主人公が『小さな人』の部屋から出た時間軸
「やあ」
第二王子アンデルセンが現れた時、ナナミはようやく、アサギの心情を少しだけ理解できたような気がした。
アサギは徹底してアンデルセンに嫌悪感を持っていた。
話を聞けば、そう思える事情もわかる。けれど、どうしても、ナナミにとって、アンデルセン第二王子は、『爽やかで、穏やかで、にこやかな、背が高くて顔がいい、王子様』だった。
けれど……
今、こうして。
クラスのみんなを裏切って、居住区を出た途端に声をかけられて。
……その待ち構えていたようなタイミングに、気持ち悪さと、恐ろしさを覚えた。
誰もいない黒い廊下の中で、真っ白なスーツを着たアンデルセン王子が、にこにこと人好きのする笑みのまま、近付いて来る。
彼はしかし、ぴったり三歩の距離で、足を止めた。
彼にとっての三歩は、ナナミやレイナの三歩よりも、はるかに長い。
「ミス・ナナミにミス・レイナ──ああ、ミス・レイナは無事だったんだね。本当に良かった。心配したんだよ」
「どーも」
レイナはアンデルセンに対して、さほど媚びた対応をしていなかった。
先ほどクラスメイトたちの前で打ち明けられたのがレイナの指針であるならば、それこそ……アサギよりも、ヤナウエよりも、目の前のアンデルセンの『身内』になった方が、生き残りやすく思える。
だが、レイナは最初からこうだった。クラスメイトたちが、この長身の王子様に黄色い悲鳴を挙げている最中も、レイナは、アンデルセンに見向きもしていなかった。
……それはいったい、何を意味するのか。
ナナミは緊張からぎゅっと自分の手首を握り、アンデルセンをじっと見る。
アンデルセンは「そうそう」と、今思いついたかのように、話を続けた。
「二人とも、我が友──アサギタカミネのところへ行くのだろう?」
「……どうして、知ってるんでしょうか」
ナナミの質問に、アンデルセンは「それはね」と、質問を想定していた速度で応じる。
「我が友に救われたミス・レイナが、こうして急ぎ足で、ミス・ナナミだけを伴って、君たちの居住区の外を歩いている──という状況からの推理だよ。それからもう一つ」
「……?」
「私が君たちと同じ立場でも、クラスメイトより、アサギタカミネを選ぶ」
「………………」
「お友達に『みんなも来ないか』という誘いをかけなかったのは賢明だったね。そんな人数で出ていかれれば、我が友は受け入れなかっただろう。彼は、恥ずかしがり屋で、人見知りだから。それに……私も、さすがに、それは止めねばならなかった」
異世界人は、王宮とダンジョンを往復するだけの暮らしを強いられている。
不自由を感じてはいない──もちろん、異世界に拉致されたことでの心理的負担はあるけれど、それでも、王宮ではよくしてもらっているから、不自由というほどのことは、なかった。
ただし実際には、かなり、行動を制限されているのだ。
……ナナミは、唇を噛みしめた。
そうだ。『その問題』もあった。
アサギが自分たちを招いた。レイナのことは差し出せと言った。
だが、『そもそも、自分たちは王宮の外に出られるのか』という問題も、自分たちの目の前にはあったのだ。
アサギは、そこを考えていなかった?
……違う。『そこ』さえクリアしろというオーダーだった。
あるいは……
「君たちの外出を、私の権限で許そう」
アンデルセンなら許可するだろうと思っていて、問題にもしていなかった。
ナナミは思わず、疑問が口をついて出る。
「……いいんですか?」
「良くはないね」
「じゃあ、なんで……」
「私が友と結んだ『相互不干渉』という条約。これは、極めて取り扱いが難しい。不干渉と言うなら、この国家に彼がいるのも、ある意味で、彼から我々への干渉だしね」
「……」
「我が王国の資産である『異世界転移者』が出ていく──しかもこれが、彼の誘い、あるいは命令によって。そうなるともう、これは完全に、国政への干渉だ。許されるものではない」
「……それじゃあ」
「しかし、彼は私に友情を示した。ならば、多少解釈を曲げてでも、友情に応えるのが、友というものだ。そうだろう?」
「……アサギくんが、あなたを友達だと思っているかは、わかりませんけど」
「思っていないだろう」
「……」
「しかし、私が彼を友だと思っている。それで充分だ」
「……アサギくんを殺そうとしたんですよね」
そこに踏み込むことで、得はなかった。
だがどうしても口をついて出てしまったのは……ナナミが、恐怖に負けたからだ。
このアンデルセンという底の知れない男の意図を少しでも掴みたくて……いや、そんな明確な意図さえ、なかった。ただただ、相手が何を考えているのかわからなさすぎるのが怖くて、言葉にしてしまった。ただの、逃避行動にしか過ぎなかった。
アンデルセンは、にっこり笑ったまま、
「そうだよ」
「……」
「けれど、彼は価値を示した。だから私も、彼のためになってあげたい──という答えでは、君の不安は解消されないのだろうね、ミス・ナナミ。だから、君たちにもわかりやすい答えをあげよう」
そこでアンデルセン王子が、歩みを進める。
ナナミは、動けなかった。
そのナナミの目の前で止まり、口を耳に寄せて、アンデルセンは、こっそりとささやく。
「私は妹を愛しているんだ」
「……」
「妹が彼を好いている。だから、彼のためになりたい。兄として、おかしなことがあるかな?」
「……それは」
「君ならわかるだろう、ミス・ナナミ。血のつながった相手というのは、相手がこちらをどう思っていようとも、愛おしいものだよ」
ナナミの視線は、ずっとアンデルセンをにらんでいる、妹のレイナに向いた。
その視線の動きに、アンデルセンは満足そうに微笑んだ。
「では、君たちの仲間には、私から改めて説明しておくことにしよう。……城門前で待っているといい。彼はまだ城にいるからね」
アンデルセンが、ナナミとすれ違うように、歩いていく。
その先には、クラスメイトたちのいる居住のための宮殿があった。
ナナミは──
「……っ、はぁ……」
緊張を、吐息に変えた。
あまりにも重苦しく、あまりにも、命懸けの会話だった、ような気がする。
モンスターより、何より──
──あの人が、怖い。そう思った。
◆
「ふふ。うふふ……」
彼女の視界は暗闇そのものだが、彼女にはすべてが見えている。
小さな人。あるいは小さな淫魔。
名前を持たない人。女神から見放されたこの世界において、この世界の人間には不可能な
王家の者と淫魔とが交わって出来上がった血筋。
歴史的なことを語らば、『はるか昔、王家の者がまだダンジョンに挑んでいた時代。そこで淫魔に魅了された王家の者が淫魔と交わって、一人の赤子を連れてきた。その赤子は、人間には宿し得ないと言われていた呪力を宿して生まれた。その後、王家には、何十年に一度か、淫魔の肉体を持った子が生まれるようになってしまった』というものがある。
今、この時代、ここにいる彼女は、そうして生まれた『淫魔の先祖返り』だ。
そして『淫魔の先祖返り』が生まれるたび、その呪力を一部の器官に封じ込めて摘出するという儀式が行われてきた。
その器官が眼球だったのは、彼女の祖先にあたる淫魔が『魔眼』を持った者で、目に呪力が集まり易かったから、というのが理由になる。
特殊な儀式によって体中のほとんどの呪力を眼球に集めたあとに抜き出され、あとは食事もいらず、『集めきれなかった呪力』が尽きるまで、呪力を抜き出された時点の肉体で生き続ける。
その呪力は残りかすのようなもので、生命を維持するのがやっと。ただし、淫魔由来の魅力がもともと高いので、近付いた者は、呪力に適性があるか──よほど
実際、彼女の眼球を抜いた術者は、術後に自死した。
施術後の術者を出迎えた王宮の兵から剣を奪い、自ら目に剣を刺し、そのまま頭を貫いて死んだのである。
「うふふふふ……」
暗い世界に住む彼女の頭の中では、いつでも幸せな記憶がリピートされている。
そこには、色もあって、形もあった。
彼女は、すべてを見ている。
歴史上、呪力を集めた眼球を抜かれたあとの『淫魔の先祖返り』は、ただ美しく、魅力的なだけの、何もできない、羽根を切られた小鳥でしかなかった。
近寄らなければ無害。だが、殺し切ることもできないため、誰も寄り付かない場所で隔離され、ただただ死ぬまでの時間を過ごすだけの存在。
……だが。
彼女は、突然変異だった。
「……」
彼女は……
彼に握られた手を、口に運ぶ。
そして、指を、しゃぶり始めた。
「ん……」
幻想の中の彼の手を愛撫するように、唇で味わい、舌で味わう。
無垢な少女しかいない空間に、熱っぽい吐息と、水音が満ちていった。
生きた媚薬。
その体臭は人の性欲を刺激する。
その所作は、人の精神を刺激する。
一方で、その美しさは、彼女を傷つけた者の罪の意識を酷く刺激する。
だからこそ、人々は狂うのだ。
どう抱いても壊してしまいそうな華奢で小さな彼女。壊してしまえば罪の意識に耐えきれなくなることがありありとわかる。だというのに、彼女を見て、彼女を嗅げば、手を出さずにはいられない。
結果として、彼女に近付いた人は、正気を忘れ、自死を選ぶ。いつか自分がこの無垢な少女を破壊してしまうことを確信し、それに絶望し、彼女を傷つけないために、死に至る。
「……」
指をしゃぶる動きに、一層の熱が加わる。
彼女はすべてを知っている。
彼女はすべてを見ている。
……ここは、『ゲーム』から、数年経った世界。
ゲームの中では、ただの『美しく、可愛らしい、王宮勢力の中でヒロイン役を担う者』にしか過ぎない。
アンデルセンの実妹、小さな淫魔。そういった設定は語られるが、ゲーム中に彼女がなんらかの役割を担うことも、なんらかの事件を起こすこともない。
強いて言えば、『彼女の目玉をくり抜いた王宮勢力を倒す動機の一つ』という程度の存在──
──だが、今の彼女は。
きゅううう……
可愛らしい音が、彼女のお腹から鳴る。
「あら……」
なだらかな腹部に片手を置いて、恥ずかしげに頬を朱に染める。
ここ最近の彼女は、空腹を覚えていた。
城にいる、美味しそうな気配……
聖力を食べたいという欲求が、彼女の中に芽生えていた。
彼女は……
淫魔女王の、遠い遠い、娘。
血縁のてっぺんに存在する『母』が、『ゲームの主人公』を喰らったことで存在が強化された存在。
もはや彼女はゲームのように無力でもなければ、無欲でもない。
空腹と渇望を知った少女は、欲求を持ってしまった。
その欲求は……
「お腹いっぱい、食べてみたい。あなたと一緒に」
好きな人とデートをして、食事を楽しんでみたいという、あまりにもささやかな、欲望だった。