主人公が帰ったあとのクラスの様子
後編
「私たち、アサギくんのところに行くことにしたの」
ヤナウエは、ナナミの発言の意味がわからなかった。
だが、彼は頭の回転は遅くない。
すぐにその言葉を、解釈する──
──ただし。
彼には、バイアスがある。
生物すべてが普遍的に持つ、正常性バイアスというものが。
「あ、ああ、なるほど! そうか、そうだよな。ナナミさんの口から言ってもらった方が、あいつも戻ってきやすい! 確かに!」
「……ええと……どういう話?」
「え? ああ、ほら、ナナミさんも、思いついたんだよな? アサギのさ、実力見たろ? だから俺たち、今、アサギに戻ってきてもらおうっていう話をしてたんだ」
「………………ええと……」
「でもさ、追放を言い渡したの俺だろ? だから、俺が行くより、まずはナナミさんでワンクッション置いてさ。その方があいつも素直になりや……す……」
言葉が鈍ったのは、ヤナウエが、ナナミのこんな顔を見たことがなかったからだ。
ナナミは、理解できないものを見る目を、ヤナウエに向けていた。
「……ナナミさん、なんだろう、その顔は」
「えっと……正気、なんだよね?」
「そりゃまあ、そう、だけど」
「……そっか。えっと……説明が、足りなかったよね。ごめんなさい」
「い、いや……」
「私は……」
ここでナナミは、どういう言い方をするかを考えた。
『レイナを助けてもらう時に、レイナを差し出す契約をした。その上で、自分も、アサギから、自分のところに来ないかという誘いを受けた』。
これをそのまま言っては、アサギが悪役にされてしまう。
……今。
この時、ナナミは、覚悟を示す必要性を覚えていた。
この世界に来てから、ずっとそうだ。
自分は……クラスの中で、なんとなく、浮いた立ち位置にいた。
教室の中にいるのに、教室の中にはいないみたいな。
クラスの一員なのに、どこか、クラスから一歩引いた場所にいる、みたいな。
大騒ぎをしない限りはある程度の自由があった。
いじめの標的にもならなかったし、誰かをいじめることもなかった。いじめというクラスの中のムーヴメントから無関係な場所にいてもなんとなく許されるような、そういう立場にあった。
けれど、クラスメイトたちと異世界に来て、自分のその、ふわふわした立ち位置が、いかに甘えたものであるかを、悟った。
一員にならなければ、と思った。
……だから、率先して戦った。……戦ったと、思っていた、けれど。
アサギに対するクラスからの扱いを間違っていると思うならば、そこでも戦わなければならなかった。
そこでの戦いを、避けていた。
怖かったから。
悪役になるのが怖かった。
標的にされるのが怖かった。
かといって、見ていられもしなかったから、一人だけ、優しく接した。
良いポジションで、良い人ぶっていた。
悪い人に見られたくなかったから。
……だから、もしも、アサギのことで、覚悟や責任を語るならば。
「……私は、アサギくんの方が頼りになると思うから、このクラスから抜けて、出て行くんだよ」
自分だけが悪者になるべきだ。
実際、悪者だ。何せ別に悪い扱いをしてきたわけでもないクラスのみんなを捨てて、何の助けにもなれなかった人のところに行くんだから。
その上で、責任を分散させるべきではないと、ナナミは決意した。
アサギとの約束をそのまま言えば、クラスの中で、アサギだけが悪者になる。
脅されてるんだろ、とか。弱みを握られてるんだろ、とか。そうやってアサギを悪者にする。そういう流れを、腐るほど見てきた。魂が腐るほど、見過ごしてきた。
ナナミは、『言い捨てて、行く』ということをしなかった。
クラスメイトの反応を待った。それを受け止めるのも、責任をとることだと思ったから。
クラスメイトたちは、静まり返っていた。
見回す。
誰もが、信じられないものを見る目で、こちらを見ている。
その中でただ一人──
──ヤナウエだけが、怯えた顔で、こちらを見ていた。
座っていたソファからつんのめるように立ち上がると、ヤナウエが、肩を掴んでくる。
「痛っ」
「ナナミっ! ナナミさん! 嘘だろ!? 嘘だよな!? あ、いや、そうだ、そうだよ。あいつも本当は戻りたいんだ。だけど、言い出せないから、ナナミさんが本当の気持ちを聞いてやるんだ! そうだろ!?」
それは『そうであって欲しい』という願いの発露でしかなかった。
ヤナウエ当人はもとより、ナナミも、それ以外にも、伝わっただろう。
なぜか、ヤナウエは、アサギに戻って欲しがっている。
それも、偏執狂と言えるほどの心情で、戻って欲しがっている──
「ヤナウエくん、痛い」
「……あ、いや、ごめん。……で、でも……そう! 俺たちは、迎え入れてやれるんだ! だから、行くんじゃなくて、連れて戻ってきてくれよ! その方が絶対にいい!」
「……ねえ、ヤナウエくん」
「なんだい?」
「こんな場所に戻りたいわけないよ」
「………………は?」
「……」
ナナミはそれ以上言わなかったが、空気は『それ以上』を言葉にせずとも雄弁に語っていた。
沈黙が下りる。
クラスの中、アサギがいた時にはなかったほど、冷え切った沈黙だった。
「っていうかさあ」
その沈黙を破ったのは、今まで一言も発しなかった、ナナミの双子の妹……レイナだった。
「ヤナ、あいつに会ったんだよね」
「あ、ああ……あ! れ、レイナ、その目覚めて……無事でよかったよ」
「は? ウザ。そういうのいいから。……あいつに会ったんだよね?」
「会ったけど……」
「だったらわかるっしょ。あたし、乗り換えるから」
「…………なんで」
「わかんねえのかよ。お前があいつよりはるかに格下の雑魚だからだよ」
「レイナ!」
ナナミが慌ててレイナを止めにかかる。
だが、レイナは口を塞ぎに来る姉を避けてまで続けた。
「間違えたんだよ! 追放なんかしなきゃよかった! 生きてくためには、あいつのチンポ舐めるのが一番いい! だからあたしは、そうする!」
「レイナ! ちょっと!」
「ナナミだってそうでしょ? こいつらと一緒にいたら死ぬのわかんだろ。十五階層でこんだけやべーんだから、その先なんか行けるわけねーだろ! で、あたしらのこのクソな世界での冒険はいつ終わんの? ダンジョンを全部攻略したら? できるかよ!!!」
「レイナ!」
「あたしは! あたしは、いい暮らしがしたいの! 内申上げて、お前らに『あたしはこの学校の推薦狙ってるんだ』って言いまわったのも、全部、いい暮らしをするため!」
「レイナってば!」
「あたしに見た目しかねーのは、ナナミもわかってんだろ! だからこんなキモ男のモンもしゃぶったんだよ! クラスで一番強いから!」
キモ男──
未だかつてされたことのない表現で自分を呼ばれたヤナウエは、最初、それが誰を指す言葉なのか、わからなかった。
ただ、レイナの指先は、確かに自分を指していて……驚きで固まって、声も出なかった。
レイナが、続ける。
その目には、姉のナナミにはない闘志のようなものがたぎっていた。
「生き残るためならなんでもする」
なんでも、と若く美しい少女が言った場合、その成そうとしていることは、基本的には一つだ。
「あたしは、ナナミより、いい暮らしをする。……なあ、お前ら。貧乏で、父親いなくて、そういう家の女に向けられる視線わかるか? パパ活目当ての男が身の上聞いて目つき変わる瞬間、知ってるか? 女を売り物にできなかったら食い物にされるんだよ。だからあたしは売りに行く。一番高く買ってくれそうなやつに」
「レイナ……」
「ナナミはいいよね。大事にされてて。……空気っていうの? なんか、あるんだよ。あたしと違ってさ。ぽわぽわしてても、いろんなところで大事にされて生きて行けそうな──双子なのにさ。あたしにはなくて、あんたにはある」
「……」
「あたしは意識して『女』使わないとどうにもならないんだよ。……知らないだろ。小学校の担任にあたしが何されてたか」
「……え」
「だからあたしは、同じ顔なのに、同じ家なのに、こんな恵まれたヤツには負けたくない。だから、あたしは、自分の意思で、アサギをしゃぶりに行くから。じゃあな雑魚ども。ついてくんなよ」
レイナがずかずかと歩き出してしまう。
しばらく、衝撃的すぎるカミングアウトに、誰もが呆然としていたが……
「あ、れ、レイナ、待って! あの……わ、私は、私の意思で、あなたたちを見限って……えっと……」
ナナミはここから、『悪』を自分に集めようとするが、うまく言葉が浮かばなかった。
妹のレイナの思ってもみなかったカミングアウトのせいで、頭がうまく働かない。
「と、とにかく、もう戻らないので……! レイナ、待って!」
自分の身の安全のために、クラスメイトを捨てて、自分の意思で、アサギタカミネのところへ行く──
そういうことを言いたかったはずなのに、何もかもが、うやむやで、めちゃくちゃにされてしまった。
何もかもが。
……クラスという集合体もまた、めちゃくちゃに、されてしまった。
残されたクラスメイトたちの中で……
ヤナウエは。
「なん、で……」
真っ白な頭で、そんなふうにつぶやくだけで、精一杯だった。