区画が進むにつれて、異変は露骨さを増していった。
壁のポスターの女性モデルのワンピースが赤に変わっていた区画。引き返す。
天井のスピーカーからかすかに女性の吐息のような音が聞こえた区画。引き返す。
床に口紅が落ちていた区画。引き返す。
どれも判別は容易だった。悠人は冷静に処理していく。
——だが、身体は正直だった。
異変を見つけるたびに、それが性的なニュアンスを帯びていることを意識が拾ってしまう。ポスターの女性の肌の色、吐息の湿度、口紅の赤。一つ一つは些細でも、積み重なっていくうちに、悠人の身体の奥に鈍い熱が蓄積されていく。
自覚はあった。だがそれを認めることは、この通路に負けることと同義だと思った。
次の区画。
悠人は息を呑んだ。
壁のポスターが変わっていた。化粧品の広告ではない。グラビア写真だ。水着の女性が挑発的なポーズで横たわり、カメラを——通路を歩く者を——見つめている。唇が半開きで、瞳が据わっている。
明らかに、異変。
引き返すべきだ。
悠人の足が動かなかった。
五秒。写真の女の目を見つめてしまった。腹の底が疼く感覚。振り切るように目を逸らし、踵を返す。引き返す。空気が変わり、新しい区画が開ける。
——危なかった。
額に汗が浮いていた。
*
次の区画は、さらに踏み込んできた。
通路の先、五十メートルほど前方の壁に、影が映っている。人の影だ。女の輪郭。
影は動いていた。
片手を壁についてもたれかかり、もう片方の手が自分の身体を——太ももの間を——ゆっくりと上下している。声は聞こえない。だがその動きは明確に、自慰をしている女の影だった。
悠人は喉がからからに渇くのを感じた。
異変だ。引き返さなければ。
だが目が離せない。影の腰が小刻みに揺れ、手の動きが速くなる。通路の静寂の中で、悠人は自分の心臓の音だけを聞いていた。
三秒。五秒。十秒——
悠人は歯を食いしばり、踵を返した。引き返す。新しい区画が開ける。
下半身が明確に反応していることを、悠人は自覚していた。ズボン越しにも分かるほど勃起している。
——何を考えてるんだ。これは罠だ。見つけたら引き返す。それだけだ。
自分に言い聞かせる。だが身体は理性とは別のリズムで脈打っている。
*
次の区画。
通路の途中に、非常口の扉があった。普段は目にも留まらない、何の変哲もない灰色の扉。ただし、ほんの数センチだけ開いている。
扉の隙間から、声が漏れていた。
女の声だった。息を詰めるような、甘い、切羽詰まった喘ぎ声。
「あっ……んっ……」
かすかだが確実に聞こえる。扉の向こうで何かが行われている。
異変だ。引き返すべきだ。
——分かっている。
悠人は一歩、扉に近づいた。
覗けば中が見える。ほんの少し首を傾ければ、扉の隙間から——
声が大きくなった。「あぁっ……もっと……」
身体が熱い。理性が警報を鳴らしている。引き返せ。今すぐ引き返せ。これは異変だ。
悠人の手が扉に触れた。指先に冷たい金属の感触。少しだけ押し開ければ——
——駄目だ。
悠人は弾かれたように手を離し、背を向けた。早足で引き返す。空気が変わる。新しい区画。
膝が震えていた。
ズボンの前面が窮屈に張り詰めている。扉の向こうの声がまだ耳に残っている。あと数秒遅ければ、覗いていた。覗いていたら——どうなっていた?
答えを知るのが怖かった。同時に、知りたかった。
この通路は、悠人が何に弱いか、正確に把握し始めている。
*
次の区画に入った瞬間、悠人は凍りついた。
通路のベンチに、女が座っていた。
実体のある、生身の女だった。
長い黒髪が肩にかかっている。白いワンピースを着て、素足でベンチに座り、項垂れるように顔を伏せている。
悠人は十メートルほどの距離で立ち止まった。
これは——異変か?
今まで通路に人間がいたことはなかった。その時点でもう答えは出ている。異変だ。引き返さなければ。
女が顔を上げた。
白い肌。薄い唇。潤んだ大きな瞳。表情には怯えと、かすかな安堵が浮かんでいた。
「——人?あなた、人なの?」
女が立ち上がる。ワンピースの裾が太ももの半ばで揺れた。素足の爪先が冷たいタイルの上を踏む。
「ここから出られないの。ずっと歩いてるのに、同じところに戻ってしまう。お願い、助けて——」
女が近づいてくる。悠人は後ずさるべきだった。踵を返すべきだった。今すぐ引き返すべきだった。
だが——この女が本当に迷い込んだ人間だったら?
もし同じようにこの通路に閉じ込められた被害者だったら、見捨てて引き返すのか?
迷いが生まれた瞬間、女は悠人の目の前にいた。
「お願い……一人は怖い……」
女の指が悠人の腕に触れた。
冷たかった。そしてその冷たさが、なぜか悠人の血を熱くした。
「一緒にいて。ねえ——」
女が悠人の腕を両手で包み込むようにして、身体を寄せた。柔らかい胸の膨らみが二の腕に押し当てられる。香水ではない、肌そのものの甘い匂い。
異変だ。引き返せ。
頭の中で警報が鳴っている。
だが女の体温が——いや、冷たいはずの指先が腕を離さない。女が見上げる。潤んだ瞳に、悠人の顔が映っている。
「寒い……あたためて……」
女の手が悠人の手を取り、自分の胸元に導いた。
ワンピースの薄い布越しに、柔らかな膨らみの感触が掌に伝わる。そしてその中心に、硬くなった突起。
悠人の思考が白く飛んだ。
*
引き返さなかった。
それが全ての始まりだった。
女——ユキと名乗ったその異変は、悠人の手が自分の身体に触れた瞬間、壊れた人形のように力を抜いた。
「あったかい……もっと触って……」
悠人は抗えなかった。
掌がワンピースの上から胸を揉みしだく。柔らかさの奥に弾力があり、指を沈めるたびにユキの喉から小さな息が漏れる。
「ん……っ」
蛍光灯が明滅した。白い光と闇が交互に二人を照らす。悠人の理性は「これは異変だ」と叫び続けていたが、その声はユキの吐息にかき消されていく。
ユキの手が悠人のベルトに伸びた。震える指先がバックルを外し、ジッパーを下ろす。悠人の硬くなったものが解放され、ユキの冷たい指がそれを包んだ。
「こんなに……私のせい?」
上目遣いに見つめてくるユキの瞳は、蛍光灯の光を反射して非現実的に澄んでいた。人間の目ではない。分かっている。分かっているのに——
ユキの唇が悠人のものに触れた。冷たい唇。だが舌は温かかった。絡みつくように口内を蹂躙する舌を受け入れながら、悠人の手はワンピースの裾を捲り上げていた。
下着をつけていなかった。
指が滑り込んだ先は、恐ろしいほどに濡れて、熱かった。身体は冷たいのに、そこだけが別の生き物のように悠人の指を吸い込み、締め付ける。
「あ、あっ……中、きて……っ」
通路の壁。硬いコンクリート。ユキの背を壁に押し付け、悠人は片足を持ち上げた。白い太ももを抱え、腰を押し出す。
挿入した瞬間、通路全体が震えた。
蛍光灯が激しく明滅する。ユキの膣内は信じられないほどの吸引力で悠人を包み込み、引き込み、離さない。奥へ、さらに奥へ——子宮口に先端が触れるたびにユキの全身がびくりと跳ねる。
「あぁっ……そこ、だめ……っでも、やめないでっ……」
壁に背をつけたまま、ユキは両足を悠人の腰に絡めた。つま先が痙攣するように宙を掻く。悠人は腰を打ちつけるたびに、自分の中の理性が一枚、また一枚と剥がれ落ちていくのを感じていた。
「もっと……奥まで……全部ちょうだい……」
ユキの声が通路に反響する。コンクリートの壁が二人の喘ぎ声を増幅し、どこまでも反射させる。まるで通路全体が二人の行為を聴いているかのように。
悠人は腰の動きを速めた。理性の声はもう聞こえない。ユキの身体だけが世界の全てだった。その柔らかさ、温もり、締め付け、匂い、声——
壁のポスターが視界の端に入る。化粧品の女性モデルが——笑っている。さっきとは違う笑みだ。口の端が吊り上がり、こちらの行為を楽しんでいるような——
悠人はポスターから目を逸らした。ユキの顔だけを見た。ユキは恍惚とした表情で唇を開き、涎の糸を引いている。
——一瞬。
ユキの瞳が変わった気がした。潤んだ怯えの奥に、硝子のように冷たい光。何かを観察する目。記録する目。だがそれは瞬きの間に消え、また元の恍惚に戻った。
気のせいだ——と、悠人は思った。
「イきたい……一緒にイって……っ」
限界だった。
最後のひと突きで腰を奥まで叩きつけ、悠人は果てた。脳が白く灼けるような快感。ユキの膣壁が痙攣するように締め上げ、一滴残らず搾り取る。ユキの背が反り、声にならない絶叫が通路に響いた。
数秒間の空白。
悠人が荒い息の中で目を開けたとき、腕の中にユキはいなかった。
壁だけがあった。冷たいコンクリートの壁に、悠人は一人でもたれかかっていた。ズボンが下ろされたまま、腹部に白濁した液体がこびりついている。
行為は確かにあった。だが相手が消えていた。
——幻覚か?いや、この液体は現実だ。身体に残る余韻も。
悠人がズボンを上げ、通路を見回す。
案内板が目に入った。
『八番出口 →残り——区画』
数字が見えない。掠れて読めない。だが、前に見たときよりも文字が小さくなっている気がした。
——後退した。
異変に引き返さなかったから、ここまでの進行がリセットされたのだ。
悠人はその場にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆う。
快感の余韻がまだ身体を痺れさせている。後悔と、そしてそれを上回る残余の甘さ。
——もう一度だけ、と思ってしまった自分が、一番怖かった。