東京は、呼吸を忘れた魚のように、ただ静かに水に沈もうとしていた。
二〇二一年の六月。神津島から家出してきた僕、森嶋帆高にとって、東京は憧れの地でも、希望の象徴でもなかった。それは、どこまでも冷たく、無機質で、それでいてひどく湿り気を帯びた「怪物」だった。アスファルトを叩く激しい雨音は、僕の存在を街のノイズの中に溶かし、消し去ろうとしているようにさえ思えた。
ネットカフェを転々とし、薄暗い個室でカップヌードルを啜る日々。そんな僕を救ってくれたのは、怪しげな編集プロダクションを営む須賀圭介と、その姪である夏美さん、そして――マクドナルドで僕にビッグマックを差し出してくれた、天野陽菜という一人の少女だった。
陽菜さんは「晴れ女」だった。
代々木の廃ビルにある小さな鳥居をくぐり、空に祈りを捧げるだけで、灰色の雲を割り、この街に一時の陽光を連れてくることができる。僕たちはその力を「ビジネス」にすることにした。最初はただ、お金が欲しかっただけかもしれない。けれど、祈る陽菜さんの横顔を見ているうちに、僕の心の中には、お金よりもずっと重くて、熱い、正体不明の感情が澱のように溜まっていった。
それは、彼女を独り占めしたいという独占欲であり、同時に、彼女をこの濁った世界から連れ去りたいという破壊衝動でもあった。
天気の巫女は、人柱として犠牲にならなければならない。
夏美さんから聞かされたその残酷な伝承は、僕たちの輝かしい日々に冷たい影を落とした。外は相変わらずの雨だ。止むことのない雨、異常な雪、そして警察の追跡。僕たちは追い詰められていた。陽菜さんと、その弟の凪と一緒に。
この物語は、あの日、僕たちが世界の調和を捨てて、お互いの体温を選んだ記録だ。
正しくないこと。法律に触れること。大人が顔をしかめるような、浅ましい欲望。
けれど、あの止まない雨の下で、僕たちを温めてくれたのは、道徳でも正義でもなく、相手の肌のぬくもりだけだった。
夏美さんの奔放な香水の匂いと、大人の余裕に隠された孤独。
凪が隠し持っていた、子供ゆえの鋭い執着と早熟な色気。
そして、陽菜さんの、透き通るほどに儚く、けれど熱を帯びた、あの日の感触。
世界がどうなってもいい。天気が狂ったままでもいい。
僕たちは、自分たちの本能に従って、お互いを求め合うことに決めたんだ。
これは、僕と彼女が、そして僕たちを囲む人々が、狂った世界の中で「今、ここで生きている」という証を刻みつけるための、秘密の儀式の始まり。
雨音は、ますます激しくなっている。
さあ、扉を閉めよう。世界を締め出して、僕たちだけの体温に溺れるために。