立ち上がるまでに、どれくらいの時間がかかったか分からない。
悠人は無機質な通路の中で膝を抱え、自分の身に起きたことを整理しようとしていた。
あの女——ユキ——は異変だった。分かっていた。通路に実体のある人間がいるはずがないと、最初の一秒で結論は出ていた。それなのに引き返さなかった。触れてしまった。求めてしまった。
そして腰が、ペニスが覚えている。あの膣内の吸い付くような感触を。射精した直後だというのに、下腹にじわりと鉤爪のような疼きが戻ってきている。
——切り替えろ。
悠人はズボンについた汚れを手で擦り、立ち上がった。
後退した分を取り戻さなければならない。今度は引っかからない。何があっても引き返す。
そう自分に誓い、歩き出した。
*
通路は最初に戻ったかのように、淡白な異変を仕掛けてきた。
路線図に「痴漢注意」の文字が追加されている区画。引き返す。
壁のタイルが一枚だけ肌色になっている区画。引き返す。
蛍光灯の光が桃色がかっている区画。引き返す。
悠人は機械的に処理した。感情を排し、異変の有無だけを判断する。異変があれば引き返す。なければ進む。色気があろうとなかろうと関係ない。判断基準はただ一つ、「前の区画と違うかどうか」だけだ。
順調だった。
だが悠人は気づいていなかった。通路が、悠人の反応を逐一記録していることに。
どの異変で心拍が上がったか。どの異変で足が止まったか。どの異変で数秒長く視線が留まったか。
通路は学習していた。
*
何度目かの区画で、悠人は通路の雰囲気が変わったことに気づいた。
蛍光灯の配置が変わっている。壁のポスターが剥がされ、代わりに業務用の掲示——清掃スケジュールや管理者連絡先——が貼られている。通路の幅も少し狭い。
バックヤードのような区画だった。
異変か?いや——通路の構造そのものが変わることは今までもあった。蛍光灯の色が変わったり、ベンチが追加されたりしていた。構造の変化と異変は別のものだ。
悠人は慎重に歩を進める。
通路の先に、人がいた。
女だった。だが今度はユキのような異質な存在ではない。水色の作業着を着て、モップを持ち、床を掃除している。背中を向けてモップを前後に動かす姿は、どこの駅でも見かける清掃員そのものだ。
悠人は立ち止まった。
清掃員。異変か?
今まで通路に人がいたのはユキだけだ。その論理で言えば、これも異変だ。引き返すべきだ。
だが——これがバックヤードエリアなら、清掃員がいるのは自然なのではないか?
悠人の視線が清掃員の背中に固定された。金髪のショートカット。作業着から伸びる細い首筋。モップを動かすたびに、腰が左右にゆっくりと揺れている。
作業着の裾から伸びる脚は生足で、ストッキングも靴下も履いていない。足首が細く、ふくらはぎの曲線がしなやかに張っている。
——これは。
清掃員がモップを止め、腰を伸ばした。背中を反らしてストレッチするように両手を上げる。作業着の裾が持ち上がり、腰のくびれと薄い脇腹が露出する。
自然な動作だ。清掃作業の合間のストレッチ。何もおかしくない——はず。
だが悠人の心臓は早鐘を打っていた。
清掃員がモップを立てかけ、壁に手をついてかがんだ。床の汚れを確認するように顔を近づける。その姿勢で——作業着のボタンが上から三つ外れていることが見えた。胸元が大きく開き、ブラジャーをしていない胸の内側の柔らかな曲線が、蛍光灯の光を受けて白く光っている。
汗が光っている。作業着の背中にも汗染みがある。清掃作業で汗をかくのは自然なことだ。ボタンが外れるのも、作業中なら——
これは異変なのか?
ユキは明確に異常だった。通路に裸足の白ワンピースの女が座っている——そんなものは一目で異変と分かる。だがこの清掃員は「ありえる範囲」に見える。少し色っぽいだけの、普通の清掃員に見える。
悠人の判断が揺れた。その数秒の逡巡が、致命的だった。
「進む」を選択した。
清掃員の横を通り過ぎようとした、その瞬間。
「——あら」
女が振り返った。
整った顔立ち。切れ長の目にアーモンド色の瞳。口元に浮かぶのは挑発的な笑み。化粧は薄いが、唇の赤さだけが不自然に鮮やかだった。
「見てたでしょ。さっきから」
悠人は足を止めた。
「いや——」
「嘘。ずっと見てた。ここ——」
女はボタンの外れた胸元を指でなぞった。汗に濡れた谷間に指が沈む。
「気になった?」
引き返せ。今すぐ。
悠人の足は動かなかった。
女——レイ——はモップを壁に立てかけ、悠人に正面から向き合った。作業着のボタンをさらに一つ外す。汗に濡れた腹部が露出する。臍のラインから下腹部にかけて、薄い産毛が蛍光灯の光に透けていた。
「ここ、カメラないの知ってる?バックヤードだから」
レイが一歩近づく。悠人は一歩退く。壁に背がぶつかった。
「あーあ、壁。逃げられないね」
レイの手がまっすぐに悠人の股間を掴んだ。
ズボンの上からでも分かるほど硬くなっているそれを、レイは掌で確かめるように揉みしだいた。
「ふぅん……正直じゃん。身体は」
「やめ——」
「やめてほしい?ほんとに?」
レイの指がベルトのバックルを外す。ジッパーを下ろす。下着の上から、勃起した陰茎の形をなぞる。
「これが『やめて』の身体?」
悠人は顔を背けた。だが股間から伝わる刺激に抗えない。レイの指が下着の中に滑り込み、直接肉を握った瞬間、悠人の膝がかくんと折れそうになった。
「ほら。気持ちいいんでしょ?力抜きなよ」
レイは微笑みながら悠人のものを引き出し、数回しごいた。そして悠人が見ている前で、自分の作業着のボタンを残りもすべて外した。
汗に光る身体が蛍光灯の下に晒される。清掃員の作業着の下は何も着けていなかった。小ぶりだが形の良い胸の先端が、汗と興奮で硬く尖っている。腰骨が浮き出た下腹部から視線を下げれば、作業ズボンの中に手を突っ込むレイの動き。ズボンを腰まで下ろすと、一切の下着もなく、綺麗に整えられた陰部が露わになった。
「公平でしょ?お互い見せ合ったんだから」
レイはそのまましゃがみ込み、悠人の硬直した性器に唇を近づけた。
「こっちおいで。——いいもの見せてあげる」
先端に舌が触れた瞬間、悠人の視界が揺れた。
レイの舌は驚くほど器用だった。先端を舐め回し、裏筋を根元からゆっくり這い上がり、再び先端で唇を窄めて吸い上げる。両手で根元を握りしめながら、口内で舌を回転させる。
「んっ……ちゅ……おっきいじゃん。期待していいかな」
言葉の合間にも口は止まらない。唾液にまみれた音が静かな通路に響き、壁に反射して増幅される。
悠人は壁に手をついて身体を支えるので精一杯だった。頭の片隅で「異変だ」「引き返せ」という声がまだ鳴っている。だがそれは遠い。今この瞬間を支配しているのは、レイの舌と、レイの唇と、喉の奥まで飲み込まれる感触だけだ。
レイが口を離した。唾液の糸が性器と唇の間に架かり、光に透ける。
「ねぇ、知ってる?」
レイは立ち上がりながら、悠人の性器にまたがるように脚を広げた。片方の手で悠人のものを掴み、自分の入り口に当てる。すでにぬるぬると濡れた粘膜が先端を咥え込もうとしている。
「ここで出しちゃったら、またスタートに戻っちゃうよ?」
レイの瞳が愉しげに煌めいた。
ルールを知っている。この女は——異変であることを自覚している。
「分かってるんでしょ?でも——」
ゆっくりと腰を落とす。先端が膣口に沈み込んでいく。熱い。ユキよりもさらに灼けるように熱い内壁が、悠人を締め上げた。
「——止められないよね?」
レイの腰が一気に落ちた。根元まで飲み込まれた衝撃に、悠人は声にならない叫びを上げた。
「あはっ……全部入った。ねぇ、いい?私が動くから。あんたは気持ちよくなってればいいの」
レイは壁を背にした悠人の肩を両手で掴み、腰を前後に動かし始めた。最初からペースが速い。悠人の意志とは関係なく、レイの膣壁が性器全体を搾り上げるように蠢く。
「どう?気持ちいい?さっきの女と、どっちがいい?」
ユキのことを知っている。通路は全部見ていたのだ。
「あの子さぁ、見た目は泣き虫だけど——中身はけっこう怖いよ? まあいいか。答えなくていいよ。ここが、こんなに跳ねてるもん」
レイが内壁を意図的に締め上げた。悠人の腰が勝手に跳ね上がる。
「あ、自分から腰振った。ねぇ、もっと振ってよ。自分からしたいんでしょ?」
挑発に乗せられるように、悠人は自ら腰を突き上げ始めていた。レイの中は狂おしいほどに心地よく、動くたびに新しい快感が脊髄を駆け上る。
レイは上半身を仰け反らせ、悠人の突き上げを余裕の表情で受け止めた。汗に塗れた胸が揺れ、腹筋が律動的に収縮する。
「そうそう。いいよ、もっと。——あんたなかなかうまいじゃん。ちゃんと奥まで届いて……んっ……あっ」
余裕を見せていたレイの声にも、次第に本物の喘ぎが混じり始める。悠人が角度を変えて突き上げると、レイの身体がびくりと跳ねた。
「あっ、そこ……っ!やば……そこ気持ち——っ」
悠人はその角度を維持したまま、激しく腰を打ちつけた。レイのコントロールが崩れ始める。整っていた表情が歪み、目尻に涙が浮かぶ。
「ちょ、ま、速すぎ——あっあっあっ——」
立場が逆転していた。レイの膝が震え、もたれかかるように悠人の首にしがみつく。悠人はレイの尻を両手で鷲掴みにし、下から突き上げるペースをさらに速めた。
肉がぶつかる音。レイの途切れ途切れの嬌声。悠人の荒い呼吸。それらが通路の壁に反響し、何重にも重なって空間を満たす。
「出す——もう——」
「っ、やだ、中はだめ——って言ったら、止まれる?」
レイが涙声で笑った。
「止まれないでしょ。——いいよ、出して。ぜんぶ中にちょうだい。そしてまた——最初からやり直し」
最後の一突き。悠人はレイの最奥に精を叩きつけた。レイの全身が弓なりに反り返り、膣壁が痙攣的に収縮して悠人のすべてを絞り出す。
「あ——ああぁっ……」
レイの声が消えていく。
声と一緒に、レイの身体が消えていく。輪郭が薄れ、透けていく。最後に残ったのは、悠人の頬に触れたレイの指先と、耳元で囁く声。
「——また来なよ。次は、もっといいことしてあげる」
通路がリセットされた。
悠人は床に崩れ落ちた。今度は膝を立てる気力すら残っていなかった。
スマートフォンを確認しようとポケットに手を伸ばす。画面は真っ暗だ。電源ボタンを押しても反応しない。
外界との接続が完全に断たれた。
だが悠人を本当に恐怖させたのは、それではなかった。
自分の名前が——一瞬、思い出せなかった。
「桐山……悠、人……」
口に出して確認する。大丈夫だ。覚えている。まだ、覚えている。
だが次は?次に異変に負けたら、次は何を失う?
悠人は震える脚で立ち上がった。
通路は何事もなかったかのように、白い蛍光灯の下で沈黙している。