、身体アツい…っ」
「とりあえず、脱ごうか。私もヤチヨにもっと触りたい」
剥ぎ捨てるようにヤチヨのシャツを引っぺがし、その辺へ投げ捨てる。下着もパンツも全部とっぱらい、最初は胸にキスを落とす。
「んッ…」
鎖骨あたりから、膨らみへ。撫でるような舐めるような曖昧な動きの愛撫がヤチヨの体を這い回る。だが、ヤチヨはそれを受けると途端に蕩けてしまう。怖いと言っていた心はいつの間にか惚けた心へ変わってしまう。そんなに必死に求められることなんてなかったから、今の彩葉にときめいてしまう。
(彩葉…ちょっと必死で可愛いかも…)
ついつい目で追ってしまうヤチヨと目が合ってしまった彩葉。なんだか、見下ろされてるみたいで少し眉間にシワがよる。
「なんか、余裕そうだねヤチヨ」
「ううん。彩葉が可愛いなぁって」
「なんか…ちょっとムカつく」
「あんっ…!」
胸の突起を少し噛み、ヤチヨの片足を持ち上げる。体を足の間に入れて、恥ずかしくても足を閉じれないようにする。オマケで追撃するように膝先でヤチヨのソコを小突いて見せた。
「んっ…」
「ほら、ここ濡れてるよ?ヤチヨ」
「あっ…や、やだ…いろは…」
「ほら」
「ぁ…っん」
「口、隠すのダメ」
「や、だっ、変な声、出るからっ…!」
両手を組み敷かれ、ギラついた瞳に見下ろされて、ヤチヨの様子を見て楽しむ彩葉。余裕が無いのはお互い様で、彩葉も少しでも気を抜いたら今にもヤチヨを食い殺すかもしれない勢いを必死に堪える。ソレを差し込むまではずっと堪える。
「んっ、っっ、ふ、ぁぁ…んんっ!」
いつの間にか脱がされいて顕になった太ももを彩葉の舌が這いずっている。その舌はヤチヨのソコから染み出た蜜を吸っている。内股に着いたものを全て舐めとると、洪水を起こしているソコへ終ぞ口で吸い付いた。
「んぁぁっ!?」
ただ触れられただけで、体が大きく跳ねて声が出てしまった。いつもとは全く違う感覚。いつもならこんなに感じることはない。
「や、彩、な、にこれぇぇ……!」
入口を撫でる舌が動く度にヤチヨの体は左へ右へ動いてしまう。変になる、という感覚がとても強くやってくる。波のように収まることのない感覚を受け止めきれず体が反り返る程に強い快感がやってきてヤチヨは洪水を吹き出してしまう。
「ひ、ぁぁぁぁぁっ!」
ヤチヨはΩになったことで体の感覚が今までと違うものになってしまった。αたる彩葉が触れるだけで感度が倍になったように感じる。その事に気づいているのは彩葉だけ。ヤチヨは何が何だか分からない。ただただやってくる快感がいつもより大きく、濃く、強い。いつまでも登った所から降りて来れない。
「や、まっ…ごめん、彩葉、そんなつもりじゃなくて…っ」
ヤチヨにとっては潮ふきと言うよりも最早漏らした感覚に近い。だが彩葉にとっては顔面にかけられた潮はフェロモンの塊。余計におっ勃てていたソレが余計に上を向いている。
「ごめん、ヤチヨ。もう限界っぽいわ」
「へ?…………きゃっ!」
グイ、とヤチヨの足を開けて仰向けのヤチヨを見下ろす。交差する視線がお互いの限界度合いを教えてくれる。この苦しさを無くす為にはまだ欲しがらないといけない。でも欲しがると苦しくなる。彩葉はこのαの体質をあまり好んでいない。大体のαはそうだ。Ωが居ると途端に全てが崩れるのが嫌らしい。綺麗なものに傷をつけるのはどんな人も躊躇う。だがその欲望はまるで毒林檎。
「ヤチヨ…」
「彩葉…っ…」
かぶりつき体に傷の無い肌。
暴走しそうな体に黒ずんだ心。
「ヤチヨ、挿入れたい…」
彩葉の言葉にヤチヨはついに頷いた。
「ん…キて…彩葉…」
女神のような笑みを浮かべる。ヤチヨの魅力に取り憑かれて、誘われるがままに堕ちてゆく。心に棲みついた欲と膨れ上がる果てなき性。この立方体の中にいる二人を止めるものは何もない。欲しがれば与えて、与えては足りなくなるからまた求める。それだけだの世界になってずっと、深く、堕ちてゆく。
「っは、あ゙っ、ん、彩…は…っ!」
「っ…ヤチヨ……っっ…!」
愛を知らず、揺れる
「ヤチヨっ…ヤチヨッ…!」
射精す事と噛み付く事以外何も分からない。正常位をしていたはずのヤチヨはいつの間にかうつ伏せにさせられて、彩葉から腰を打ち付けられている。サラサラと髪をとかすと傷一つ無い美しい項が現れた。
「いろ、は、わた、しも、ィク───っぅ!」
「私もっ、もうちょっとだから…!」
彩葉はラストスパートをかけて、登っていた射精感と一緒にヤチヨの項に歯を立てた。
「っ!」
「っ、い゙ッ、っっっ〜〜〜〜〜〜!!」
打ち付けた最後の一突きと一緒に噛み付いた項。本能のままに証を刻むαとΩの快感はお互いの意識が飛びかける程に甘美なものだった。
・・・・・・*
「あ〜……結構濃く残っちゃったね。噛み跡」
髪を捲り項を見ると、痛々しく残る噛み跡があった。ヤチヨと番になれた事より、ヤチヨの綺麗な肌に傷を付けた事の罪悪感の方が強い。最中も何度か痛いと言っていたような気がした。完全に理性が飛んでたからあんまり覚えてないけど。
「ううん、いいの。わたしが欲しかったものだから」
ヤチヨは愛おしそうに傷を撫でる。
βだったヤチヨは本来私とは番になれない。でも、Ωとなった今は違う。恐らくこのヤチヨの体の変化は感情的な問題になる。βはΩとαどちらでもない。だから、『私の番になりたい』という思いがヤチヨの体を変えてしまった。子孫を残したいという生存本能にも近いもの。考えうる限りそんな事が起きたっていう事例は思い出せない。ヤチヨだけかもしれないし、世界のどこかで怒っていることなのかもしれない。
「とにかく、これで彩葉とは番になれたんだよね?」
「………うん。そうだね。そうだと思う」
えへへ〜、と彼女は子供のようにニヤける。そういう所は昔っから変わらない。かぐやの時のままだ。少し俯いて影が出来た私を心配そうに月明かりがこちらを覗いている。
「彩葉…」
「ヤチヨは…さ。そんなに私と一緒に居たいの?」
「え?」
「ほんと…ごめん。その、嫌だとかそういうのじゃなくて素朴な疑問なんだ。ヤチヨは色んな人に出会ってきた。私以上の人なんて世界にはごまんといるはずでしょ?だから、ヤチヨがそこまで求める“私”ってなんなんだろうって思って…」
ヤチヨは少し呆然とすると、すぐさま笑顔に戻った。
「そんなの、決まってる。“彩葉”だからだよ」
「え?」
「明るい場所にいても、暗い場所にいても、楽しい時間を過ごしても、辛い時間を過ごしても、そこで思い出すのは必ず“彩葉”だったんだ。本当は…少し怖いよ。こうして生きてる事も、歳をとっていく事も、でも、だからこそ生きていくの」
ヤチヨは私の手を取って向かい合う。
「この一瞬も、これから先も、彩葉と一緒ならなんでも出来るって分かるから。安心して生きていけるの。わたしの居場所を、帰る場所を、ここにしたかったの。これはその証」
「………」
あまりにも真っ直ぐな言葉に心を撃ち抜かれてしまったような気持ちになった。そうか。それがヤチヨの答えなんだ。私が迷っていたら意味がない。
「うん。そうだね。本当の意味で私達は番になったんだ。二人で生きていこう」
「うん。わたしの帰る場所は彩葉の隣だよ」
「なら、私の帰る場所はヤチヨの隣だね」
うん、と小さく頷いてまた項をなぞる。
「ねぇ、彩葉」
「何?」
「今度の休み、付き合って欲しい所があるの。他県に行く事になるんだけど…」
「それはいいけど、何しに?」
「ちょっと、お話したい人がいるの」
・・・・・・*
まだまだ残暑が残る中、やってきたのは広島県。そして、ヤチヨの目的地は原爆ドームだった。ヤチヨが見たその日からここはほぼその形を保ったまま保管されているこの場所に、二人で来るのは初めてのこと。私もネットの情報でしか見た事なかったけど、こういう場所に来ると浮かれた気持ちには成れなかった。そんな私と同様に慰霊碑に連なっている名前を見ながら、私はヤチヨに着いていく。
「ここって…」
「うん。ここで出会った人とお話したくて」
「名前、分かるの?」
「大丈夫。ずっと覚えてるから」
白のワンピースを着たヤチヨを見たのは久しぶりだけど、特別な雰囲気にはならなかった。白装束に見えたそれは持っている花束もまた違ったものに見せてくれた。珍しく真面目な顔をしたヤチヨにしばらく着いていくと、いきなり足を止めた。
「あった」
「探してた名前?」
「うん」
ヤチヨは少し悲しそうな顔をして名前をなぞる。そこに刻まれている名前が私も記憶の中で見た『あの子』なら、お話したい相手というのもきっと『あの子』だ。だから、私は踏み込まない。慰霊碑に花を手向けて犠牲者へ祈りを捧げるヤチヨを遠目で見つめて待つ。
『彩葉、今いいか?』
「FUSHI、どうしたの?」
片耳につけたワイヤレスイヤホンから前日から頼み事をしていた相棒の声がした。
『お前の頼んでいた事、ヤチヨのバイタルの変化を調べてきた』
「それで、どうだった?」
『あぁ、ヤチヨは確かにΩになっている。彩葉の予想通りかもな』
「でも、どうしてそんな…」
『さぁな。遺伝子の変化、としか言いようがない。脳内の分泌物質がヤチヨの体をΩに変えた。っていうのがありうる仮説だろうな』
「…………それ、私のせいなのかな?」
『どうだろうな。少なくとも、体の変化はその人が望まないと起きない事だ。ヤチヨはきっと心のどこかでΩになる事を望んでいたハズだ。言うなれば、二人に奇跡が起きたってやつだな』
「奇跡…か。それは事実じゃなくて現象だよ。人が認識出来るのは事実という証だけ。だから違うと思う」
『ならヤチヨが起こした奇跡だな。現に彩葉はヤチヨをΩと認識できた。それは事実だろ?』
確かにそうだ。ヤチヨは私の隣に居るという証を欲しがっていた。それが結果的にΩという形で現れただけの話なのかもしれない。でも、βの体がΩに転位すると言うのは事実上例も無いし有り得ない。それこそ奇跡だ。
「そんなに私と居たいのかな…」
この世界にいる以上、私は絶対ヤチヨの隣に居る。例えまた戦争が起きたとしてもヤチヨと離れるつもりは無い。きっとヤチヨは悲しい世界があったとしてもその世界の中でも少しでも良かったと思えるような証を欲しがったんだと思う。それがΩという形になった。ヤチヨの変化という奇跡という現象になった。
『彩葉と番に成りたがってたんだ。そんな気はする。だけど、そればっかりは直接本人に聞かないと分からないな』
「…そうだね。ありがとうFUSHI。また何かあったら頼むよ」
『おぅ、わかった』
ワイヤレスイヤホンを外してケースにしまう。まだヤチヨは慰霊碑を見つめていた。話が終わらない、というよりはなにか憂いているように見える。よく見る顔だからよく分かる。でも、今は友達の事を思っているに違いない。だから、まだ近づかない。もう少し遠くで見つめることにした。
・・・・・・*
「遅くなってごめんね。本当はもう少し早く会いに来たかったんだけど。この体になるまで大変だったから」
花を添えて、手を合わせて安らかな祈りを捧げる。ずっと前にまた会おうと言って手を振りあったけど、その別れは永遠の別れだって気づいてた。でもいつかまた会いに来れると思っていたから君の事を忘れないようにしてた。
こんな悲惨な世界でもほんの少しでも良かったって思えるようにわたしは努力してた。彩葉に会うために、努力した。
「君にとってはあの世界が全てだったのかもしれない。でも、君のおかげでわたしも歩き出せた」
焼け野原に立つ君の姿は何よりも凛々しく、逞しい姿をしてた。涙の裏に決意を隠してわたしにちゃんと寄り添ってくれたね。だからこそ、わたしはツクヨミを描いた。彩葉に辿り着いた。
「わたしは、わたしの『証』を貰えたよ」
そう言って項をまた撫でる。後が見えないようにスカーフを巻いていた。でも、君に見せつけるようにスカーフを取って首を晒した。見えてるかな?これがわたしの証。これからを生きていく為のわたしだけの証だよ。
「ヤチヨ」
後ろで彩葉が呼んでいる。うん。そう。あの人がわたしの会いたかった人だよ。顔も見せられてよかったよ。今日は少ししかお話出来なかったけど、来年また来るから。今日はわたしが体を手に入れたことの報告だよ。
「またね」
言葉で手を振って踵を返して彩葉の元へ行く。不意に吹いた風に髪を煽られてつい空を仰いでしまう。綺麗な雲ひとつ無い青空。いつかの景色にも似たそれはツクヨミでは中々見られないもの。そんな青空に思いを馳せて、沈むように目を伏せると、乾いた地面に一滴の雫が落ちる。
「行こう。彩葉」
「うん」
果たせなかった約束を抱いて。
それぞれの『証』をもって、わたしと彩葉は歩き出した。