桐山悠人はホームのベンチに座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。二十三時五十八分。最終列車が赤いテールランプを残して闇の中へ消えていく。ホームに残されたのは悠人一人だった。
タクシーを呼ぼうとアプリを開く。だが圏外。地下鉄の駅で電波が入らないことは珍しくないが、Wi-Fiすら拾えないのは妙だった。
仕方なく地上に出ようと改札を通り抜け、出口を示す案内板を探す。
『← 1~7番出口8番出口 →』
見慣れない表示だった。この駅を何年も使っているが、八番出口など聞いたことがない。だが左の通路は照明が落ちて真っ暗で、右の通路だけが蛍光灯に照らされている。
選択の余地はなかった。
悠人は右の通路へ足を踏み入れた。
*
コンクリートの壁。白いタイル張りの床。等間隔に並ぶ蛍光灯。壁には防災ポスターと路線図、それに化粧品の広告が貼られている。天井のスピーカーからは何の音も流れていない。
典型的な地下通路。ただし、どこまでも続いている。
五分歩いた。十分歩いた。出口の気配はない。エスカレーターも階段も見当たらない。ただ同じ景色の通路が途切れることなく伸びている。
最初は方向感覚を疑った。次に酔いを疑った——今夜は上司に付き合わされて二杯ほど飲んでいる。だがアルコールはとうに抜けているはずだった。
壁の広告に目をやる。化粧品ブランドのポスター。水色のワンピースを着た女性モデルが微笑んでいる。その横に防災ポスター。「地震が起きたら、まず身を守る行動を」。路線図。いつもの路線図。
悠人はそのまま歩き続けた。
さらに五分。
壁の広告に目をやる。化粧品ブランドのポスター。水色のワンピースを着た女性モデルが微笑んでいる。その横に防災ポスター。路線図。
同じだ。
まったく同じだ。
悠人は足を止めた。振り返る。来た方向も、まったく同じ通路が伸びている。前も後ろも区別がつかない。
心臓が早鐘を打ち始める。ポケットからスマートフォンを取り出す。画面は相変わらず圏外の表示。時刻は——二十三時五十八分。
歩き出してから二十分以上は経っているはずなのに、時計が進んでいない。
悠人は唾を飲み込んだ。
——落ち着け。何か見落としている。
もう一度歩き出す。壁、ポスター、蛍光灯。同じ景色。同じ匂い。ただ靴音だけが硬い床に反響する。
そのとき、悠人はあることに気づいた。
壁に貼られた路線図の下に、小さな案内板がある。さっきまで気づかなかったのか、さっきまでなかったのか。手書きのような不揃いな文字で、こう書かれていた。
『異変を見つけたら引き返せ。異変がなければ進め。八番出口はその先にある。』
悠人はその文字を何度も読み返した。
異変。
この通路を抜け出す手がかりが、たったこれだけの言葉に集約されている。信じるか信じないかは別として、他に縋るものがない。
——異変を見つけたら、引き返す。何もなければ、進む。
悠人は前方に向き直り、歩き出した。
---
ルールを意識してから、通路の見え方が変わった。
壁のひび割れ、蛍光灯のちらつき、床のタイルの模様——すべてが疑わしく見える。だが疑わしいだけでは「異変」とは言えない。明確な違和感を見つけなければ。
悠人は注意深く歩いた。
化粧品のポスター。水色のワンピースの女性モデル。微笑み。防災ポスター。路線図。
何もおかしくない。
悠人はそのまま進んだ。
次の区画。同じ景色——のはず。
悠人はポスターの前で足を止めた。
化粧品のポスター。女性モデル。微笑み。同じだ。だが——
水色のワンピースの胸元が、ほんの少し開いている。前の区画では鎖骨が見える程度だったのが、谷間の影がうっすらと見えるところまでボタンが外れている。
些細な変化。見間違いかもしれない。だが——これが「異変」だとしたら。
悠人は踵を返し、引き返した。
三歩、四歩と戻ると、空気が変わった。重さが抜け、息がしやすくなる。振り返ると、通路の先に新しい区画が開けていた。蛍光灯の色がわずかに暖色寄りになっている。
——進めた。
正解だったのだ。異変を見つけて引き返したことで、通路が一区画分進んだ。
悠人は手応えを感じながら足を進めた。
*
次の区画。
ポスター、防災掲示、路線図。壁のひび割れ。蛍光灯。天井のスピーカー。
何もおかしくない。すべて前の区画と同じに見える。
悠人は慎重に、しかし迷いなく前へ進んだ。
新しい区画が開ける。また一歩、八番出口に近づいた。
——イケるぞ。このルールさえ守れば、ここを抜けられる。
安堵が胸に広がる。だが悠人は気を緩めなかった。通路はいつ仕掛けてくるか分からない。
次の区画に入る。
壁のポスター——化粧品ブランド。女性モデルの微笑み。水色のワンピース。問題ない。
防災ポスター。「地震が起きたら、まず身を守る行動を」。問題ない。
路線図——
悠人は目を凝らした。路線図の端に、見慣れない駅名がある。「肉欲」。
……何だ、これは。
赤い丸で囲まれた駅名。路線図の他の部分は正常だが、終着駅の名前だけが書き換えられている。
異変だ。
引き返す。三歩戻ったところで空気が変わり、新しい区画が開ける。
*
数回のループを重ねるうちに、悠人はコツを掴んでいった。
異変は毎回あるとは限らない。何もない区画ではそのまま進む。異変がある区画では引き返す。判断を間違えなければ、着実に進める。
だが、異変の傾向に気づき始めたのはこの頃だった。
最初は化粧品ポスターの胸元が開いていた。次は路線図に卑猥な駅名。その次は、非常口の案内マークが二体の人型に増え、一方がもう一方の上に覆いかぶさるような姿勢になっていた。
——全部、どこか色っぽいんだよな。
偶然だろうか。それとも、この通路は意図的にそういう異変を作り出しているのか。
悠人は首を振った。考えすぎだ。とにかくルールに従えばいい。異変を見つけたら引き返す。それだけだ。
次の区画に入る。
通路に漂う匂いが変わっていた。コンクリートと埃の無機質な匂いに混じって、甘い香りがする。花のような、だがどこか人工的な——香水の匂い。
女の香水だ。
悠人は足を止めた。この匂いは前の区画にはなかった。異変だ。
引き返す。だが一瞬、足が重くなるのを感じた。
甘い香りが鼻腔に残っていた。