ワタナベ寄り
「まあまあ、そんなこと言わずに、お話ししませんこと?」
ワタナベは背後からかけられた声に振り返る。
槍を突き出しながら、だ。だが……
ネコイの体に阻まれて、槍を止めるしかなかった。
肉のダンジョンと化した王宮。
そこでアンデルセンの先導に従ってたどり着いた『玉座の間』?
玉座に座る知らない女の子と、その横に立つレイナ。
扉を開いたアンデルセンに唐突に『逃げろ』と言われた──その直後、背後から声をかけてきたのは。
「……十五階層の淫魔」
ネコイの腰に抱き着くようにしながら、ひょこっと顔を出す。
その姿は確かに幼く、小さくなっているけれど、十五階層の淫魔だった。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、や、やだ……」
ネコイも一瞬遅れて、そいつが自分の腰に抱き着いていると気付いたようだった。
瞬間、彼女の全身は震えて……
失禁していた。
ワタナべには想像しがたいが、ネコイがされたのは、外から観測できた以上のことなのだろう。
震え、すくみ、失禁するネコイ。
そのネコイの腰に抱き着いたまま、スカートの下に手を入れる淫魔。
淫魔の細い腕がうねり、うごめき、ネコイのスカートの下で、指が躍る。
するとネコイの震え声は一瞬で嬌声に変わり、腰が跳ね、小水ではない液体が飛沫のようにスカートの下から飛び散る。
「やめろ!」
ワタナベは槍の穂先を淫魔の顔へ向けるものの、淫魔はにっこり笑うだけだった。
「お話し、しません?」
淫魔がさらに、ネコイのスカートの中で『何か』をした。
ネコイの腰が跳ねて、まともに立っていられず、杖で地面をついてそれにすがりつくようにしながら、腰を跳ねさせる。
ブレザーの下で、ネコイの腹部がうごめいているようにも、見えた。
ワタナべは……
「………………わかった」
選択肢が、いつの間にか、なくなっていることに、気付いた。
決められなかった。情報がなかったから。少しでも良い選択肢を選ぼうとした。だから、情報のために、アンデルセンについていった。
もしも、破れかぶれで行動して、アンデルセンを背後から突き殺し、全力でこのダンジョンからの脱出を目指していれば、違った展開になっただろうか?
……わからない。なった気も、する。でも、それは希望的観測としか呼べない、そういうものであるような気も、同じぐらい、する。
とにかく、この状況でできる、精一杯──
「……代わりに、ネコイに触るな」
淫魔はくすりと笑った。
こうしてしっかりと向かい合ってみると、育ちのいい、上品そうな顔をしているようにも見える。
「うん、約束してあげる。でも、無駄なことは考えない方がいいって、忠告はしてさしあげますね」
幼くなったことで際立つ──まるで、日本人の子供のような、印象。
(錯覚するな。『話が通じる』なんて錯覚するな。これは、こいつは……人間じゃない)
ワタナベは自分にそう言い聞かせ、ネコイを引き取る。
全身が熱くて、どこにも力が入っていなくて、柔らかくて……
女のニオイと、性的な息遣いが、腕の中にすっぽりと収まった。
淫魔はワタナべを、というよりその下半身を一瞥して、くすりと笑う。
ワタナべはにらみつけて、声を発した。
「何を考えるにせよ、無駄かどうかは、こちらで決める」
それは淫魔の『わかっている』視線から発した恥ずかしさを誤魔化すための反発でもあった。
だが、淫魔はワタナべを包み込むように、優しい笑みに切り替えた。
「何を考えても無駄だよ。私も異世界転移者だから、考えそうなことはよくわかるから。……わかりやすく、こう言いましょうか?」
「…………なんだ」
「
「……」
「これからするのはその解説。だからもう、あがくとか、あがかないとか、そういう話じゃ、ないんだよ」
◆
「そもそも、『女神が淫魔を地上に逃がした』っていう大失敗から始まってるのが、この世界なの」
この世界はそもそも、女神がおり、その女神に加護を与えられた人々が暮らしていた。
モンスターのようなものは、出なかった。強い野生動物ぐらいはいたが、それでも、人々は、人力でそれらに対処できた。
そうして発展していた、が……
「女神はね、人々に争ってほしかったんだよね」
「……なぜ」
ワタナべは、聞き役に徹している。
相槌を打つだけの地蔵、というのは、いつでもクラスの中でワタナベが負ってきた役割だった。
縄を打たれるなどの、いわゆる『捕虜としてのこと』は何もされていない。
ただ、用意された──そのへんの地面を隆起させて作った椅子に座り、隣にネコイを座らせ、話を聞いているだけだ。
目隠しをした知らない子が、抜け殻のようになってしまったアンデルセンの頭を膝に乗せて、撫でている。
その横でレイナは、淫魔そのものという格好をして……
……うつろな目で、どこかを見たまま、何も言わない。
意識がない、というよりも、自我やあるいは脳そのものが抜き取られているんじゃないか、という様子だった。
「女神は人のマイナスエネルギーが大好物なの」
「……」
「でも、人っていうのは、存在がそもそもプラスだから、戦争でもしないと強いマイナスエネルギーは出てこない。だから女神は争ってほしかったんだけど……争うと、数が減るでしょ。数が減るのは早いうえに、増えるのは遅いのが、人間じゃない?」
「……そうだな」
「だから、女神は考えたの。『マイナスそのものの生き物を作って、繁殖させれば、面倒な手順を踏まなくても、無限にご飯が食べられるんじゃないか』って。そうやって生まれたのが、淫魔」
「……」
「あ、淫魔の原料は人間ね。生まれた時から人の悪意に漬け込んで……っていう話も、淫魔になった時に流れてきたけど、そのへんも話す?」
「主導権はそちらにあるんだろう」
「そうだね。よくわかってて偉いぞ」
生まれた時から、人の悪意に漬けこむ。
……悪意は別に液体の形で存在するわけではない。だからきっとその話は、聞くに堪えないものになるのだろうなとワタナベは思った。
けれど、表情に、『聞きたくない』という感情を出すのは、堪えた。
弱者は感情を表に出してはいけない。
それは強者に『次のいじめのネタ』を与える結果にしかならないからだ。
淫魔は、
「じゃ、話を進めるね」
にこにこと笑ったまま、幼い、小さな足を、造り出した椅子の上でばたばたさせた。
「で、最初の淫魔が産まれて──ああ、淫魔なのは『繁殖のために適切だから』だよ。繁殖に便利な能力を盛り込んだマイナスエネルギー生物という条件で創造したら、結果として淫魔になった、みたい」
「そうか」
「んでね、淫魔は女神の牧場で見事に繁殖して、女神は人間を戦争させる必要がなくなって、人間にとっては『良い女神』になった。『良い女神』ってどういうのかわかる?」
「…………『人間に関わって来ない女神』?」
「やっぱり私たちだとそういう感覚だよね。正解。ただ祈り、『ついで』で恩寵をくれるだけの女神になったんだけど……ある日、女神が失敗をした。淫魔を地上に逃がしちゃったんだよね」
「女神もミスをするんだな」
「創造主がミスをしないなら、人間なんか生まれてるわけないでしょう」
「……」
「あいつらにできるのはね、『ミス』を『実はミスじゃありませんでした』っていう顔で取り繕って、自分じゃない誰かにしわ寄せをすることだけだよ」
「……『神』に何か、思い入れが?」
「…………淫魔になった影響かもね。それで、逃げた淫魔が地下に潜ってダンジョンを発生させた──というか、自分の体をダンジョンにした。家畜の大型化、繁殖能力の増加、なおかつエサの最小化を目指すのは、どこの世界も一緒なんだね。神の力で淫魔はそれをされた結果、女神に手出しできない存在になったってわけ」
「……」
「私の話、興味ない?」
「……俺たちは、何を待たされている?」
「え? 『全員がゴール地点に集まること』だよ」
唐突に話し始めるのは、別に、この淫魔が話したかったから、というわけでもないだろうとは思っていた。
何かの時間つぶしだ。だが、それがなんなのか、わからない。
だから問うしかなかったが……
出てきた答えも、よくわからないものだった。
「……全員が、ゴール地点──『全員』とは」
「ニナカワ」
「……」
「ハラグチ、ハナイ──ああもう一人の娼婦は死んじゃったけどさ」
「…………」
「あと君たちと出会わなかっただけで、パーツにされた男の子ももういないね。で、ここには、ワタナべ、君と、それから、ネコイちゃんがいる」
「…………」
「名前を知ってるのは、レイナママの
「……ない」
「ええ? 『ママ』呼びについてとか、ないの?」
「……それで?」
「テイラー、ヨドガワ」
「……」
「ササイナナミ」
その名前が告げられた瞬間、ぼやけていたレイナの目が、一瞬だけ、光を取り戻したように思われた。
だが、勘違いだったのかもしれない。ワタナべが焦点をそちらにあてた時、レイナは何も思考できないような顔で、ぼやっと玉座の横に立っている、先ほどまでの状態に戻っていた。
「それから、アサギくん。生き残りのみんなが、ここに集まるのを待ってるの」
「………………キサキは、いないのか」
「いないよ」
「ヤナウエも、ウエマツも……」
「いない」
「……そうか」
インドウの名前がないことは、もはやただの確認だった。
だが、キサキの名前がないことはショックだったし……
ヤナウエとウエマツの名前がないことには、『嘘だろう』という気持ちさえ、わいてしまった。
ワタナべはようやく、自分が、感情の整理のつかない状態にあることを自覚できた。
頭がしびれる。全身が重い。座っているのがやっとだ。
呼吸がうまくできない。二回に一回、息の吐き方がわからなくなる。
指先どころか、腕全体がカタカタと震えていた。たぶん、全身が、その状態なのだろう。
……ワタナべは、目を閉じてしまった。
それは呼吸を整えるための無意識の動作だったが……
目を閉じたら、浮かんできてしまう光景があった。
……平和だったころの、クラス。
こんな世界に来なかったころの、幸せだった、クラス。
アサギだけがいない、クラスの、幸せな、姿。
誰かの嫌な部分なんか見なくてもよかった。みんなで笑って、ため息をつかれるような冗談を言って、厳しめのツッコミが入ったり、遊びの約束と授業内容の復習がだいたい7:3ぐらいの重要度で行き交う。
三十二個の席がある。窓際の先頭ではササイナナミが本を読んでいた。そこだけ、シャボン玉で包まれているかのように、独立した世界だった。
窓際の一番後ろの席は、うららかな春の日差しに照らされているはずなのに、真っ暗でよく見えない。アサギの席だ。ワタナベは、『幸せだったころのクラス』という想像図に、アサギを思い描くことができなかった。
インドウがプリントの端をそろえながら苦言を呈するようなことを言い、カリヤが『わかってるって』と全然わかってなさそうな顔で言う。キサキが眉間を押さえながらため息をつき、ネコイが全部どうでもよさそうに爪を磨いている。ナカムラがカリヤの肩に肘を乗せて何かを言っている。
誰もかれも、たのしそうだった。
それはどうやら、二度と来ない、過去の光景になってしまったらしい。
アサギ。
ササイナナミ。
ササイレイナ。
テイラー。
ニナカワ。
ネコイ。
ハシグチ。
ハナイ。
ヨドガワ。
ワタナべ。
「………………十人? …………………………十人?」
数字として出してみると、なんのことかわからなくなってしまった。
紛れもなく、クラスメイトの中で生き残っている数のことだ。
でも、ワタナべは、それを生き残りの数だとうまく認識できない。自分で出した数なのに、自分で、なんの数なのかわからない。
「つらいよね、クラスメイトがいなくなるの」
いつの間にか淫魔が目の前にいて、ワタナべの膝の間にしゃがみ込んでいた。
こちらを見上げる視線はあまりにも無垢な幼い少女のものでしかない。
だというのに、体を隠す衣装──あるいは毛皮の面積の狭さ、それに、これだけ小さなサイズだというのに、どうしようもなく薫る『女』のニオイ。すべてが、ワタナべの脳味噌を揺さぶった。
今すぐに抱きしめてめちゃくちゃに犯したい衝動をワタナベは覚える。
……だが。
地蔵のような男は、地蔵のように、固まったまま、耐えた。
振り払うことはできなかった。でも、抱きしめることもしなかった。
ただ、乾いた目で見降ろし続けるだけだった。
淫魔はにっこりと笑う。
「全員がここにたどり着いたら、あとは、全員で楽しく生きようよ」
「……………………は?」
「私も元の世界に未練がないわけじゃないけど、こんな体で帰れないし、それに、ご主人様を見捨てられないから。彼女は、この世界で生きていくしかない淫魔なんだよ」
ご主人様。
あの、アンデルセンの頭を膝の上に乗せて、撫で続けている、目隠しをした少女だろうか。
「だから、ずっとみんなでこの世界にいよう。異世界から私たちみたいな子を呼んで、友達にして、友達になれない子には、糧になってもらって」
ワタナべは、その言葉を拒絶したかった。
自分たちが被害者であり、もう戻れない──それだけなら、絶望の中で沈んで、あるべき結果だと受け止めることも、まだできたかもしれない。
だが、新たな被害者を増やす?
加害者に、回る?
それは、できない。
できない、が……
弱者に決定権など、ない。
だからワタナべは、拒絶の言葉を発せない。
……だから。
「いや、僕たちは帰るよ」
……肉の床が『ぐにぃ』と開いて、そこから、出てきた人物が、否定した。
「出たばかりのところで申し訳ないけれど、話が聞こえてしまったので。……僕は元の世界に帰る目的で最奥まで行って帰ってきたわけだし、それを邪魔されるのは、あまり好ましく思えないな」
その人物は、横に、侍らせるように、女を連れている。
淫魔としか思えない格好の女。だが、ワタナべは、その顔立ちに、とてもよく見覚えがあった。
「こっちの世界、不便だからね。アサギくんと話し合って、帰ることにしたの。そうだよね」
「まあそうなんだけど、ナナミさん、あんまりべたべたしないでくれるとありがたいかな……僕はどうにも、パーソナルスペースが広くて、身体的接触を不愉快に感じるタイプらしいんだ」
「ええ!? そうなの!? 恋人なのに!?」
「ごめん、努力はする」
……誰もが、その二人に注目していた。
目隠しをした少女さえも、そちらに顔を向けていた。
今までワタナべに話をしていた淫魔も、そちらを見て、目をしばたたかせていた。
……何より。
「………………み」
考える力も、悩む気力も、思考する体力も奪われたように立ち尽くしていたレイナさえも、
「……み、な、な、み…………ナナミぃ!」
そちらを、にらみつけた。
……ワタナべにはまだ、詳しいことはわかっていない。
淫魔の勝利と言われて、たぶんそうなんだろうと思った。
でも。
今、空気が変わったのは、わかる。
アサギとナナミ、それから、テイラーとヨドガワが、出てきた。
まだ、何も終わっていないような、気がした。