主人公との会話
「ああ、そうそう──」
アサギは、こんなに楽しそうな顔をするやつだっただろうか?
ワタナベはアサギをいじめていたわけではなかった。だが、いじめられていることは知っていた。
立場で言えば、ワタナベも強いわけではない。スクールカーストというものの中では、最底辺をアサギタカミネとした時に、そのちょっと上……
イベントごとに切り替わるクラス内順位の底辺から半ばあたりをうろうろしている、一歩間違えれば、自分が『クラスの団結のための生贄』にされそうな、そういう立ち位置だった。
だから、アサギの存在は……正直に言ってしまえば、助かっていた。
アサギがいる限り、『クラスの団結のための生贄』という役割が自分たちに回って来ることはない。そう思えたから。
ワタナベから見たアサギは……いつでも、笑っているやつだった。
でも、楽しそうではなかった。『へらへらしてる』と言いたくなるへたくそな笑顔で、いつでもヤナウエやそのグループに対して、媚を売っていた。
もしかしたら当人は自覚していないのかもしれないけれど、アサギの笑顔は、見ているとどうにもイライラするような、そういうものだった。
『だから、いじめる』とまでは、少なくともワタナベはならないが……
いじめられている……『クラスの団結のための生贄』にされているのも、なんとなく納得してしまうぐらい、自信がなくて、おどおどしていて、そのくせ、内側に強い自尊心があって、腹の中ではなんとなく、ヤナウエだけではなくって、色々なものを見下しているんじゃないか──そんな感想を抱かせるヘラヘラ笑いをしている、そういう男だった。
……でも、今のアサギは、『楽しそう』だ。
見たこともないほど自然な笑顔で、聞いたこともないようなにこやかで、自信満々な声で、話している。
もしもクラスの中でもこの調子だったらきっと、成績とか、所属する団体……部活や委員会、先輩とのつながり……とかを見られることなく、独特の立ち位置を維持できていたのかもしれない。
ちょうど、ササイナナミのように。いじめに加わらされることもなく、かと言って、いじめられることもない、そういう、特殊で独立したポジション。
今のアサギの楽しそうで堂々とした様子は、そういう立ち位置が許されるような、一種の強さを感じさせるものだった。
「──そういえば、レイナさんの様子を見せておこうと思ってさ」
入れよ、と言われて、ワタナベは、自分がアサギの家? の入り口あたりで対処されていたことを思い出した。
アサギは玄関でワタナベを出迎えたまま、中に入れようとしなかった。
だが……くすんだ銀髪の女の子と話してから、アサギの態度はにこやかになった。……くすんだ銀髪の子と話してから、『ネコイを助けたいなら、代わりに誰か女子を差し出せ』と言い出したので、あの女の子も、かなりのクセモノなのは、わかるのだけれど。
それでも、こんなふうに家に招かれると、ワタナベとしては気持ちが楽になる。
最初のとりつく島もないような態度のままでいられたら、ネコイが助からなかった。だが、今は……代償こそ求められているけれど、助かるような、空気が漂っている。
それに、ワタナベは、代わりに女子を差し出す気はなかった。
騙そう……と、考えていたと思われるかもしれない。でも、その咎も含めて、自分が下働きでもなんでもして、お礼をするつもりでいる。
ネコイを助けたいのは、ワタナベの個人的な、罪の意識ゆえのものだ。
見捨てて逃げてしまった。
そこに加えて、まだ、こんな世界に呼ばれる前、普通の学生生活が続くと思い込んでいたころ。
ワタナベは、ネコイのことが好きだった。
夏までにはどうにか付き合おうと思っていたし、そういう気配を、ネコイの方からも感じることができた。
もう少しで両想い──それはワタナベの頭の中の妄想、というわけではなく、そういう空気が醸成されつつあった。
でも、逃げた。
淫魔が恐ろしくて、逃げてしまった。
あそこは、身を挺しても、ネコイを守るべきだった。だというのに……ヤナウエが簡単にあしらわれて、動けなくなるぐらいに痛めつけられたのを見ていたせいで、逃げてしまった。
その罪滅ぼしのためなら、なんでもする。
ワタナベは、そう思っていた。
「レイナさんはここだ」
アサギの家の中は思ったより狭くなかった。
というか──物がなさすぎて、がらんとして見える。
仕切りもない八畳ぐらいの空間だ。
壁にも床にも、そして天井にも隙間がある。……見るからに『廃材を家の形にくっつけました』というだけの粗末な家だから、それはまあ、そうだろうな、という出来栄えだ。
……その、家の中に。
『
隙間だらけの家の中に、隙間のない匣がある。
周囲と木材の質からして違っている。
そして……耳をすませれば、なんだか、奇妙な、うめき声……女性の、苦しむような声が、箱の中から、かすかに漏れている。
「……それは、なんだ」
ワタナベは、思わず、問いかけてしまった。
アサギは……どことなく少女っぽさのある顔で、綺麗に微笑んだ。
「養鶏場、かな」
「……」
「一匹、雌鶏を飼ってるんだ。ほら──」
アサギが、『養鶏場』の扉を開いた。
家の外壁よりなお分厚く丈夫な樹の匣が開かれ、その中には……
「んんんんんんん♡♡♡」
あられもない姿で、拘束された、ササイレイナ。
その彼女が──股間から汁と、何か、緑色の、球体を、出産している、ところで、
「ワナタベくん」
アサギが、肩に手を置いてきた。
あまりにもおぞましくて、反射的に振り払いそうになった。
ぎ、ぎ、ぎ、と。自分の首や、眼球が、錆び付いたように、鈍くしか動かない。
精一杯の速度で、視線を、『
アサギは、見惚れるほど美しく、微笑んでいた。
「『女子を差し出す代わりに、自分がなんでもする』」
「……っ……」
「……とか、ふざけたことを言わないで欲しいんだよね。もし、言われたら、
「…………………………」
「条件の確認を、最後にもう一度、しておこうか。僕は、ネコイの症状を見に行く。その対価に、ワタナベくんは、『女子一人』を、行使可能な──『精神的に』ではなく、『物理的に』行使可能なあらゆる手段を用いて、僕に差し出す。そういう契約だ。何か認識に齟齬はあるかな?」
「…………いや、その……な、ない……」
「良かった。話はきちんと、通っているようだ。約束を守るのは、大事だよな。約束をして、お互いにそれを守る。当たり前の話だ。そうやって互いを尊重する限り、僕らはお互いを人間扱いしていられる。そうだろう?」
「…………」
「ここが、最後の選択肢だ。今の話を理解した上で、僕に治療を頼むか、それとも、一人で帰って、二度とここには来ないか。選んでいい」
「……」
「どうする?」
ワタナベは一つだけ、理解することができた。
……自分の『なんでもする』という覚悟は、あまりにも、甘く、ふわふわしたものだ。
命懸けでアサギのために働けば、ネコイの代わりに女子を差し出さなくても許してもらえる──だなんてのは、漫画とか、ゲームとか、ドラマとか……そういうのの、『熱い場面』に毒され過ぎていた。
アサギとの約束は、すべて、『言葉の通り』に運ばれるべきだ。
代わりに、なんていう勝手な条件を後から付け加えることは許されない。
もし、そんなことをすれば、こいつは……何をするか、わからない。
その上で。
『誰かを差し出す』ほどの覚悟を決めなければならないこの状況で、それでも自分は、ネコイを助けたいか。
ネコイを助ける代わりに、女子を……誘拐、だまし討ち、そうやって……
助けたネコイどころか、他のクラスメイトたちに、忌み嫌われても、やる。
……引き換えになるのは、『クラスの女子一人』ではない。
『自分のその後』だと、ワタナベは、気付かされた。
気付かされた、けれど……
……いや。
気付かされたから、こそ。
「わ、わかった、差し出す。だから、ネコイを、助けてくれ」
「契約の内容はきちんと認識してるよな? 『助ける』かどうかは確約じゃない。『僕が、城に行く』。これへの対価が、『女子一人を差し出す』だ。……ああ、でも、きちんと診て、治せるなら、治すよ。もちろん追加の料金もとらない。そこは安心してくれていい。僕は──お前たちみたいな、詐欺師めいたレトリックなんか使わないからね」
それはきっと、ワタナベがしたことではなかった。
だが、アサギにとっては、『ワタナベも含むクラスメイトたち』にされたこととして、記憶されているのだろう。
「あともう一つ、安心していい情報をあげよう」
「……」
「僕は、取り立てには出向かない」
「………………」
「ワタナベくんの誠意を信じているんだよ」
にっこりと笑うその言葉の裏には、『誠意への信頼を裏切った場合、どうなるか』という重苦しいものがたっぷりと存在感を放っていた。
具体的に何をするのかは、わからない。
だが、きっと、アサギは、裏切りを決して許さないだろう。
「……差し出す。差し出す。来てもらった対価に、絶対に、差し出す」
「そうか」
アサギは、にこやかだった。
少女めいた線の細い男だ。いつもうつむいて、ヘラヘラ笑いを張り付けていた男は、自信を持って心から楽しそうに笑っているだけで、一気に、影のある、線の細い、美しい男に変貌していた。
雰囲気一つで、こうも見た目が変わる。
ワタナべは、目を閉じた。
(……レイナさん、あんたの言ったこと、今さら、すごく、わかるようになったよ)
あの日──
恐らく、『雌鶏』になるなんて思っていなかったであろうレイナは、あっという間にヤナウエを見限って、アサギにつくことにした。
……もしもここが、異世界でなければ。
ヤナウエには、もっともっと力があった。一瞬、治療で役立った。一瞬、力で上回った。それだけの男を、レイナは決して選ばなかっただろう。
だがこの世界において、ヤナウエは……アサギより、はるかに弱い存在になってしまっていた。
具体的にどこがどう、というのは言えない。言葉にするのは難しい。だが、人間そのものの強さがまるで違うのが、ひしひしと感じられる。
アサギは、何かを線を踏み越えた。
ヤナウエは、踏み越えていないし、きっと、踏み越えられない。
「……差し出すから、どうか、俺も、お前……アサギの、仲間に入れてくれ」
ネコイが『あんな状態』にされて、クラスの全員が、『攻略』の難易度と、『あれだけのことをしてくる存在がいる場所を攻略する以外に、自分たちには選択肢がない』という、閉塞した状況を思い知らされた。
ヤナウエは、その状況を変えられない。
だが、アサギなら、変えられる……気がする。
元の世界に戻ろうとするにせよ、こちらの世界で居場所を作るにせよ……
ヤナウエの下にいては、ぐずぐずと死ぬだけだ。
ワタナベは、アサギの表情をうかがった。
……今、会話をしただけでもうわかる。……アサギが浮かべている微笑は、こちらが何かヘマをしたという意味を含んでいる。
ほんの数分の会話でもう、ワタナベは、アサギを、『顔色を慎重に窺わなければならない相手』だと、魂の底に叩き込まれてしまっていた。
「ワタナベくん、僕は、仲間になりたいなら、別料金だと言ったはずだ」
「わ、悪い……だ、男子、だよな。俺が、仲間になりたいんだったら、男子を差し出す──だよな」
「ああ、そうだね。良かったよ、ワタナベが、多少は言葉が通じる相手みたいで。本当に通じてるかどうかは、行動で見るけれどね。……さ、行こうか」
『養鶏場』が閉ざされる。
『雌鶏』が卵を産む、水音と、くぐもった唸り声──嬌声が、遠ざかる。
……女の子は、娼婦需要がある、とか言っていた。
だが……
男は、何に使うのだろう?
ワタナベはそれを質問しかけたが、すんでのところで、思いとどまった。
……余計なことは話さない。
目立たない。
印象に残らない。
それが──処世術だ。
ワタナベは疑問と恐怖を呑み込んで、アサギを先導するように歩き始める。
ここに来るまでに思っていた、『アサギを連れて戻ることを、みんな、特にヤナウエのパーティにどう説明しよう』という心配はすでに吹き飛んでいた。
もう、顔色を窺うべき相手は、ヤナウエでは、ないのだから。