ダンジョンが崩れそうだった。
だから夢中で抜け出した。
直前まで、ワタナべは淫魔と向き合っていた。
元の世界に帰ろうとするアサギと、帰すまいとする、目隠しをした女の子。その戦いが、始まっていた。
アサギが目隠しをした女の子とにらみあい、レイナがナナミに襲い掛かった。
テイラーとヨドガワは動けていなかった。もし、アサギと目隠しをした女の子が殴り合いでも始めたならアサギに味方しただろうが、ナナミとレイナの戦いに割って入ることは、なかったように思う。
そして、ワタナべは、淫魔と戦うつもりで、槍を握っていた。
戦いには、ならなかった。
相手が、何もしなかったから。
直前にネコイに狼藉を働いたきり、淫魔は何もしてこなかった。
だからワタナべも、仕掛けなかった。
……それは、クラスメイトたちを酷い目に遭わせた淫魔に相対する者として、どうかと思われることのようにも感じる。あそこで何がなんでも、槍を突き出して、倒そうとするべきだった。
でも、できなかった。
まず、実力差。戦っても勝てないのは、わかっていた。ワタナべと、ネコイも戦えたとして、ヤナウエたちが手も足も出ずに逃げたような相手を、たった二人でどうにかできるなどとは、到底、思えない。そういう冷静な戦力分析を、ワタナべはできた。
それに、見た目。
あの淫魔は、十五階層のボスだ。ネコイとのやりとりで、それは確信できた。
でも、子供になっていた。アサギとにらみ合っていたあの目隠しをした女の子よりも、子供だ。
そのぐらいの小さな、人型の生き物に、槍という武器を突き出す。……それが、ワタナべには、どうしてもできなかった。敵だと頭で理解してなお、できなかった。
そして、すべてがうやむやになった。
ナナミがレイナをカラカラのミイラみたいにしたことまでは、ワタナベも把握している。
そして直後、アサギが急に、魂を抜かれたようになったのも、横目で見えた。
目隠しをした女の子が何かしたのだろうか?
わからない。でも、その後、ダンジョンが揺れた。嫌な揺れだと本能に訴えかけるような、揺れだ。慌てて、逃げ出した。逃げ道もわからないのに、とにかく本能が、『外』を求めた。
ネコイを小脇に抱えて無我夢中で駆けた。
どこをどう通ったか覚えていない。でも、敵に遭遇することも、なかったように思う。……王宮の兵士とか。あるいは、モンスターとか、そういうのに。
そして、抜け出すことに成功した。
振り返ったら、王宮だったはずの場所は、ぺちゃんこに潰れて、溶けていた。
肉の迷宮と呼ぶしかなくなっていたのは、内側だけではなかったらしい。あの、薄いピンク色の肉は、宮殿と、その周辺一帯まで、皮膜のように包み込んでいたようだ。
あたり一面がどろりとしたぬかるみになってる。
アサギを呼びに行った際に通り抜けた街が、なくなっていた。
王都全体があのピンク色の肉の塊になっていた。
……そこに住まう人たちは、どうなったのだろう。街を通行していた人たちは。あの、アサギに『ネコイを助けてくれ』と頼みに行った時に見た、くすんだ銀色の髪の子供は。
……娼婦にされたニナカワたちは、どうなったのだろう。
そして──
「……これから、俺たちは、どうなるんだろう」
異世界に転移させられた。
そして、自分たちを転移させた異世界の王族は、いなくなった。
それどころか宮殿さえもどろどろにとろけた肉の泥になって、その宮殿があった街も、同じありさま。
生存者がいるかどうかも、わからない。それどころか、この世界に、この王都以外の場所があるかどうかさえ、知らない。
「おろして」
小脇に抱えたネコイから声が掛かって、ワタナべは、その存在を思い出した。
思い出した途端、どっと力が抜けて、力を振り絞ってネコイを地面に立たせると、その場に両手をついてへたりこんだ。
肉の泥が、手を、膝を濡らす。
気持ちが悪い生温かさだった。
「ちょ、ワタナべ、どうしたの? ケガ!?」
ワタナべは、首を回してネコイを見た。
ネコイの顔は心配そうで、それから、いつも通りだった。
淫魔との再会がもたらした恐怖は、その顔からは窺えない。
ワタナべは、深く深く、息をついた。
「何!?」
ネコイが混乱している。
ワタナベは「いや……」と言葉を発して、頭の中を整理する時間を確保した。
「……もう、何がなんだか、わからない。けど、とりあえず、ネコイが無事で、よかったと、思った」
「もしかしてワタナべ」
「……なんだ」
「あたしのこと、好きなの?」
「…………………………」
ネコイの言動は脳味噌から直接口を通り抜けて出て来るので、たぶん、今、このタイミングでそんなことを口走ったのは、『ふと思いついてしまった』以上のことではないのだろう。
好きだ。……と、思う。
いろいろあって、そのあたりは、実は、よくわからなくなってしまっている。
こうして振り返ると、ネコイに対する好意は、庇護欲とか、父性とか、そういうもののようにも思われた。もしくは、彼女が欲しいという欲求があって、知り合いの中では一番ネコイがいけそうだったから、そういう気持ちが好意になっていた、なんていうこともあるかもしれない。
ワタナべは、自分の中身を見つめた。
ネコイのことを、好きなのか。
正直な答えを口にすると、こうなった。
「もう、わからない」
「何それ!? ……あたしが、体、こんなふうにされたから……ってこと?」
「え? …………ああ! ああ、いや、それは関係なくて……」
なんの話か一瞬わからなかった。
そういえばネコイは、だいぶいろいろ、酷いことをされている。淫魔に『盆栽』みたいにされたり、同じ淫魔に、目の前でイかされたり……
思い返せばずいぶん酷い痴態を見てしまったものだ。
でも、それを『エロいな』などと思えるほど、ワタナべの倫理観は壊れていなかった。あれは、『酷いこと』だ。吐き気さえ覚えるほどの、醜悪な……犯罪、とはちょっと違うのかもしれないが、犯罪行為みたいなもの。ネコイは、その被害者だと思う。
処女性。
これが重要かどうか、ワタナべはちょっと考える必要性を覚えた。
その思考の果てに、自分は割と、処女性というのを相手に求めるのかもな、と思った。
だから、ワタナべは、ネコイに対する想いを口にできた。
「やっぱり、好きだと思う」
処女性を割と重んじるなあと自分の気持ち悪い部分を見つめた上で。
あれだけ多くの前で痴態をさらし、淫魔に好き放題にされたという事実を知った上で、ネコイはどうかと思ったら、自分が重要視している処女性を、ネコイには問わないことに気付いた。
だからそれは、『押せばいけそうな相手に、彼女欲しさに好意を持つ』とか、『処女性や幻想を抱いて好きになる』とか、そういうことでは、なくて……
「……ネコイは本当にやかましいし、空気を読まずに言葉を出すし、行動も幼いし、なんでもかんでも気になるとなんでなんでって聞きたがって、そういうところは、うざったいと思う」
「え? え? え? この流れで怒られてるの!?」
「……でも、そういう素直さを、うらやましいと思った。あとさ。……ネコイも結局、演じてたんだよな」
「どういう意味?」
「キサキとかのために、求められてる役割を、演じてたんだろ」
「……」
「今思い返せば、だけど……ネコイよりも、俺とか、インドウとか、キサキの方が、よっぽど不安定だった。ネコイが幼いことすると、俺たちは『大人側』に回れたけど……なんか、わざとそうしてるタイミングがあったような、気もする。そういう気遣いが、できるのかなって、いろいろあって、思ったんだ。それって、優しさだろ」
「そこまで考えてないけど、うーん」
「……」
「なんかさ、『好きなの?』って聞かれて、理由とか語られるの、面倒くさい」
「……まあ言われてみれば、そうかもしれない」
何かを好きなことに理由はいらない。何かを嫌うことにだって、理由がいらないように。
でも、この世界──元の世界、元の世界のコミュニティは、理由を語れないと、ダサいように思われる。大義名分がなく『嫌い』という拳を振りかざすと、それは間違っている、と四方八方から撃たれる。だから、なんにでも理屈とか、大義をつけないと、安心して自分の好悪も表明できない。
ワタナべは空気を読んで順応する方だ。
だから、そういう社会に順応していた。
これから先どうなるかはわからない。でも、もしも元の世界に戻れるのであれば、また順応する必要があるだろう。その時には、やっぱり、自分が何かに対して好きだの嫌いだの表明しなければいけなくなった場合、理屈とか大義をくっつけるような立ち回りが必要になると思う。
でも、今は、いい。
それに、社会に出ても、自分の好き嫌いに、本当に理由や大義があるだなんて、勘違いしないで、いい。
理屈をつけるのも、大義名分をつけるのも、あくまでも他人向けのコミュニケーション技術だ。
心の内を出していい場面で、そういうことをしなくても、いい。
「好きだ。なんとなく」
ワタナベはそう答えた。
ネコイは、
「あたしは、わかんない」
「この流れでその返事なのか……」
「だってワタナべ、地味だし……」
「……」
「でも、優しいのは知ってるから、付き合ってあげてもいいよ」
「……そうか」
「そんでこれからどうしよ」
切り替えが早いというよりは、思いついたまま話しているだけ、なのだろう。
どうしよう。それは、ワタナべもわからない。
……ただ一つ。
ワタナべは、口に出さずに、しかし、覚えていようと思うことがあった。
アサギ。
仲間に入れて欲しいとわざわざ宣言した。だというのに、最終的には、見捨てて逃げてしまった。
あらゆる罪には『仕方ない』というものを無数につけられる。浮力を持った『仕方ない』という風船をいっぱいにくくりつけて、人は、罪を軽くする。己の中でだけだけれど、軽くする。
そして、この世には、第三者に裁かれないような罪が無数にある。
たとえば、いじめの黙認のように。
見て見ぬフリと、巻き込まれないように透明化したのと、黙認。この三つはそれぞれ違うもので、ワタナべは、『透明化』という表現を採用したくなる。
けれどそれは、被害者からすれば黙認なのだ。……その視点を忘れないようにしようと、ワタナベは思った。
被害者の視点に立って物を考える。
ニュースなどで見る、たとえば殺人の被害者。親がよく、その遺族の気持ちに立ったかのような物言いをするのを、ワタナベは聞いていた。無関係な他人が、悲劇的状況にある他人に、勝手に共感して、勝手に代弁して、勝手にカタルシスに浸る。そういう、『被害者の視点に立つ』もある。
けれど、そうではなくて……被害に遭っている誰かにとって、無関係なつもりでいる自分も、咎人の範疇に入っている可能性がある、と。ニュースでしか知らない他人の被害者ではなく、身近な被害者。その視点に立つという考え方を、ワタナベは、忘れないようにしようと思った。
そんなことをしていたら、心を病む。だから、どこかで、人は、身近な被害者を透明化して、己の心を守る。それが苦しまず生きていくために必要なのを、ワタナベはすでに知っている。
だから、それがきっと、自分が負うべき、罰なのだろう。
自覚的に罪を犯せ。
苦しめ。
アサギの手下という役割さえ完遂できなかった自分ができる、アサギへの弔いになるだろう──
「そういえば、コウちゃん無事かな」
──ネコイの発言にワタナベは笑ってしまった。
……あのぐちゃぐちゃなダンジョン。アサギが玉座の間に現れた時、キサキの姿がなかった事実。
そこからワタナべは、キサキにもう会えないことを前提にしていたし、ダンジョンの倒壊に巻き込まれてアサギが死んだことも、前提にしていた。
でも、確かに、案外、生き残っているかもしれない。
「何!? 笑うとこじゃないけど!?」
「いや。……前向きで、いいなと思ったんだ。本当に、ネコイは、前だけ見てるんだなって」
「どういう意味!?」
「いや。…………あ」
その時、ワタナべは、ネコイの姿がきらめいているように見えた。
一瞬、『これが恋なのかな』とボケたことを考えてから、違う、と気付いた。
見上げる。
空に満ちていた薄雲に、切れ間があった。
そこから光が降り注ぎ、その向こうに、青空が見えている。
それは、感動的な光景に思えた。
淫魔たちが倒れ、ダンジョンが完全に崩壊した。ゲームだとするなら、クリアだろうとワタナベは思う。そういう、状況だ。
だから、常に曇り空が広がるこの世界に、光が差し込んだ。それはエンディング演出のように見えたし、その光がネコイに注がれているのは、なんらかの希望の予兆に見えた。
けれど、違う。
ゲーム。
この世界を舞台にした、あるいはこの世界が元となったゲームには、三つのフェイズがある。
一つ。序盤。
突然異世界転移させられたクラスメイトたち。これを上手く編成し、鍛え、魔王──淫魔女王を倒すために、ダンジョンの下へ下へと潜っていくフェイズ。
二つ目。中盤。
ダンジョンをある程度攻略した段階で、『主人公』たちはダンジョンに閉じ込められる。
クリアするしかない状況の中で淫魔女王を倒し地上に戻ると、王宮にいたNPCたちが皆殺しにされていることに、気付く。
犯人と思しきアンデルセン。『主人公』たちが彼に戦いを挑み、そして中ボスとして君臨するアンデルセンを倒すまで。それが、中盤。
そして三つ目のフェイズ。終盤。
淫魔と人間、二つのボスを倒した『主人公』たち。
空の雲に切れ間ができ、光が降り注ぎ……
女神が、存在を露わにする。
雲の切れ間の光は確かにネコイに降り注いでいた。
だが、同時に、ワタナべにも降り注いでいた。
さらに他にも降り注いでいる場所があって、そちらに目を凝らせば、アイラ・テイラーやヨドガワタツコなどが、光の下にいる。
遠くの方にいくつか見える。その場所には、まだ生き残っているクラスメイトが、きっといることだろう。
ワタナべは、
「よくぞ地上を汚染する家畜どもを屠りましたね」
頭の中に響く、女の声を聞いた。
あまりにも優しいその声に、ワタナべは一瞬で『女神』という表現にたどり着いた。
それは他にどう表現していいかわからないぐらい、女神としか言えない声だった。母や姉のような、家族にしか抱かない類の親しみを覚えた。同時に、家族に抱いてあたりまえの、うっすらとした嫌いな気持ち、どれほど立派なことをしていても、『でも家では』とか、『でもあの時』とかの、悪いところが全然思い浮かばない感じも、覚えた。
まったく同時に、宗教画のイメージが脳裏に浮かんだ。
神話の一節を切り取った西洋美術には、裸婦が出て来ることも多い。けれど、それに対して性欲を覚える者は少ない。あの、柔らかそうな、ふくよかな女たちの裸身は、芸術品として、あらゆる俗っぽい欲の対象外にある。そういう、イメージ。
だがしかし一方で、とてつもない劣情も抱いた。この声の持ち主の姿はまだ、知らない。けれど、どうにかして、その裸身を拝み、許されることなら組み敷いて犯したいと、さして攻撃的、加虐的な性格でもない者でさえが、そんなことを思ってしまうほどの、劣情。それが、呼び起こされる。
光が、降り注ぐ。
その光は、どろどろに溶けたダンジョンの残骸、肉の泥を浄化した──
──いや、吸い上げている?
ピンク色の泥が天に上る雨のようになり、一定の高度で消えていく。それは浄化にも、吸い上げにも見える、不思議なバランスの光景だった。
「我が子らよ、その顔をわたくしに見せてください」
声と同時に、雲間から階段が現れた。
光そのものを素材にしたような、透明な階段だ。光を受けて輝くことで、その姿がわかる。
この声に従う義理や理由はなく、警戒してしかるべきものだとも、ワタナべには思えた。
だが、猛烈に、『従うのが当たり前だ』という感覚があって、体が勝手に、階段へ向かっていきそうになる。
ワタナベはすでに歩き出していたネコイの襟首をつかんだ。
「ぐえっ」
「ネコイ、落ち着け、罠かもしれない」
「ちょっとそこ掴むのやめてよ! 苦しいから!」
「いや……すまない。でも、警戒してくれ。……まだ何も、終わってない」
いつしか地上を満たしていた肉の泥は消え、あたりには崩れ切った街の残骸が見えた。
建物は押しつぶされ、押し流されて破壊されていた。人が倒れている。うめいている人もいた。うめいていない人もいた。すべては見えなかった。でも、光景は完全に『災害』だった。
女神。
声を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだ言葉だ。間違いもないと思う。あれこそが、ワタナべたちの授かった『女神の加護』の大本。自分たちに力を与えた天上の存在。
だが、その女神は、この光景を前に、反応しなかった。
慈悲のある存在ではないのだろう。あったとして、その慈悲を何もかもに分け隔てなく向けるようなものでは、ないのだろう。
「でもどうすんの? なんかおヨドとかもう階段前なんだけど!」
見れば確かに、ヨドガワのもっさりした姿が、階段に吸い寄せられているのがわかる。
周囲を見れば、クラスメイトたちが、階段に向けて歩いてきているのも、わかる。
……もしも。
あの女神の発言が罠でもなんでもなく、階段を上った先で元の世界に返してくれるというものであれば、みすみす逃す手はない。
それに、クラスメイトたちと別行動をとる方が、階段を警戒して止まるより、不安な状況だった。
「行くしかないか」
結局、そうせざるを得ない。
ワタナべはいったん止まって考える。しかし、考えた結果、止まる前と行動が変わったことはなかった。本当に考えるだけなのだ。止まるだけ、なのだ。情報がなさすぎて、判断ができないのだ。
……もし、自分が、ネコイを小脇に抱えて逃げたように、なんらかの手段でアサギも引っ張ってこれたなら。
こんなに情報がない状態で、あの階段に向かわなくてもよかったのかもしれない。
(『あの時、ああしていたら』か)
どうにもならない。過去には戻れないのだから。
結局、ワタナベは歩き出す。
クラスメイトたちは、階段前に自然と集っていた。
隔意のある相手もいる。さほどかかわらなかった相手もいる。
だが、全員が黙って、にらむぐらいはしたけれど、階段の上に視線を向けた。
すでにルートは定まっている。
ワタナべたちは、階段を上り始めた。