僕の親は普通の人だった。
だから、子供がいじめられていた時の対処法がわからなかった。
そして、わからないことを認められなかった。『子供が実際に直面している危機があり、その危機への対処法を聞かれているのに、何も答えられない』というのを認められない、普通の、『大人から子供へ対するプライド』がある人たちだった。
うちの両親が好きな言葉がある。
『誠実』と『正直』だ。
特に宗教はやっていなかったと思うのだけれど、僕はよく、両親の言葉から宗教的な響きを感じさせられた。
『誠実に生きていれば、いつか良いことがある』。
『正直者でいれば、見てくれる人は、見てくれている』。
それは両親にそういった体験があるというわけではなさそうだった。誰かにそう刷り込まれたのを、大人になっても心の中に残していた。何かで突き刺さった棘を医者に見せずにそのままにしていたら、肉に食い込んで癒着して抜けなくなってしまったかのように、『誠実』と『正直』が、両親の心に突き刺さっている。そういう響きの、言葉だった。
もちろん、『誠実』と『正直』は、僕を救うことはなかった。
それが評価されるのは強者だ。どれほど誠実でなくとも、どれほど正直でなくとも、強者なら、それを評価される。『あらゆる能力評価、実績評価をされたあとで、最後の一押しとして役立つ概念』。それが、僕の思う『誠実』と『正直』だった。
彼女は恩人だ。彼女がいなければ、僕はクラスから追放されたあと、王宮から出ることはできなかった。王家の秘密を知っている僕は、アンデルセン王子によって消されていただろう。
僕は王家の秘密を手に、アンデルセン王子に取引を持ち掛けたのだ。『これをバラされたくなければ、僕の要求を呑め』と。そういう、取引を、持ちかけた。
ところが今思い返せば笑ってしまうほど迂闊で、滑稽だったな、と思う。
取引には、力が必要だ。
『これをバラされたくなければ』。笑ってしまうほど間抜けな持ち掛け方だった。
誰にバラすというのか? こんな、縁のある者が誰もいない異世界で。
誰にバラして、誰に信じさせるのか。信じさせられる相手がいたとして、その相手が王家の秘密によって、王家にどんな被害を与え、僕の立場を確保してくれるというのか。何も、知らなかった。
そもそも僕は、『誰かにバラす』場所にまで、たどり着けなかった。
アンデルセン王子が『殺す』ことを即断した時、僕が彼の攻撃をかわすことが出来たのは、本当に偶然でしかなかった。
恐らく、アンデルセン王子側も、いきなり『殺す』ことが可能だと判断して僕に殺意を向けたのだろう。だから、殺しに慣れている彼の計算の外にある本当に奇跡みたいな偶然で、その後のことも、僕ではない誰かの意思に導かれるようなものだった。
僕は、『小さな人』の存在をゲームで知っていた。
アンデルセン王子に殺されかけ、逃げ出す中で、その場所のことを閃いたのも奇跡だった。そして、そこまでたどり着けたのも、奇跡だった。
そこからの展開も奇跡的で、今にして思えば、本当に、導かれているとしか思えなかった。たとえば、『小さな人』に。
そうして『小さな人』に出会った僕は、必死に、アンデルセン王子に狙われていること、王家の秘密を知っていること、保護を求めていることをまくしたてた。
格好悪かった。僕が『小さな人』との距離を置き、王宮から出てから自分から接触を求めなかったのは、その格好悪い姿から目を背けたいという気持ちも、少なくはなかった。
そうして僕は、助けられた。
王家のことをバラせば、その責任を『小さな人』がとる、という条件で。
アンデルセン王子をして、『小さな人』は、僕の弱みになるという算段だったらしい。
が、僕は、ここにある不自然をすっかり見落としていた。
アンデルセン王子の目的は、明らかに『小さな人』の救済にある。
その対象の命を懸けた契約を、本当にあの王子が結ぶだろうか?
あるいは、アンデルセン王子が『殺す』と決めて抜き放った殺意を、本当に、偶然だの奇跡だので、当時の僕ごときが避けて、生き延びられるだろうか?
生き延びた上で、『小さな人』のいる部屋まで、鍛え上げた彼の足から逃げ、彼が使うだろう暗部の人材から逃げ、たどり着けるだろうか。
都合のいい不自然は、案外、無視されるものだ。
僕はそれを学んでいたはずだった。けれど、少し冷静になって思い返すまで、僕はそのことを忘れていた。
「この王家は昔、女神に選定された『勇者』を裏切って、淫魔に差し出した。そのせいで女神の加護を失い、世界は日の光さえも失った。だから王家は、淫魔女王と約定を交わし、『異世界人を召喚して、生贄として差し出す』ということを続けた。『勇者』を裏切ってから数百年間、ずっとずっと、続けた。彼らにとって異世界人は英雄ではなくて、ただの便利な鉱山労働者で、用事が終われば、淫魔女王に捧げる便利なエサだった」
ナナミさんと、レイナが、ケンカをしていた。
たぶんここは謁見の間なのだろう。ダンジョンから出ていきなりここだったし、見た目がずいぶん、内装につやつやしたピンク色の肉を貼り付けたみたいな、意味のわからないリフォームを経ていたから、ちょっと自信はないけれど。
そこに『小さな人』と、明らかに淫魔になったレイナと、それから、もう一人、幼い少女の姿の淫魔と、ワタナべと、ネコイがいた。
ワタナベがまたパーティに入りたいと言ってきた。だからきっと、彼は何かに敵対していて、敵対の相手は、ワタナべのそばにいる幼い少女の淫魔とか、あるいは『小さな人』なんだろうな、というところまでは考え付いた。
考え付いた上で、『小さな人』になんだかヤンデレみたいなことを言われたので──
──まあいいか、と思い、彼女を殺してみることにした。
王家の秘密をバラしたならば、契約によって、彼女は死ぬはずだった。
けれど、黒い目隠しをした彼女はそこにいて、微笑んでいる。死んでは、いない。
どうにもそれが答えだった。……『小さな人』にもたれかかるようにしているアンデルセンの姿も含めて。
「やっぱり死なないんですね、『小さな人』。契約に違反して、こんなにギャラリーがいる場所で、『王家の秘密』をバラしたのに」
「……」
「魔法的契約と言われて、当時の僕は騙されてしまったけれど、そこに至る流れまで含めて、今、思い返せば不自然だった。……正直に答えてもらっていいかな? これは、ただの確認なんだけれど──もしかして最初から、僕に恩を着せて、僕を味方側に引き込むつもりではいたのかな?」
「どうして、そう思うのです?」
「当時の僕は自分の価値をずいぶん低く見積もっていたし、僕の属する『クラス』という社会においても低く扱われていた。だから気付かなかったんだけど──『クラスで唯一、呪力に適性がある』って、ずいぶん物凄いレアリティだよね」
「……」
「『奇貨置くべし』っていう言葉だけでも説明がつくよ。珍しいものを、とりあえず手元に置いておく。それだけでも、僕を味方側に引き入れる理由になる。アンデルセン王子があなたの命が失われるかもしれない契約を結んでまで僕を逃がすよりは、よほど、『僕に恩を着せるために、二人で一芝居打った』という方が、納得できるんだ」
「……ふふふ」
「まして君は、
「──わたくしに敵対することをためらう理由がない、ということ、なのですね」
「そうだね。まあ、半ば以上確信してるけど、あなたの口から答えを聞けた方が、こちらもスッキリするから、聞きたいな」
ゴネるならそれを『答え』とみなす。
黙るなら、それも『答え』とみなす。
本当にただの確認作業だ。何か意外な答えでももらえれば、楽しいなと思うかもしれない。
そもそも、異世界に帰ろうとしている僕と、この世界から逃がしたくないらしい『小さな人』との利害はぶつかっている。僕は僕の意思のために動く。その中で発揮できる限りであれば、好意を持っている相手には誠実でいたいとは思う。その程度だ。
『小さな人』は笑っていた。
ただし、遠慮がちで、幼くて、無垢な、いつも僕に向けていた微笑ではなかった。
心の底から楽しそうに、唇を吊り上げて、笑っていた。
無垢な幼い、完成した少女はどこにもいなかった。
淫魔、あるいは魔女という言葉で形容したくなるぐらい、艶っぽくて、毒々しい笑みだった。
「ばぁか」
声に籠もる色香が尋常ではなかった。
恐らく、馬鹿と言われたのだろう。でも、これだけの距離があるのに、耳でも舐められているかのように響きその声に、僕は愛の告白でもされているかのような、不可思議な気分にさせられた。
「わたくし、本当に、あなたのこと、好きですのよ。愛しています。あなたの体が、欲しいのです」
「だから『騙されてた方が幸せだったのに』っていう話かな?」
「ええ。そこの彼女のように──」『小さな人』の何もないはずの目元は、幼い少女型の淫魔を向いた。「──わたくしとともに、生きてくれればよかったのに。そうしたら、現実のあらゆる辛さを忘れられたのに」
「……」
「ひたすら、気持ちが良いことをしましょうよ。今からでも、遅くはありません。この世界が終わるまで、この世界をしゃぶりつくしましょう」
「なんで?」
「楽しいからです」
「残念だけど、それで説得できる現代人はいないと思うんだけどな」
「……」
「この滅びゆくだけの世界で、終わるまで楽しいことをしようって、そんなことをしなきゃならないほど、現実っていうのは、つまらなくはないんだよ」
文明のレベルが違うというのは、そういうことだ。
娯楽というのは食糧事情、住居事情、何より『いきなり獣に襲われることがない』という安全が確保されて、初めて発展していくものだ。
つまりこの世界の娯楽文明はレベルが低い。せいぜいセックスぐらいしか、楽しいことはないだろう。
ところが僕は、その交わりを楽しいと思えなかった。
この能力を悪用すれば、スラムの女の子たちを好き放題にできただろう。スラムの外の女性だってそうだし、クラスに潜入して、クラスメイトの女子たちを順々に調教したりということも、可能だった。
でも興味がわかなかった。僕にとってセックスは作業でしかない。強くなれるからする。必要だからする。そういうものでしかない。
「もしかしたら、淫魔になると、セックス以上に楽しいことなんかないと思うのかもしれないけれど……いくら君が美しくて、君を襲いたくなる衝動にかられても、僕は我慢ができたんだよ。これは、僕が呪力に適性があるからかなと思っていたんだけれど、どうにも、違うみたいだ」
「……」
「君を犯すより、ゲームの方が楽しい」
「………………」
「だから、君への恩義に『誠実』になるよりも、君を倒して元の世界に帰る方が、僕には魅力的なんだ。改めて、お断りする。僕には、ナナミさんを裏切って、君に浮気するメリットがまるでないし──どうやら、恩義も、君に造られた偽物だったみたいだ。君と敵対しない事情が、僕には思いつけない」
今改めて思う。
元の世界の方が楽しかった。
いじめられていた。死んでしまった方が楽かとも思っていた。
この世界をモデルにした、あるいは、この世界そのものなのかもしれないゲームをやり込んだのも、現実逃避の一環だった。
逃れられない現実。何もされていない時も頭に無数に浮かぶ、受けた仕打ちと、これから受けるであろう仕打ちのこと。そういうものから逃避して、眠たいのに頭が痛くて眠れない時間、頭を空っぽにするために、ゲームにのめりこんだ。
それはどうにも、この世界での暮らしより、よっぽど楽しかったらしい。
今さら、思い知った。やっぱり文明の遅れた異世界なんかより、現実の方がいい。おまけにもう僕をいじめるやつがいないなら、それこそ、元の世界は最高だ。
「ごめんなさい。君とは生きていけません。僕には帰りたい場所があるから」
告白をされた。
フッた。
だからこの話は、これで終わりだ。
でも、
「…………認めません」
フられた相手が刃物──触手を持ち出してこちらに殺意を向けたなら、それはもう……
正当防衛が成立する。
「君が認めるかは、あまり気にならないな」
『やり返し』の要件は揃った。
改めて、僕の中に、『小さな人』と敵対する動機が生まれる。
……うん、やっぱりだ。
なんとなく、過去の恨みつらみを理由に攻撃をするよりも……
すぐそこにある理由に基づいた感情で反撃をする方が、スッキリする。
どうか、ヤナウエみたいに途中で日和らないで欲しい。
僕が殺すまで、僕に殺意を向けてくれよ。お願いだから、さ。