彼女の存在は、王国史に書き残すべき『誤り』である──
第二王子アンデルセンは、そんなようなことを言っていた。
「大丈夫ですか?」
「すみません、少しだけ、痛みます」
彼女の、滅多に自重を支えない足は、ほんの少し硬い地面を踏んだだけで、真っ赤になってしまった。
少しだけ、腫れている。……痒みも出ているのだろう。ちらちらと、すでに何もない目をそちらに向ける動作が、なんとも言い難く、心に刺さる。
鳥籠のようなソファに座った彼女の前に跪き、その足を優しく揉みこむ。
彼女は美しかった。
誰にも世話をされていない。一人では何もできない。
日がな一日そこに座り、ただただ頭の中で空想を膨らませるだけの存在。
この無力な生き物は、食事も……排泄も、入浴も、必要とはしていない。
彼女は汚れることがない。
それは、彼女が、この国の王族と、淫魔とが交わってできた血筋の子だからだ。
……僕たちもそうだが、
ダンジョン攻略のために、地下に潜っていく──そうなると、モンスターや罠ももちろん脅威だが、それ以上に、食事の手配や、排泄、さらに衛生管理なども、課題になってくる。
僕らがそういったことを心配せずガンガンダンジョンに潜っていけるのは、僕らがすでに、この世界では汚れを落とさない生き物になっているからだった。
……もっと身も蓋もない、露悪的な言い方をしてしまえば、僕らの尻の穴はもはや性器としてしか役立たなくなった、とさえ言える。
これがただ悪く言いたいがためだけの表現ではないのだ。
だってこの世界は、性交によって強くなれる世界。
そもそも『ダンジョンの最奥を目指す』という生き物に仕上げられている『女神の加護を持つ者』には、排泄だの食事だの衛生管理だのといった『人間らしい営み』はいらない。だから、そのようにデザインされる──あるいはし直される。
戦い続けられるように、食事も排泄も必要なくなる。
性交という手段に邪魔ではないように、衛生面の不安もない。
この世界で女神の加護を受けるというのは、そういう生き物にチューニングされるということだ。
……女神。
淫魔のダンジョンを攻略するのが、ゲームにおける『中盤までの目標』なら、後半の目標は、女神の打倒、ということになる。
女神は淫魔を倒すために手段を選ばない、良くも悪くも神らしい神なのだ。
だから僕らは生物として変質させられてしまい、そのままでは戻れないし、女神も、ゲームにおいて、淫魔女王を倒した主人公らを返そうとしない。
そこで女神を倒すことになる……というのが、ゲーム後半の流れ。
そういう女神だから、今ある機能も、ない機能も、すべて『他のことなどせず、己を鍛えて、さっさと淫魔王を倒せ』という目的でデザインされている。
だからこれは、女神からの『細かいことを気にせずさっさとヤりまくれ』という、嫌すぎる後押し、というわけでもあった。
……そして。
淫魔側も、同じシステムで強くなる。
だから、淫魔の体も、同じように、汚れない。食事だの排泄だの、そういう、人間らしい営みよりも、ずっとセックスをしていられるように、デザインされている。
この
「もう少し、体が強ければ、いいのですけれど。……あ、そうだ。運動を、心がけてみましょうか。そうしたら、きっと」
「……やめた方が、よろしいかと」
「……そうですね」
……彼女は食事などの『生物として必要なこと』を免れた人体だ。
それは彼女がその家系図のてっぺんに淫魔という存在を持つ、淫魔と人のハーフだから、なのだが……
彼女の肉体は、汚れや生物として必要なことを免れつつ、まったく頑強ではない。
拒絶反応のようなもの、なのだろうか?
詳しい話は見た覚えはない。けれど、今目の前にいる彼女は、どうしても、ただの人より脆弱であり、鍛え上げても強くなることがない──
──彼女の体は、『完成』している。
この小ささ、この細さで、彼女は完全体だ。
だから彼女は良くも悪くも、変わることができない。弱いまま、細いまま、小さいまま、体に残った呪力が尽きるまではあらゆる汚れ──死の汚れさえ寄せ付けず生き続ける。最弱の淫魔。
……それはつまり、この魅力的な香りを放つ少女は、どれほど酷く扱っても決して壊れることがない、肉の人形という意味でもある、のだが。
そんな彼女をこうも飾り立て、誰の慰み者にもしていない今の状況は果たして、どういう心情によるものなのか。それは、ゲームでも、明かされることはなかった。
「もっと早くに、うかがうべきでしたね」
腫れていた足が戻っていくのを見ながら、声をかける。
彼女は、無邪気な喜びに跳ねた声で、応じた。
「いえ。寂しくはありませんでしたわ。だって、あなたとお話をした思い出を、何度も何度も、頭の中で繰り返しておりますもの」
「……」
「それに……あの時は、本当に楽しくって。少し、調子を崩してしまいましたから」
「大丈夫、だったのでしょうか?」
「ええ。体調は。でも……寝込むほどはしゃいでしまって、少し反省をしましたのよ」
「あなたが何を反省することがあるというのでしょう」
「人生に楽しい思い出は、多くない方がいいと思ったのです」
「……」
「わたくしの部屋には、宝石や黄金が、たくさんあるそうですね」
「……ええ」
「それらは、数少ないからこそ、人々にとって特別なのでしょう」
「……宝石や黄金が数少ないという話は、誰から?」
「あら、違いましたか? そういうふうに、思っていたのですけれど」
彼女は『目を抜く』時以外、誰ともかかわらずに過ごしている。
その『目を抜く』儀式──完全体である彼女を欠損させ、その状態に固定するための儀式が終われば、こうして飾り立てられて、誰も来ない鳥籠の中で、一人、死ぬまで翼を休ませることになる。
だが、彼女は、こうして言葉を知っている。
教わる機会のない言葉を、知っているのだ。
……あるいは僕らに備わっている『女神の加護』が、僕の伝えたい意思と、彼女の伝えたい意思を、翻訳し合っているのかとも思ったが……
そうではない、気がする。
彼女は
何か、僕らには想像もつかない方法で情報を集めているとか、あるいは、想像も及ばない何かに教育を施されているとか、そういうことがない限り説明がつかないほど、知識や教養を持っているのだ。
彼女の自覚としては、夢を見るらしいのだが。
生まれつき目を抜かれた彼女が、夢を『見る』のだ。
その夢の中では、世界には色がある。見たことのないものが、目に映る。それをもとに、彼女は話をする。そして、その夢の中で見たものは、驚くほど現実に即している──
こんなことが、あるのだろうか?
「……実のところ、あまりにも薄情で、言いたくなかったのですが」
「なんでしょう?」
「僕は、この王都に腰を下ろす時、あなたのことは、頭にもありませんでした」
「まあ、酷い」
声は鈴でも鳴らすかのように楽し気だった。
僕は、彼女の足を見ている。
顔を見る勇気が、ない。
「……あなたの方が、僕の顔なんか見たくないのではないかと、そう思っていたのです」
「見えませんよ?」
「そういう意味ではなく……」
「ふふ。冗談です」
そこで僕はようやく、彼女の顔を見ることができた。
真っ白い小さな足から視線を上げた時、彼女は、鳥籠のようなソファの上で腰を曲げ、息がかかるぐらいの距離まで、僕に顔を近付けていた。
幼い、美しい、白い顔。
色素の薄いピンク色の唇から、
「お会いしたかった」
あまりにも甘い吐息が、吹きかけられた。
……言葉に詰まる。
視線がまた、ひとりでに落ちてしまう。
彼女は、僕の顎を脛に乗せるように、脚を上げた。
……上を向くしか、なくなってしまった。
「ねえ、わたくしの目に、指を、入れてみません?」
「……えっ、それは……」
「それがお嫌でしたら、わたくしの手に、触れてみませんか?」
こんな強引なドア・イン・ザ・フェイステクニックがあっていいのだろうか。
目……まあ、彼女の眼は、確かに、ないのだろう。それは、目隠しの上から見ていても、なんとなく、わかる。
でもそこに指を入れてみたいかと言えば……どうしよう、ここで、ちょっと入れてみたいと思う僕は、何かとんでもない変態のような気がしてきた。
まあ、ともかく、断るような要求だろう。
それに比べれば、手に触れてみませんかというのは、なんともかわいらしいお願いだ。だけれど……
「あの、どうして、そんな提案を?」
「あなたに触れられると、気持ちがいいから」
「……」
「目がね。ないのに、痛むんです。たまに」
「……それは……」
「そんな時、この、何もない穴に、あなたの指のぬくもりがあったら……どんなに、気持ちがいいか。それを、考えてしまったの。だって……あなたが、わたくしの足に触れてくださった時、雷に打たれたみたいに、とてもとても、気持ちよかったから」
……空気が、甘い。
甘い、柔らかい生き物が、吐息を僕に、吹きかける。
「あなたのぬくもりを、空洞に感じたいのです」
淫魔。
急に、そんな単語が、頭に過ぎった。
僕は試されているのだろうか。それともこれは、見た目通りの精神年齢からくる、無邪気なお願いだろうか。
彼女はずっとこの部屋にいて何も知らない──けれど彼女が何もかもを知りすぎている。
僕はどうすべきだ。この恩人に。この華奢な少女に。どう応じるべきなのだろう。
長らく存在さえ忘却していた──忘却しようとしていた、この少女に。
嫌われるのが怖いから、彼女に酷く不平等な契約を結ばせて──結ばせたのは彼女の実兄にあたるアンデルセン第二王子だが──僕が秘密を吐けば失われるこの命に。
ああ、そういえば、呪力か聖力がある者に、例の魔法的契約は使えないんじゃ──ということは彼女は実はなんの縛りも受けていなくて──いや使えないのは異世界人で──
「冗談ですよ」
……思考があっちこっちにふらついて、頭がバラバラになりそうだった。
それを止めたのは、僕を混乱させた張本人である、小さな人だった。
「ねぇ、でも、手を握って欲しいのは、本当。目の穴には──いずれ、ね」
「……そこで『いずれ』と仰られるのも、冗談ですか?」
「わたくしのことを忘れていた意地悪な人には、教えてあげません」
「それについては、本当に申し訳ありません」
忘れていた、というか。意識をしないようにしていた、で。僕の中でその二つは、全然違うものだ。
意識をしないようにするのは、意識を向けてしまうから。
忘れるのは、意識を向けていないから。
真逆のこと。なのに、僕の外側から僕の行動を見れば、その二つはまったく同じ結果にたどり着く。
「手を」
どうにも本当にそれだけは、冗談でも嘘でもないらしい。
……小さな手。
これを握ることで何かが変わることはないだろう。
というか、そんなことを言い出したら、僕はすでに、倒れ込む彼女を抱きとめているわけで──いや待て、あれももしかして、計算づく? いや、もう、何がなんだか……
困り果てて、考えもまとまらない僕は、何も考えず、差し出された手をそっと握った。
彼女は、にっこりと口元を笑ませた。
「大きい。温かい。……わたくしの全部が、包み込まれるみたい」
「……きょ、恐縮です?」
「また、わたくしを鑑賞にいらしてね」
「……」
「わたくしは、ずいぶん綺麗に飾り立てられているのでしょう? きっとね、誰かに見てもらうために、そうなっていると思うの」
「今のところ、僕以外は、見ることもできそうにありませんけれどね」
彼女の存在は、人の正気を失わせる。
僕はたまたま呪力と相性がいいからこうして傍でおしゃべりをしていられるけれど……具体的に、どうなるかは、わからない。だが、彼女の傍にいれば、狂う。それは絶対に、良くはないことだ。
だから、この美しい小鳥を鑑賞できるのは、僕以外にいない。
……だから。
「だったら、わたくしは、あなたのために、綺麗に飾られているのね」
そう言われてしまうと、二の句が継げない。
「わたくしね、あなたが来ると聞いて、とても嬉しかったのよ。会いたかったの、本当に。でも、希少であるほど美しく輝く──そう言い聞かせて、我慢をしたのよ」
「それは本当に申し訳ありません」
「……いじめるのは、このぐらいにしましょう」
彼女の手が、かすかに引かれる。
僕は、手を放した。
彼女は、指先を名残惜し気に絡めながら、手を引いた。
「足の鎖がなければ、あなたはわたくしを連れ出してくれるのかしら」
「……出たいのですか?」
「うふふふ。わたくしの希望ではなくて、あなたの欲望を聞いているのに」
「……いじめるのは、これぐらいでお願いします」
「そうね。あんまりやっては、わたくしのことを嫌いになってしまうかもしれないもの。……行ってらっしゃい、あなた。また、戻ってらしてね」
それは、『はい』とも『いいえ』とも答えにくい言葉だった。
けれどまあ、こう言うしかない。
「……わかりました。次はこちらから、会いたいと連絡しましょう」
「ええ。待っているから」
一礼して、退出する。
部屋を出て扉を閉めたあと、なぜだか重苦しいため息が出た。
数歩、画廊のような廊下を歩いて……
ふと、気付いた。
……そういえば。
そばに寄るだけで正気を失う彼女を、ああまで飾り付けたのは、一体、誰なのだろう。
……まあ、名もなき、狂ったところで殺されておしまいの、誰かなのかも、しれないけれど。