ネコイ寄り
淫魔は2001年の学生だった。
名前はオオミシオリ。現在は地方の小さな書店で働いているらしい。
住んでいる家は大きな古い一軒家だった。祖母が一人でシオリを育ててくれていたらしい。けれど、シオリが行方不明になったあと、心労で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだと、近所の人が教えてくれたのだとか。
シオリとそのクラスは、バス事故に遭ったことになっているようだった。
そうして死体も、人体の欠片も見つからないまま、おおよそ半年、捜索された。
何もなかった。だが、ある日、シオリだけが戻って来た。
地元のニュースはかなり派手に取り上げた。
ネコイも『東北のある場所で集団バス事故に遭い行方がわからなくなっていた学生の一人が、発見された』というニュースは見た気がした。言われてみればそんなのやってた気もするし、しない気もする……程度の記憶だ。
首都圏ではさほど大きな扱いではなかったのと、その当時、ヨドガワの祖母から『会社』に所属させられて、慣れないこの時代の暮らしと、今までしてこなかった業務というものに必死で、ニュースを見ている余裕がなかった。
あるいは、ネコイたちの目的が『ササイナナミを探す』という方向でまとまっていれば、そういったニュースも細かくチェックしたのかもしれない。
けれど、むしろその当時のネコイたちにとって、ササイナナミは『忘れたいこと』の一つだった。だから、万が一にも手がかりなんか掴んでしまわないように──今の暮らしを守れるように、そういった事件は、あえて頭から締め出していたというのもあるかもしれない。
広い古民家の独特のにおいの中、座布団に座り、向こう側を見る。
案内された今のテーブルはやけに大きく、そして、立派だった。二人で向かい合うには広すぎて、何をするにも、過剰な広さのように思えた。
きっとこのテーブルは、この家に大勢がいたころの残滓なのだろう。
残滓の向こうで、淫魔が微笑んでいる。
その微笑を見ていると、彼女が淫魔で、クラスメイトに酷いことをしたのだということを、忘れてしまうそうになる。どこにでもいる、普通に生きている、オオミシオリという個人の微笑。それ以上でも、それ以下でもなかった。
「みかん、どうぞ」
話が途切れたところで勧められて、ネコイは少しだけ視線を下げた。
残滓の上には木製の皿があって、そこにみかんが積まれている。
「周りの人が、いろいろくれるんだ」
ネコイはみかんを手に取らなかった。
代わりに、暖房の利いた部屋にいるせいか、手の中ににじんだ汗を握りしめた。
「……普通に生きてるんだ」
責めるような口調で言った。
「そうだね」
なんでもない口調で返された。
恨むべき相手のはずなのに、うまく恨めない。強い感情を込めようとしても、相手に芯みたいなものが感じられなくて、ぬるぬると相手の体の表面をすべっていくような心地しかしなかった。
ネコイはただ淫魔をにらんでいたけれど、それは『にらんでいる』のか、『甘えるような上目遣い』なのか、区別がつかないものだった。
淫魔オオミシオリの視点からは、『子供がむくれている』ように映った。だからシオリは笑った。
「女神のエネルギーを使って、送還の術を起動した。そしたら、少なくとも私は帰れると思ってた。あなたたちのことは……考えてもいなかったな」
「……」
「でも、帰るなら、元の時代、元の場所に帰るんだろうなっていうのはなんとなく思ってた。私がそうだったし。だから驚いたよ。ニナカワさん。『え、私と同世代だったの?』って思った。本当は、間違えて過去に来ちゃったみたいだけど」
「そっちのせいでしょ」
「私のせいではないよ」
「……あんたが、送還の術とかいうのをいきなり使わなかったら……」
「それは、『ずっと帰りたかった。チャンスがようやく転がって来た。でも、そのチャンスを見逃せ』っていうこと?」
「…………」
「私は、私なりに必死だったんだよ。異世界に呼ばれたのだって、私が望んだことじゃない。もちろん、私が選択できたことでもない。その中で、クラスメイトを失って、淫魔になって、生き続けた。帰りたい、戻りたいって、思った。そうしてやっと訪れたチャンスで、知らないあなたたちに遠慮して、黙って見てろって、そう言うの?」
「……」
「『助かりたい』と思って行動して、巻き込むつもりもなく誰かを巻き込んで被害に遭わせた。悪いとは思うよ。でも、それは私のせいじゃない」
「……なんで、家に呼んだの」
「何かを考えてたわけじゃないよ。知り合いが訳ありっぽく泣いてたから、他にかける言葉が思いつかなかっただけ。なんで、家に来たの?」
「……他に何も思いつかなかっただけ」
「じゃあ、お互いに、罪はないね。それしかなかったんだから」
「………………」
ずるい、とネコイの直観は言っている。
だが、どうしようもなかったと言われると、確かにそうかもしれないとも、思ってしまう。
普通の誘拐事件に置き換えて考えてみれば、よりはっきりわかる。
突然、誘拐された。クラスメイトは次々と殺されたり、凌辱されたりしていく。そんな中で、過ごしていた。
自分以外の全員がいなくなったところで、次のグループが来た。次のグループが来るまで、解放されなかった。
そういうある日、誘拐犯たちに隙ができて、脱出する可能性が見えたとして……
『次のグループ』に対し、『もし、自分がここで脱出したら、次のグループの子たちがなんらかの報復、腹いせを受けるかもしれない。だから、脱出はこらえよう』と思えるか?
ネコイには、無理だった。
そんなこと、考えにも浮かばない。目の前にチャンスがあれば絶対に、反射的に飛びつく。
それは、罪か?
……それを罪だと、認めることができるか。自分がその『罪』を犯した者だとして、自分の行為を『罪だ!』と責められた時、なんの自己弁護もせずに、その指摘を十割、認められるのか?
不可能だった。
『それしかない』状況において──特に、自分の財産、生命、尊厳がかかったような状況において。『それしかない』手段を行使する、行使し続けることが罪であると、認められるのか。
法律的には知らない。裁判をしたら誰かが罪だと判断するかもしれない。
でも、誰も裁けない、誰も信じない、『異世界でのできごと』で、判断するのが自分だとしたら。その行為を罪だと認められるかと言われれば、認められるわけがなかった。
……仕方ないから。
『アサギいじり』を『ないもの』にしたように、特定状況下において、罪は透明化され、罰は執行されない。
たとえ世間に問うた時に淫魔の行動が罪に問われるとしても、ネコイには、それを罪だと断じることはできなかった。
『アサギいじり』を見過ごし続けたから──ではない。
キサキを、売ったから。
何も知らないで、売った。結果的に、キサキはなんだか娼婦にもならず、『パーツ』にもならずにいたけれど、あくまでも結果論だ。
『そんな酷いことをするなんて、知らなかった』というのは、言い訳として認めてもらえない。
キサキが結果的に無事で……本当に無事だったかはわからないけれど、見た目は少なくとも無事で戻った時、ネコイは、キサキとの会話をするのを避けた。目を合わせることさえ、避けた。
キサキの存在を『ないもの』にした。
自分の罪に罰を与えられるのが怖くて、やり過ごそうとして、見ないことにした。
「私たちに罪はない」淫魔は繰り返した。「責任もない。だから、私たちは、お互いを責めない」
丸め込まれそうだという感覚があった。
だからネコイは、口を開く。
「でも、あたしやレイナさんを襲ったのは、罪じゃないの?」
「だってお腹が空いていたんだもの」
「……食べ物で遊ぶなって言われなかった?」
「言われたけど、それはマナーの問題だもの。マナーを守れず白い目で見られるのは納得するけど、罪として扱われるのは、わからないな」
ネコイは淫魔をじっと見た。
ようやく気付けたことがある。……こいつは、『責任を感じる』能力が欠如している。
丸め込まれそうだ、という直感は正しかったし、正しくなかった。こいつに話術で丸め込もうという意図はない。心底、『自分に罪はない』と信じている。信じていながら、それを念入りに証明し、他者の支持を得ようとする。
だからといって、他者が『罪がない』という納得をしなくても気にしない。『話が通じなかったね』と微笑を浮かべるだけだ。
ネコイも責任感の欠如という特徴があった。
しかしそれは、成長の余地を残した未熟さだ。
対して目の前の淫魔は、そういう精神の形をしているとしか感じられなかった。
もう、用事はなかった。
ネコイはみかんに手をつけないまま、立ち上がる。残滓に手をついて、立ち上がる。冬場の冷たさはエアコンの入った室内には届いていないはずだった。でも、良い素材で作られた大きな木のテーブルは、なぜだか氷みたいに冷たく感じられた。
「さようなら。話して損した」
「もう行くの? 電車、ないかもしれないのに。泊めてあげてもいいよ」
「……まだ午後六時だけど」
「このへんはそんなもんだよ。だいたい、駅までだって、車でニ十分はかかるし。移動手段、ないでしょ」
「………………タクシー」
「使うなら、呼んであげるけど」
ネコイはそこで、ヨドガワの祖母からの苦言と、財布の中身を思い出した。
……再び、座った。
みかんを乱暴に掴み、皮を剥く。
淫魔は楽し気に笑っていた。
「私ね、あなたたちのこと、仲間だと思ってる」
「ムカつきすぎて吐きそう」
「胃薬あるよ。みかんは結構、胃酸が出るよね」
「……なんでもない」
「そう? 同じ世界で苦労した仲間でしょ。だから、家に泊めるぐらいは、してあげるよ。遠慮しないで。そうだ。私が子供のころの服があるんだ。あなたなら、着られるでしょ」
こんなにイラつく相手がこの世にいるんだ、とネコイは思った。
同時に、アサギの気持ちが少しわかった。……自分にした行為をまったく全然『なかったこと』みたいにして、普通ににこやかに話しかけてくる相手は、あまりにもムカつく。きっとアサギにとってレイナは、そういう相手だったのだろう。
ネコイは沈黙に耐えきれなくて──正しくは、無言でにこにこ見つめられるのに耐えきれなくて、口を開いた。
「そういえばアンタ、まだ淫魔なの? 普通の人間みたいに見えるけど」
「まだ淫魔だよ。っていうか、向こうで得たものって、消えるの? あなたたちの『女神の加護』は、消えたの?」
「……試してあげてもいいけど」
「あなたまで犯罪者になったら、一緒にいた人たちが悲しまない?」
「…………ムカつく!」
「ああ、心配してるんだ。大丈夫だよ。この世界って、
「……そうなの?」
「人間が多すぎるからね」
答えになっているような、なっていないような、不思議な話だった。
……ネコイは、食事の『必要』がない。排泄も、しなくていい。眠る『必要』も、ない。
その体のままだ。その体のまま、生きている。実は『聖力』とか言われてもよくわかっていない。正式な名称を認識する前に、ネコイはこの世界に来てしまったから。でも、話の流れで『魔力』と言われていたやつだなというのを察するぐらいはできた。
自分たちがまだ食事も睡眠もいらない変な生命体のままだとするなら、食事や睡眠の代わりのものはどうやって摂取してるんだろう、というのはちょっと考えたことがあった。でも、よくわかんなくて考えるのはやめた。寝たら勝手に体の内側から湧いて来る可能性もあるし。
けれど、この世界がそのエネルギーに満ちていると言われれば、なんだか納得もできる。
この世界には女神の微笑があふれているようだ。
そして、微笑をずっと浮かべている存在というのは、気持ちが悪い。
目の前の淫魔のように。あるいは、ササイナナミのように。
「私たちの普通の人間としての人生は、異世界に呼ばれてしまった時点で終わってるんだよ」
「……」
「私は働いてるけど、本当は、働く必要も、ないんだよね。だって、食べるのに困らないから。寝る必要もないし、その気になれば、住所不定無職無収入の人として、戸籍がなくたって生きていける」
「………………」
「でも、私たちは普通に生きようとしちゃうんだよね。あなたもきっと、そうでしょう?」
「……あたしはできなかった」
「できなくてもいいじゃない。なんで、やろうとするの?」
ニナカワが『必要だ』と言う前提でみんなをまとめて、そのように行動したから。その惰性。
……という答えはあんまりにもあんまりなので、ネコイは自分の答えを探した。
「……あきらめてないから」
「?」
「ある日突然さらわれて、全部、ダメにされた。でも、勝手な都合であたしたちをさらったやつのせいで、人生全部が壊れて、もう何もかもダメだって、あきらめてないから。だから、普通に生きようとするんだと思う」
「あなたは、できなかったけど」
「あたしはできなかったけど! ムツキとか、マコトとか、あとテイラーだって、あきらめてない。さらったやつらに負けてない。あいつらのせいで人生が壊れてなんかないって、証明してる。ワタナべもそうだし……」
「面白い意見だね。彼女にも話してあげてよ」
「………………?」
偶然、ではないのだろう。
古い民家のドアがガラガラと音を立てて開き、「ただいま」という女性の声が聞こえた。
その声は「お客さん?」と続きながら、足音を近付けて来る。
部屋の襖が開いた。
外の冷気が、エアコンで温められた部屋に染み入ってくる。
冷気とともに現れたのは。
「あ、ネコイさん?」
黒髪を長く伸ばした、コートを着た女だ。
学生のころのままの見た目をしている。制服を着ていても、違和感がないだろう。驚くほど、老けていない。
……実は、ネコイも、そうだ。見た目だけなら、変わっていない。ワタナべも、ハナイも、ハシグチも、テイラーも、ニナカワだって、きっと、見た目がずっと、変わらないのだろう。
寿命というのが自分たちにあるのかどうか、ネコイはわからないし、みんな、考えないようにしてきた。
でも、その女を見てしまうと、否応なく実感させられてしまう。
何も変わらない。
きっと、何も変わらないまま、自分たちは、死ねもしない。
姿だけは学生のころのまま、ずっとずっと、生き続ける。
その、あまりにも変わらない女を見ていると、『永遠』という文字が重みをもって背中にのしかかってくるようだった。
その女が微笑を浮かべるだけで、背後に、あのころの教室と、そこで騒ぐクラスメイトたちが見えるかのようだった。
そいつは、
「…………ササイナナミ」
目的の人物は、『昨日休んでいたクラスメイトが、今日は登校してきた』ぐらいの感覚で、にこりと微笑んだ。
変わらなさすぎる微笑だった。まるで、何も経験してなんかいないかのように、そいつは笑っていた。