三度目のやり直し。
悠人は歩きながら、自分の記憶を確かめていた。
桐山悠人。二十七歳。都内のIT企業に勤務。独身。マンションは世田谷——いや、目黒だったか。目黒だ。最寄り駅は……。
出てこない。
自分の最寄り駅が思い出せない。毎日使っている駅の名前が、霧の向こうに沈んでいる。
——異変に負けるたびに、何かを奪われている。
一度目にユキと交わったとき、時間の感覚を失った。二度目にレイと交わったとき、スマートフォンが死に、名前が一瞬揺らいだ。三度目の代償は、記憶の欠落。
次は何を失う?
考えるのが怖かった。だが考えなければ、次の異変に対する防壁が作れない。
悠人は壁を歩きながら、指でコンクリートの感触を確認した。硬い。冷たい。現実の手触りだ。これは夢ではない。
——絶対に、もう負けない。
*
通路が新しい姿を見せ始めた。
コンクリートの壁がタイル張りに変わり、蛍光灯ではなく埋め込み式のダウンライトが柔らかな光を落としている。床は磨き上げられた大理石。壁にはポスターの代わりに、抽象画のアートフレームが等間隔で並んでいる。
オフィスビルのエントランスのような空間だった。
異変か?いや——通路の構造変化は今までもあった。バックヤードに変わったこともある。構造の変化自体は異変ではない。中身が問題だ。
悠人は注意深く進んだ。
抽象画を一枚ずつ確認する。幾何学的な模様。色彩は寒色系。不自然な要素はない。天井のダウンライトの数、壁の色、床のタイルの目地——すべて正常に見える。
悠人はそのまま進んだ。新しい区画が開ける。
——いける。集中すれば大丈夫だ。
次の区画。
受付カウンターがあった。
ダークウッドの長いカウンターが通路の片側に設けられ、その上に「INFORMATION」のプレートが置かれている。壁にはフロアガイドが掲示されている。
構造変化の一部だ。問題ない——
カウンターの向こうに、女が座っていた。
悠人の足が止まった。
紺色のブレザーに白いブラウス。髪をきれいなシニヨンにまとめ、薄い化粧を施した二十代半ばの女。胸元に名札。「アオイ」。
受付嬢だ。オフィスビルの受付嬢。
——人がいる。異変だ。
この反応は正しい。ユキ、レイ、そして目の前のこの女。通路に人間がいること自体が異変だ。何度でも、何回でも、それは変わらない。
引き返す。
悠人は踵を返した。
「お客様」
女の声が背中にかかった。よく訓練された接客業の声。丁寧で、冷静で、事務的。
無視しろ。
「お客様、八番出口へお向かいでしたら、こちらでご案内が可能です」
悠人の足が止まった。
——八番出口。
この女は八番出口を知っている。案内できるという。
罠だ。罠に決まっている。ユキは「助けて」で釣り、レイは「バレない」で釣った。今度は「案内」で釣ろうとしている。パターンは違うが、本質は同じだ。
歩け。引き返せ。
「お客様。現在地は第七十二区画です。八番出口まで残り十六区画となっております」
具体的な数字だった。
悠人は振り返れなかった。振り返ったら負ける。だが足も動かなかった。
七十二区画。残り十六。
今まで掠れて読めなかった案内板の数字を、この女は明確に告げた。本当なのか?自分はもう七十二区画も進んでいるのか?残りはたった十六なのか?
嘘かもしれない。だが——本当だったら。本当だったら、あと少しで出られる。
「お客様、一つだけご確認いただきたい事項がございます。こちらへお越しいただけますでしょうか」
悠人は呼吸を整えた。
振り返るな。この女は異変だ。異変に応じれば後退する。今は七十二区画まで来ている。ここで後退すれば——
いや、待て。
引き返すのが正解なのは、「異変を見つけたとき」だ。そして引き返すことで一区画進める。つまり、ここで引き返せば七十三区画に進む。残り十五。
女の言葉に惑わされる必要はない。ルール通りにやればいい。
悠人は踵を返し——
「なお、七十三区画以降は異変の出現パターンが変化いたします。現在のルールが適用されなくなる可能性がございますので、事前にご説明させていただければと存じます」
足が凍った。
ルールが変わる?
「異変を見つけたら引き返す」——この唯一の指針が通用しなくなる?
「……嘘だ」
悠人は声に出した。
「そんなルール変更、案内板には書いてなかった」
「案内板の情報は第一区画から第七十二区画までの初期ルールでございます。八番出口に近づくにつれ、通路のルールは段階的に更新されます。これは通路の仕様でございます」
女の声はどこまでも事務的だった。感情がない。ユキの脆さもレイの挑発もない。ただ淡々と情報を伝える受付嬢の口調。
だからこそ、信憑性があった。
悠人はゆっくりと振り返った。
受付カウンターの向こうで、アオイが背筋を伸ばして座っている。両手をカウンターの上で重ね、微笑みを浮かべている。作られた笑みだが、不快ではない。接客業の笑み。
「お近くにどうぞ。立ち話では失礼ですので」
カウンターの前に椅子が一つ用意されている。いつからあったのか。
悠人は警戒しながらも、十メートルの距離を詰めた。五メートル。三メートル。アオイの姿がはっきり見える距離。
近づいて見ると、アオイの容姿は地味と言っていいほど落ち着いていた。化粧は最小限。ブレザーのボタンはすべて留まっている。ブラウスの襟も乱れていない。スカートは膝が隠れる丈。露出はゼロに近い。
ユキやレイとはまるで違う。
「お掛けになってください」
悠人は椅子に座った。カウンター越しにアオイと向き合う。
「ご説明いたします。第七十三区画以降では、異変は単体では出現いたしません。複数の異変が同時に発生し、それぞれが互いを打ち消し合う形で提示されます。一つの異変を発見して引き返しても、見落とした異変によって進行が相殺される場合がございます」
「……つまり、全部の異変を見つけないと進めないってことか」
「その通りです。加えて、異変の中には『正常に見せかけた異変』も含まれます。つまり、異変がないと判断して進んだ先が、実は異変の区画であったという事態が発生いたします」
悠人は唇を噛んだ。
今まで以上に難度が上がる。一つの見落としが後退に繋がる。しかも「異変がない」ように見える区画にも罠がある。
「それを……どうやって見分ける?」
「それをご案内するのが、私の役割でございます」
アオイが丁寧に頭を下げた。
「私はこの通路の案内係です。お客様が八番出口に到達されるまで、異変の判別をサポートいたします」
——案内係。異変の判別をサポート。
悠人は黙ってアオイを見つめた。
信じるか?
この女は異変だ。通路に人間がいる時点で異変だ。だが異変が「案内をする」と言っている。矛盾している。異変は悠人を阻む存在のはずだ。なぜ助ける?
「お客様のお気持ちはお察しいたします。ですが、私を異変として引き返されても、一区画進むだけです。その先で、私の説明なしに複合異変に挑まれることになります」
アオイは微笑みを崩さない。
「もちろんご判断はお客様に委ねます。引き返されますか?それとも、ご案内をお聞きになりますか?」
*
悠人はアオイの案内を聞くことを選んだ。
それが正しい判断なのか、致命的な過ちなのか、分からなかった。だが暗闇の中で差し出された手を払い退けるほど、悠人に余裕は残っていなかった。
アオイはカウンターの下からファイルを取り出し、悠人に渡した。透明なクリアファイルの中に、紙が一枚。区画の見取り図のようなものが描かれている。
「こちらが第七十三区画の見取り図です。赤い丸で示された箇所に異変が配置されています。——三つ」
悠人はファイルに目を落とした。確かに見取り図がある。通路の形状と、壁・天井・床のどこに異変があるかがマーキングされている。
「……これが本物だとして、なぜ教えてくれる」
「私の役割ですので」
「通路は俺を出したくないはずだ。出口に近づけば近づくほど、異変は激しくなった。なのに案内をするなんて——おかしい」
「おっしゃる通りです」
アオイが頷いた。
「通路は、お客様を出口に導くことと、お客様を留めることの、両方を目的としております。矛盾しているように見えますが、ゲームにはルールが必要です。ルールなきゲームは、お客様にとっても通路にとっても意味がございません」
「ゲーム——」
「はい。この通路はゲームです。そしてすべてのゲームには、攻略法が存在しなければなりません。私は、その攻略法をお伝えする存在です」
悠人はアオイの顔を見た。事務的な微笑みの奥に、感情は見えない。
「ただし——」
アオイが言い淀む、初めての間が生まれた。
「——攻略法をお伝えすることと、お客様がそれを実行できることは、別の問題です」
*
アオイの案内に従い、悠人は第七十三区画に入った。
見取り図通りだった。壁のアートフレームの一つだけ色調が暖色に変わっている。天井のダウンライトが一つだけ規則的に明滅している。そして床の大理石のタイルの目地が、一箇所だけ赤く染まっている。
三つすべてを確認し、引き返す。新しい区画が開ける。
——本当に進めた。
悠人はカウンターがあった場所を振り返ったが、アオイの姿はない。だが、床に新しいクリアファイルが落ちていた。拾い上げると、第七十四区画の見取り図が入っている。
この方式で進むのか。
次の区画。見取り図を確認しながら異変を探す。今度は四つ。壁、天井、床、そして空気——微かなラベンダーの匂いが混じっている。
四つすべてを確認し、引き返す。前進。
次の区画。異変は五つ。一つは「音」だった。通路のどこかから、空調のような低い唸りが聞こえる。通常は無音のはずだ。
五つすべてを確認し、引き返す。前進。
順調だった。アオイの見取り図は正確で、悠人は着実に区画を進めていた。
第七十八区画に入ったとき、見取り図に異変が六つマーキングされていた。そのうち五つをすぐに見つけたが、六つ目が見つからない。
——どこだ。
壁。天井。床。空気。音。すべてチェックした。だが六つ目が分からない。見取り図には「カウンター付近」と書かれている。
カウンターがあった。さっきと同じダークウッドの受付カウンター。そしてその向こうに、アオイが座っていた。
「見つかりましたか?」
「六つ目が分からない」
「お近くにどうぞ」
悠人はカウンターに近づいた。アオイが立ち上がり、カウンターの内側から出てくる。初めてアオイの全身が見えた。
紺のブレザー。白のブラウス。タイトスカート。黒のストッキング。パンプス。
——何もおかしくない。
「六つ目の異変は、私です」
アオイが言った。
「……何?」
「私の服装をご確認ください。前回お会いしたとき、私はスカートの丈が膝丈でした。今回は——」
悠人はアオイのスカートを見た。
膝上五センチ。前回より短い。
「これが異変です。微細な変化ですが、前回との差異が存在します。この区画では、私自身が異変の一つとして組み込まれています」
悠人は息を吐いた。
「……自分が異変だと教えてくれるのか」
「それが私の役割です。ただし、今後も私が異変として出現する場合、変化はより微細になっていきます。お客様ご自身の観察力が問われることになります」
引き返す。前進。
だが悠人の心に小さな棘が刺さっていた。
アオイのスカートが短くなっていた。五センチの変化。それ自体は異変であり、引き返すべき対象だ。しかし——
なぜアオイは自分の変化を教えたのか。
正直に教えることで信頼を得て、もっと大きな罠を仕掛けるためではないか。
ユキは純朴さで。レイは挑発で。そしてアオイは——信頼で。
三者三様の手口。だがすべて同じ目的に向かっている。
*
第八十区画。
見取り図の異変は七つ。悠人は六つまで見つけた。七つ目の欄には「案内係」と記されている。
アオイを確認する必要がある。
カウンターに向かう。アオイが座っている。紺のブレザー、白のブラウス、タイトスカート。
悠人はアオイの全身を観察した。前回との違いを探す。スカートの丈——前回と同じ膝上五センチに見える。ブラウスの襟——変わらない。ブレザーのボタン——全て留まっている。
何も変わっていない。
ということは、この区画でアオイは異変ではない。異変は六つ。七つ目はフェイクだ。
「アオイ。今回は何も変わってないな」
「お客様の観察力には感服いたします」
アオイが微笑んだ。いつもの事務的な笑み——だが、ほんの少しだけ温かみがあるように感じた。
「このまま進めば良いんだな」
「はい。異変六つをすべてご確認されましたので、引き返していただければ前進いたします」
悠人は引き返した。前進。
第八十一区画。異変は八つ。うち一つは「案内係」。
カウンターのアオイを確認する。
——ブラウスの第一ボタンが外れている。
鎖骨のラインが見える程度の変化。些細だが、前回までは全てのボタンが留まっていた。
異変だ。
「ボタンが一つ外れてる」
「はい。おっしゃる通りです」
アオイは動じない。自分が異変であることを淡々と認める。
「……ボタン、留めないのか」
「異変は私の意思で発生するものではございません。通路が決定いたします。私に制御はできかねます」
引き返す。前進。
第八十三区画。異変は九つ。「案内係」の項目あり。
アオイを確認する。
ブラウスの第一ボタンは留まっている。——戻っている。だがストッキングの色が黒からグレーに変わっている。
異変。引き返す。前進。
第八十四区画。異変十個。「案内係」あり。
アオイを確認。ストッキングは黒に戻っている。スカートの丈も変わらない。ブラウスのボタンも——
だが。
悠人はアオイの顔を見た。
口紅が塗られていた。
今まで、アオイの唇には色がなかった。薄い肌色のリップクリームのみだった。それが今、淡いピンクの口紅に変わっている。
「……口紅」
「お客様」
アオイの微笑みが、少しだけ寂しげに見えた。
「正解です」
引き返す。前進。
悠人は歩きながら、身体の奥に鈍い疼きを抱えていた。
アオイの変化を見つけるたびに、それを「異変」として報告し、引き返す。正しい行動だ。ルール通りだ。だが報告するためにはアオイの全身を隅々まで観察しなければならない。ボタンの数を数え、スカートの丈を確認し、ストッキングの色を見極め、口紅の有無を確かめる。
その作業のたびに、悠人の下腹部に熱が溜まっていく。
——勃ってる。アオイを見るだけで。
ズボンの中で硬くなったそれを自覚するたびに、悠人は歯を食いしばった。ユキやレイのときは明確な性的刺激があった。だがアオイは何もしていない。ただ座っているだけだ。それなのに。
俺の身体は、アオイを「女」として見ている。あのブレザーの下に何があるのか、想像している。その想像が、勃起を作っている。
*
第八十六区画。
見取り図には異変が十一個マーキングされていた。数が多すぎる。壁、天井、床、空気、音、光——通路のあらゆる要素に異変が仕込まれている。
悠人は額に汗を浮かべながら、一つずつ確認していった。十個を見つけたが、十一個目はやはり「案内係」だ。
カウンターに向かう。アオイが座っている。
悠人は全身を観察した。ブレザー。ブラウス。スカート。ストッキング。パンプス。髪型。化粧——
何も変わっていない。
完璧に同じだ。
「……変化なし、か?」
アオイが黙って立ち上がった。カウンターの内側から出てくる。
「お客様。よく見てください」
アオイがゆっくりと一回転した。後ろ姿が見える。
シニヨンにまとめた髪からうなじが覗く。ブレザーの肩のライン。腰のくびれ。タイトスカートに包まれた臀部の曲線。ストッキング越しのふくらはぎ。
——何もおかしくない。完璧な受付嬢の姿だ。
アオイが正面に向き直った。
「いかがですか」
「……変化はない。今回は異変じゃないな」
「はい。正解です。今回、私に異変はございません」
悠人は頷き、引き返そうとした。
だが。
アオイを一回転させて見たとき——アオイの身体のラインを目で追ったとき——悠人の股間が明確に反応していた。
アオイは何もしていない。露出したわけでも、誘惑したわけでもない。ただ全身を確認させるために一回転しただけだ。
だがうなじから背中、腰のくびれ、タイトスカートに包まれた丸い尻、ストッキングの脚——その全てが悠人の網膜に焼きついた。ズボンの前面が窮屈に張り詰めている。
——まずい。完全に勃起してる。
この勃起はユキやレイの時とは違う。あからさまな性的刺激ではない。異変を確認するという「正当な行為」の中で、俺の身体が勝手にアオイを「女」として認識し、欲情している。
通路が仕掛けているのは、もはや異変ではなかった。
俺自身を、アオイを欲する装置に作り替えていた。
*
第八十八区画。
カウンターのアオイを確認する。今回の異変は——
ブレザーを脱いでいた。
白いブラウスだけになったアオイの上半身。布一枚減っただけで、身体の起伏が露わになっていた。ブラウスの布地は薄く、ダウンライトの光を透かして下着のラインがうっすらと浮かんでいる。胸のふくらみが生地を押し上げ、先端のかたちまで分かりそうなほどだ。
悠人の口内に唾液が溜まった。
「ブレザーを脱いでる。異変だ」
声が掠れた。咄嗟に咳払いをして誤魔化す。
「はい。おっしゃる通りです」
アオイが事務的に頷く。だが悠人の視線はアオイの胸から離れなかった。ブラウス越しの曲線が、頭にこびりつく。
——ユキよりもレイよりも、じわじわと効いてくる。
引き返す。前進。だが悠人の下半身は、とうに引き返していなかった。
第八十九区画。異変は十二個。「案内係」あり。
カウンターのアオイ。ブレザーは着ている。だがブラウスの第一ボタンと第二ボタンが外れている。鎖骨から胸の上部にかけて、白い肌が覗き、ブラジャーの縁がちらりと見えていた。汗が鎖骨の窪みに溜まり、ダウンライトの光を反射して光っている。
「ボタンが二つ外れてる」
声を出すのが辛かった。視線が胸元に吸い寄せられる。ボタンの隙間から覗く肌の面積は僅かだが、そのわずかな露出が想像を膨らませる。あの布の下に、どんな形の乳房があるのか。先端は何色なのか。
「……はい」
アオイが小さく頷く。
悠人の股間は限界だった。ズボンの内側で硬く張り詰めたそれが、歩くたびに布地と擦れて鈍い刺激を送ってくる。
——これ以上アオイを見つめていたら、ここで射精しかねない。
引き返す。早足で。だが引き返しながらも、網膜に焼きついたアオイの鎖骨、汗の光、ブラジャーの縁が消えない。
通路の戦略は着実に効いていた。ユキで性欲を起こされ、レイで快楽を身体に刻まれ、今——アオイの存在そのものが、悠人の肉体を慢性的な発情状態に追い込んでいる。
異変を確認するたびに性的興奮が蓄積されていく。引き返すたびに欲求不満が積み重なっていく。
俺は分かっている。このままいけば、いつか必ず——耐えきれなくなる。