王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
リンカと向き合うことになったのは、夜が明けてから少し経った頃だった。
王城の中でも人の出入りが少ない一室に通されると、窓辺の椅子へ腰かけた彼女が、こちらを見もせず黙って座っていた。
手首の拘束はもう外してある。
逃げようと思えば逃げられるはずなのに、そうしなかったのは、まだ決めきれていないからだろう。
俺は扉の前で少しだけ立ち止まり、それからリンカの向かいへ静かに腰を下ろした。
部屋には、朝の光と薄い茶の香りだけが漂っている。
気まずい沈黙だったが、無理に壊すものでもない気がした。
「……寝られたか」
ようやく口を開くと、リンカは少し間を置いてから頷いた。
「少しだけ」
短い返事だった。
無理もない。
昨日まで俺を殺しに来ていた相手と、こうして朝から向かい合っているのだから、落ち着けという方が難しい。
俺は湯気の立つカップを手元へ引き寄せる。
リンカの前にも同じものが置かれているのに、彼女はまだ口をつけていない。
「毒なんて入ってないぞ」
冗談半分で言ったつもりだったが、リンカは真顔のままこちらを見た。
その目を見て、今のはちょっと悪かったなと思う。
「……そういうの、あまり面白くない」
「ごめん」
素直に謝ると、リンカはそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ肩の力が抜けたようにも見える。
しばらくしてから、俺はカップを置いた。
「昨日のことなんだけどさ」
リンカの睫毛が、わずかに揺れる。
「なんで俺を殺そうとしたんだ、とか。そういうの、一応聞いてもいいか」
問いかけると、彼女は窓の外へ目をやった。
春先の風が、白いカーテンの端をゆるく揺らしている。
「……お金」
ぽつりと落ちた声は、拍子抜けするくらいあっさりしていた。
「お金が必要だった」
「それで暗殺を?」
「うん」
それきり黙るかと思ったが、リンカは少しずつ言葉を続けた。
「平民は、上手く生きなければ簡単に死ぬ。
私には剣の才能も、貴族に媚びる器用さもなかった。
でも、人を殺す技術だけはあったから」
淡々としている。
まるで昨日の天気でも話すみたいな口調だった。
けれど、それが余計につらかった。
「王家に拾われて、使える道具になった。
命じられたことをやれば、お金がもらえる。
失敗すれば捨てられる。ただそれだけ」
リンカはそこでようやくカップに手を伸ばしたが、飲まずに指先で縁をなぞるだけだった。
「ズヌイ王子に言われたの」
視線は伏せたまま、声だけが静かに落ちる。
「これをやれって。
成功すれば報酬をやる、失敗しても自分が守るって」
そこで、ほんの少しだけ唇が歪んだ。
笑ったわけじゃない。
でも、あれは多分、笑うしかなかった時の顔だ。
「……見捨てられたけど」
その一言だけで十分だった。
俺は腕を組んだまま、すぐには返せない。
かわいそうだとか、ひどいとか。
そんな言葉を投げるのは簡単だ。
でも、そういう薄い同情は、たぶん今のリンカが一番いらないものだと思った。
「殺せば金が入る。それだけ」
リンカはようやくこちらを見た。
試すみたいな目だった。
「そうやって生きてきた。
だから、別に間違っていたとは思ってない」
「うん」
俺は頷いた。
「それで生きてきたなら、それでいいと思う」
リンカの目が少しだけ開く。
予想していた反応じゃなかったんだろう。
「……否定しないの」
「しないよ」
俺は肩をすくめる。
「だって、俺がお前の立場でも、綺麗ごとだけで生きられた自信ないし」
そこで一度言葉を切る。
リンカの視線は、もう逸れなかった。
「でもさ」
自分でも驚くくらい、声はまっすぐ出た。
「それ以外を選んでもいいんじゃないかとは思う」
リンカの指先が止まる。
「道具として生きるのが楽なら、それでもいい。
けど、そうじゃないなら、別のやり方を選んだっていいだろ」
「……別のやり方」
「俺のところに来いって言ったのも、そういうこと」
命令するつもりはなかった。
恩を売りたいわけでもない。
ただ、目の前に、そういう選択肢を知らないまま生きてきた子がいるなら、置いておきたかっただけだ。
「来るかどうかは、リンカが決めればいい」
そう言うと、彼女は長く黙った。
窓の外で鳥が鳴いている。
春の柔らかい光が、伏せられた睫毛の先を白く照らしていた。
やがて、リンカは小さく息を吐く。
「……変な人」
「よく言われる」
「王子なのに」
「それも言われる」
少しだけ、彼女の口元が緩んだ。
ほんの一瞬だったが、昨日までの冷えた顔とは明らかに違っていた。
「すぐには決められない」
「うん」
「でも」
リンカはカップを持ち上げ、ようやくひと口だけ茶を飲んだ。
「ここに残るくらいなら、いい」
それだけ言って、また視線を伏せる。
照れているのか、まだ迷っているのか。
多分、その両方だ。
俺は無理に続けず、背もたれへ身体を預けた。
十分だと思った。
昨日まで敵だった相手が、逃げずに残ると言った。
それだけで、今は十分すぎる。
扉の外で、誰かが小さく笑った気がした。
たぶん、ずっと聞いていた婚約者が、面白そうにしているんだろう。
まったく、盗み聞きが好きな人だ。
それでも、今は少しだけ感謝していた。
あいつがいなければ、こういう面倒ごとに首を突っ込む覚悟も、多分まだ足りなかったからだ。
リンカは何も言わず、静かにカップを見つめていた。
けれどその横顔は、昨日より少しだけ柔らかく見えた。