——目を開けると、通路だった。
白い蛍光灯。コンクリートの壁。タイル張りの床。化粧品のポスター、防災ポスター、路線図。何もかもが最初の姿に戻っている。
男は通路の真ん中に立っていた。
名前は——何だったか。
思い出せない。というより、思い出すべきものが何だったかも分からない。名前という概念が、ぼんやりとした霧の中にある。自分が誰で、どこから来て、なぜここにいるのか。すべてが曖昧だった。
だが身体は覚えていた。
名前は忘れた。記憶は消えた。だが腰が、ペニスが、舌が覚えている。冷たい膣内の感触。灼熱の締め付け。温かい粘膜の痙攣。三つの異なる快楽の記憶だけが、身体の奥に刻み込まれていた。
何かを探さなければならない。この通路には「異変」がある。異変を見つけたら引き返す。そうすれば前に進める。その先に——出口がある。
男は歩き出した。
壁。ポスター。蛍光灯。
何もおかしくない。
男はそのまま進んだ。
次の区画。壁。ポスター。蛍光灯。
何もおかしくない。
進む。
何区画歩いただろうか。男は足を止めた。
通路のベンチに、女が座っていた。長い黒髪。白いワンピース。素足。
女が顔を上げた。
「——人?あなた、人なの?」
男の心臓が跳ねた。知っている。この女を知っている。名前は——
ユキ。
その名前が、何の脈絡もなく浮かんだ。
「ここから出られないの。お願い、助けて」
女が近づいてくる。男の腕に触れる。冷たい指。
——引き返さなければ。
頭のどこかでそう思った。だが男は動かなかった。この女に触れたい。抱きしめたい。あの冷たい膣内にペニスを沈めたい。衝動が身体の底から湧き上がる。記憶は消えても、快楽の残滓が命令している。
男は女を押し倒した。ワンピースを剥ぎ取り、冷たい身体を貪った。ユキの冷たい膣内が、記憶にある通りの感触で男を包み込む。冷たく、きつく、奥まで吸い付いてくる。
「あぁっ——また——あなたが——中に——っ」
男は覚えたての獣のように腰を振り、ユキの子宮に精液を注ぎ込んだ。白い身体の上に白い液体が溢れ、通路の床を汚した。
通路が揺れた。蛍光灯が明滅した。男は前に進んだのか、後ろに戻ったのか、もう分からなかった。
*
バックヤードの区画。
金髪の清掃員が振り返る。
「あら。見てたでしょ」
レイ。名前が浮かぶ。知っている。この女も知っている。この女の膣内は熱い。灼けるように熱い。
「ここ、カメラないの知ってる?」
男は一言も発さずにレイの作業着を引き裂いた。裸にされたレイが目を丸くし、次の瞬間、唇の端を吊り上げた。
「あは——すごいじゃん。前より獣っぽくなったね。——いいよ、好きにして」
男はレイを壁に押し付け、背後から突き入れた。レイの灼熱の膣内が、記憶にある通りの感触で男の陰茎を焼いた。激しく、奥まで、何度も何度も叩きつける。レイの嬌声が通路に反響する。
「あっ、あっ、あっ——すご——前より、ぜんぜん——あぁっ——イく——っ」
レイが痙攣し、男もレイの中に射精した。精液がレイの太ももを伝って床に滴る。
通路が揺れた。
*
受付カウンター。
紺のブレザー。白いブラウス。シニヨン。
「おかえりなさいませ、お客様」
アオイ。その名前が浮かんだ瞬間、男の胸に鋭い痛みが走った。そして——股間が硬くなった。
「——」
何かを思い出しかけた。何か大切なものを失ったという感覚。だがそれが何なのか、もう形にならない。形にならないが、身体は別のことを鮮明に覚えている。この女の膣内の温かさ。この女の乳首の色。この女が絶頂したときの、あの痙攣。
「お客様。八番出口までのご案内は、私がいたします」
アオイが微笑む。事務的な、だが温かみのある微笑み。
男はカウンターの前に座った。自分が何をすべきか分からない。だがこの女が教えてくれる。この女に従えばいい。この女がいれば——
——この女と、また交わりたい。
その欲望だけが、男に残された最も鮮明な衝動だった。
「お客様。お名前を、お伺いしてもよろしいですか」
名前。
名前——
「覚えて……ない」
「さようでございますか」
アオイが一瞬だけ、目を伏せた。
「では——。お客様のお名前は、通路がお決めいたします」
壁の案内板に文字が浮かんだ。
『通路利用者No.8847認識名:未定』
男は番号になった。
名前を失い、記憶を失い、自分が何者かも分からないまま、通路を歩き続ける存在になった。ただ三人の女の膣内の感触だけを身体に刻み込んだまま、永遠に通路を彷徨う獣になった。
だが男は怖くなかった。
ユキがいる。レイがいる。アオイがいる。
三つの身体が、三つの快楽が、永遠に男を待っている。
この通路から出る必要が、もうなかった。
——終電を逃した。
田辺洋介はホームのベンチから立ち上がり、スマートフォンでタクシーアプリを開こうとした。だが——圏外だった。
仕方なく地上に出ようと改札を通り抜ける。出口を示す案内板があった。
『← 1~7番出口8番出口 →』
見慣れない表示だった。左の通路は照明が落ちて真っ暗で、右だけが蛍光灯に照らされている。
洋介は右の通路へ足を踏み入れた。
通路の奥から、かすかに女の笑い声が聞こえた。三つの声が、重なっていた。