ササイナナミ視点
???内
「ナナミさん、無事か……?」
ずくん、ずくん、ずくん。
ササイナナミが意識を取り戻すと同時に、下腹部にすさまじいうずきがあった。
見下ろす──
体には男子のブレザーがかけられていた。
その下は──全裸のようだ。
ナナミは思い出す。
自分の身に起こったこと。
淫魔に捕まり、そして……
「……そっか、私……」
それはどうにも精神世界での出来事だったらしい。現実の肉体は、あの夢の間、ずっと、淫魔に犯されていたのだろう。
体を改めて見下ろせば……見てわかるような変化は、なかった。
ただ服はなく、その代わりに誰かがブレザーをかけてくれたらしいことが、わかる。
誰が……
ナナミは下腹部をほとんど無意識に押さえながら、視線を動かす。
そこにはしゃがみこんでこちらを見るヤナウエと、ヤナウエの背後で周囲を警戒している──ような様子で、こちらから目を逸らしている、ウエマツの姿があった。
かけられているのは、ウエマツのブレザーらしい。……体のサイズ的に、ヤナウエよりも、ウエマツのブレザーの方が適していたのだろう。
ナナミは、胸のあたりでブレザーを押さえながら、上体を起こす。
「……ヤナウエくん……あの、二人が、助けてくれた、の?」
自分の言葉が、普段のトーンより、二段階ぐらい甘い感じがした。
レイナの声みたいだ、と思う。
淫魔の言葉を、思い出した。
──はっきり会話できるあなたに、プレゼント、あげちゃった。
──『淫魔になるおまじない』
──これを刻まれるとね、じっくり、じっくり、心と体が、造り替えられていくんだよお♡ 気持ちいいことしか考えられなくなってえ……聖力を啜りたくて、たまらなくなるのお♡
──だってあなた、つまんないんだもん。
──だからあなたに、『衝動』をあげる。いい男を見ると襲いたくてたまらなくなったり、聖力を感じると体がうずいて止まらなくなったり、そういう衝動をあげる。
衝動。
男を欲する、淫魔の
ナナミはようやく理解したことがあった。
今まで自分は、同性はもちろん、異性も、恋愛対象として見ていなかった。
付き合いたいとか、セックスをしたいとか、そういうことを、まったく想像もせずに生きてきた。
……だから、自分が、男をセックスの対象だと認識すると……
こんなにも声が甘くなるのだと、ようやく、知った。
──ね、ね、この調子で、好きな男の子に、告白しちゃったり、してもいいよ。
淫魔の声を思い出しながら、ヤナウエの顔を見る。
顔はいい。背が高くてスタイルもいい。成績も優秀で、クラスでもみんなのリーダー。
淫魔の呪いをかけられた今なら、この男の性的魅力がよくわかる。
……でも、それが『好きな男の子』かと言われると……
(たぶん、違う気がする……)
まだ恋愛をよく知らないナナミは、ヤナウエから確かにセックスアピールを感じた。
でも、やっぱり、好きかどうかは、わからなかった。
「ナナミさんは、アサギのところに行ったと思ってたけど……アサギに、何かされたのか?」
ヤナウエの声は真剣だった。
真剣に、ナナミのことを心配していた。
……フラットな視点で見ていたから気付かなかったけれど、『クラスメイト』にとって、ヤナウエは確かに、優しくて頼りがいのある男なのだろう。
アサギへの行為を客観視してしまうと『でも』という部分が際立つけれど、まともに恋愛感情がある女子から見れば、ヤナウエは理想の王子様なのかもしれない、とナナミは思った。
淫魔の呪いは、ここで、アサギを悪者に仕立て上げて、ヤナウエに甘えろと言っている。
それが『OKサイン』としてヤナウエに認識される。この良い男の女になるにはそうすべきだと、淫魔の呪いは示していた。
けれど、
「ううん。……アサギくんは悪くない。私が……勝手に、出て行った」
「どうして」
それを語るには、アサギからレイナへの仕打ちを語る必要があった。
そして、ここで『どうして』と聞いてくるということは、ヤナウエはまだ、レイナの様子を知らない。
ナナミは、その話題を避けた。
「……ところで二人は、ダンジョンに潜ってるの? 他には、誰を連れて来てるの?」
その話題はどうにもヤナウエにとって致命的なものだったらしい。
彼は視線を逸らして言葉に詰まり、口ごもり……
「……いや、わからない。気付いたらここにいて……しばらく散策してたら、君が、倒れてた。その……裸で……」
「……心当たりはあるから、大丈夫」
ヤナウエは『自分たちが狼藉を働いた』という勘違いを避けたがっているようだった。
実際、何もされていないのだろう。……ヤナウエは、思い返せば思い返すほど、そういう外道ではない。むしろ、紳士的でさえある。ただし──彼は人によって激しく態度を変えるのだけれど。
「……ああ、そうだ!」ヤナウエが急に大きな声を挙げたのは、話題を無理に変えようとしてのことだと思われた。「実は俺たち、第一階層から出ようとしたんだけど、出られなかったんだよ」
「……そうなの?」
「ああ。ほら、ダンジョンと城って、扉を隔ててつながってるだろ。でも……扉があるべき場所に、扉を発見できなくって……壁を壊そうともしたけど、無理でさ。どうにも、閉じ込められてるらしい」
ナナミはなんとなく、それをしたのが誰かを想像できた。
たぶん、王族なのだろう。
いつか絶対、異世界から召喚された学生たちは、ダンジョンに入りたくなくなる時が来る。
そういう時に、ダンジョンから出られなくして、攻略を強制する方法があるはずだと、ナナミはわかった。
「……やっぱり、王族がやったのかな」
ヤナウエもやはりわかっているようだった。
でも、認めたくない、という感情が、声にも顔にも浮かんでいた。
「いつかは絶対、限界が来ることがわかってた。ましてや……『負けたらああなる』が示されてさ。特に女子は、入りたがらなくなる雰囲気が強かった。でも、王族は攻略してもらわないと困るだろ? だからなんらかの手段はあるんじゃないかって…………だから、こうやって閉じ込められないようにっていう意味でも、熱心に攻略してる必要があったんだ……内輪もめなんか、してる場合じゃ、なかった……」
「……何かあったの?」
「……話すと長い。いや、俺の口からは、冷静に話せそうにない」
「アサギのせいだ」
見かねたのか、ウエマツが、ナナミから視線を逸らしたまま、言葉を発する。
「……アサギのせいだ。あいつが、クラスをめちゃくちゃにした」
「おい、ウエマツ」
「ナナミさんが、アサギに優しくしてたのは知ってる。でも、事実だ。アサギがかき回さなければ、俺たちは、もうちょっとやれた。ヤナがきちんとまとめられるぐらいの状態だったら、俺たちは、こんなふうにはならなかった。それをアサギが……」
「ウエマツ」
「言わせてくれ、ヤナ。……アサギの追放は、必要なことだったと思ってる。そうしなければ、アサギは内側から、いずれ、こういう混乱を起こした。でも、もっと正しいやり方があったとすれば、追放じゃなくて、アサギを殺しておくべきだったと思っている」
「ウエマツ!」
「ヤナ、元の世界に帰りたくないのか?」
「…………それは」
「俺たちは、攻略から抜けて、この世界で生きていこうと思った。アサギに頼らずに、独立しようと思って、アンデルセン王子に相談した。そうしたら……意識を失って、気付けばこんな場所にいた」
「……」
「なぜ、アサギだけが許される? それは、あいつが『何か』を持ってるからだ。俺たちにはない、『何か』を……あいつは、持ち逃げしたんだ。自分一人が助かるために。そして、あわよくば、俺たちに報復するために! これを、許せるか!?」
『自分だけが持っている何か』を、他者に共有しなかった。それは、罪である。
傲慢な考え方だが、誰もそれが傲慢であることに気付かない。
たとえば災害時などにおいて、普段から備蓄をしていた家から、備蓄をしていなかった人たちが『みんなのために差し出せ』と迫ることがある。
緊急時・災害時の助け合いは確かにそうあるべきものであり、助け合うことは美徳で間違いがない。
ただし備えていたという地道な努力の成果を同調圧力で差し出させようとする恐喝はまったく美しい行いではない。
ただ、生きるのに必死な状況で、そういうことをしてしまう人間の心理は、一定の理解を得られるものではあろう。
理解を得られるとしても、自分たちの備蓄という努力の成果を剽窃される側からすれば、たまったものではない──というだけの話だ。
アサギがゲーム知識を明かさなかったのは、『こいつらには何を言っても無駄』『こいつらに差し出しただけ奪われるだけ』という学習が、長い学生生活で成っていたからだ。
つまり『備蓄』の結果である。
ウエマツの想いは、『差し出して当然』という傲慢に基づいたものだった。
だが、それを傲慢だとは気付かない。
被害者という立場に立った瞬間、人は、他者に何を要求しても許される、当然の行いだと誤認し、その誤認が解けることはないからだ。
「アサギのやったことは、確かによくないかもしれない。でも、俺たちにも、悪いところはあったはずだ」
悪いところがあったはずだ。
だから、アサギの『情報の独占』という悪い行為を許すべきだ──ヤナウエの発言はそういうものだった。
「だからあんまり、アサギを責めるようなことを言うな。少なくとも……今、この状況と、アサギとは、無関係だ」
「あいつがクラスをバラバラにしたから、俺たちがこんな目に遭ってるんだろうが!」
「ウエマツ、抑えてくれ」
「ヤナはなんで急に、あいつに対してそんなに弱くなった!? おかしいだろ! あいつはアサギだぞ! ヤナはもっと──」
「ウエマツ!!!」
「──…………悪い、興奮した」
「……いや、いい。確かに、俺も悪かった。でも……ナナミさんの前で言うことじゃない」
「……悪い」
その男たちのやりとりを見て、ナナミは、なんだか、先ほどまで感じていたヤナウエの魅力みたいなものが、目減りしていくような気がした。
レイナがヤナウエを切った理由もわかる。
『資産』だ。
それはお金という意味でもあるが、力という意味でもある。
男には資産が必要だ。たとえば元の世界なら、家がお金持ちとか、成績優秀──将来、良い職業につけそうだとか、顔がよくて隣にいると自分の評価も上がりそうだとか、そういう資産が、いる。
ヤナウエは成績も優秀、スポーツも万能。顔もいい。スタイルもいい。家はお金持ちで、コネでも成績でも品行でも、これから先、価値が上がることはあっても、下がることはない。そういう男に見えた。
けれど、この世界に来てからのヤナウエは、ずっと、こうだ。
前の世界の基準にどっぷり浸かって抜け出せないまま、延々と、前の世界基準で『悪い』とか『悪くない』とか『許す』とか『許さない』とか、くだらないことを言い続ける……
ダンジョン攻略がうまく進んでいたころはそれでも『頼れる』男だった。
しかし、攻略が停滞してからだんだん評価が落ちていき、アサギとのやりとりで、完全に格が落ちた。
レイナがヤナウエを切るまでに至った流れが、今のナナミにはわかる。
それは、レイナの記憶を追体験させられたことが理由か。それとも……恋愛感情。男が欲しいという気持ちを、淫魔の呪いによって刻み付けられたから、なのか。
……淫魔の呪い。
「……悪い、ナナミさん。それと……ナナミさんも、試してみてくれないか? このダンジョンから出られるか……」
ナナミは直感的に、自分も出られないと思った。
このダンジョンに閉じ込める仕掛けをしたのが王族にせよ、その予想が間違っているにせよ、きっと、攻略を終えるまで戻ることはできないだろうと、そう思う。
……そのような『力』が働いていることが、なんとなく、わかる。
これも、淫魔の呪いをかけられたせい、だろうか。
「……たぶん、無駄だと思う」
「…………そう、か」
「ねえ、ヤナウエくん、ウエマツくんも……この状況をどうにかするには、一つしか方法がないと思う」
「……それは?」
「『ダンジョンを攻略すること』」
「……」
「もう、後がなくなったなら……やるしかないよ」
この状況。
ヤナウエにとっては、クラスから逆に排除されそうになり逃げてきた、この状況。
ここから返り咲くには、確かに、『ダンジョン攻略』という実績を持ち帰るしかない。
ウエマツにとっても、ヤナウエと同じ。
ただし、なんだかんだと『元の世界の価値観』から抜け出せないでいるウエマツにとっては、やはり、『この世界にいること』そのものが、どうにかしたい状況だ。
それを達成するには……少なくとも、ダンジョン攻略は必須だろう。
そして、ナナミにとっては……
(もしも、私が全部解決したら……その時は、アサギくんを、
ヤナウエは素敵な男性だったと思えた。
でも、恋愛対象ではなかった。
好きになりたいという気持ちはある。
でも、好きになるということが、やっぱりよくわからない。
……『小さな人』と約束をした。
アサギを好きになって欲しいと言われた。
だから、誰かを好きになることがわからないのに、今、淫魔の呪いによって『好きな人と結ばれたい』という衝動だけがあるナナミは、とりあえず──アサギを好きになることに決めた。
そのために、アサギを嫌わなければならない要素は、すべて取り除こうと思った。
レイナをあんな目に遭わせるのは、辞めさせよう。
クラスのみんなとも、仲良くしてもらおう。
そのためには、力がいる。
『良い人』から『善い人』になるためには、力がいる。レイナをあんなふうにするのを、強引にでも止められるような力が。そもそも、アサギが追放されそうになった時に止められる力が。さらに根本から──アサギがいじめられている時、クラスのみんなを敵に回してもアサギを守り切れるぐらいの力が。
ナナミはようやくわかった。
自分が中途半端な立ち位置で、なんの情熱もなくただそこにいるしかなかったのは……
間違っていることを、『間違ってる』と思いながら、どうにもできないまま微笑んでいるしかできなかったのは……
力が、ないからだ。
(ああ、力、力……なんで、こんな簡単なことに気付かなかったんだろう……たくさん、力をつけるからね。そして、レイナも、アサギくんも、私が守ってあげる。そのために……たくさん、たくさん……)
ナナミは、ヤナウエとウエマツを見た。
……その視線があまりにも淫靡なのに、本人は気付いていない。
ナナミは、こっそりと舌なめずりをする。
……この世界に来てから、初めて──
──お腹が、吸いている。
(……
彼女の思想と淫魔の本能は、こうして噛み合った。