王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
訓練場の熱気は、しばらく肌に残っていた。
兵士たちの声、木剣のぶつかる音、土を踏み込む足音。
その中心で旗槍を振るっていたジャンヌさんの姿は、正直、俺が想像していた聖女候補とはだいぶ違っていた。
もっと祈っている人だと思っていた。
白い衣を着て、静かに微笑んで、兵士たちを後ろから支えるような人。
けれど実際の彼女は、兵士と同じ場所で汗を流し、真正面から打ち合い、倒れた相手に手を差し伸べる人だった。
だからこそ、少しだけ引っかかった。
訓練の後、俺はジャンヌさんに案内される形で、軍事区画の奥にある礼拝堂の裏庭へ向かった。
石造りの礼拝堂は静かで、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに遠い。
裏庭には小さな泉があり、白い花が風に揺れている。
「申し訳ありません。騒がしい場所でのお話になってしまって」
「いや、むしろ見られてよかったです。ジャンヌさんがどういう人なのか、少し分かった気がします」
「私がどういう人か、ですか?」
ジャンヌさんは少し不思議そうに目を瞬かせた。
鎧を外した後でも、背筋はまっすぐだった。
ただ、聖女候補という言葉が出るたび、どこか肩に力が入る。
「少なくとも、ただ飾られているだけの人じゃないんだなって」
「それは……褒め言葉として受け取ってもよろしいのでしょうか」
「もちろんです。俺、飾られているだけの人より、ちゃんと自分で立っている人の方が好きなので」
言ってから、少しだけしまったと思った。
変な意味に聞こえていないといいんだけど。
ジャンヌさんは困ったように微笑む。
その顔に、さっき訓練場で兵士たちを押し返していた迫力はない。
「私は、戦うことならできます。兵と共に立つことも、前線で旗を掲げることも、怖いとは思いません」
「それは見ていて分かりました。正直、かなり強かったです」
「ありがとうございます。けれど……聖女として祭り上げられることとは、少し違う気がするのです」
声がそこで少しだけ落ちた。
俺はすぐに返事をせず、泉の水面を見た。
風で揺れた白い花びらが一枚、水に浮かんでいる。
「元々、別の候補がいたんですよね」
「はい。神殿では、ほぼその方で決まりだと言われていました。信仰も厚く、民からも慕われている方です」
「その人を下ろしてまで、自分が選ばれるのが引っかかっている」
ジャンヌさんの指が、膝の上で静かに握られた。
「……はい」
短い返事だった。
けれど、その一言に込められた重さは、決して短くなかった。
「私は戦場の人間です。手も、心も、綺麗なままではありません。兵を守るために敵を倒し、勝つために前へ出ることを選んできました」
彼女は自分の手を見る。
白く整った指なのに、訓練でできた小さな傷がいくつも残っていた。
「そんな私が、祈りの象徴として立つことが、本当に正しいのでしょうか。しかも、他の方の場所を奪ってまで」
俺はその言葉を聞きながら、ようやく分かった気がした。
ジャンヌさんは、聖女になりたくないだけじゃない。
必要とされているから断れない。
けれど、誰かを押しのける形になるから受け入れきれない。
その間で、ずっと立ち止まっている。
「ジャンヌさん」
「はい」
「もしかして、聖女になりたいかどうかより、求められているから応えなきゃいけないって思っていませんか?」
ジャンヌさんが、言葉を失った。
責めたつもりはない。
けれど、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
それでも、ここで誤魔化すと、たぶん彼女はまた同じ顔をする。
「誰かを守りたい気持ちと、誰かの期待を全部背負うことは、同じじゃないと思います」
「同じでは、ない……」
「兵士たちを守りたいなら、それはジャンヌさんの本心だと思います。でも、だからって聖女にならなきゃいけないかは、別の話じゃないですか」
ジャンヌさんは、ゆっくりと視線を落とした。
強く握られていた指が、少しだけ緩む。
「私は……期待されることが、怖いのかもしれません」
その声は小さかった。
戦場で声を張る彼女とは別人みたいに、静かだった。
「期待に応えられなかった時、失望されることが怖い。けれど、応えようとすれば、誰かの場所を奪ってしまう。それも、怖いのです」
「怖いなら、怖いって言っていいと思います」
「それは、許されるのでしょうか」
「少なくとも俺は、許されていいと思います」
そう言うと、ジャンヌさんは少しだけ目を丸くした。
「王子であるあなたが、そのようなことを仰るのですね」
「王子だからって、何でも立派に言えるわけじゃないですよ。俺なんて、毎回アーサーやココに振り回されてますし」
「ふふ……それは少し、想像できます」
初めて、彼女の笑い方が少し柔らかくなった。
聖女としての微笑みではなく、ジャンヌさん本人の笑い方に見えた。
それだけで、俺は少し安心する。
「ヤマタ様」
「はい」
「もしよろしければ、またお話を聞いていただけますか。私はまだ、自分の気持ちをうまく言葉にできそうにありません」
「俺でよければ、いつでも」
軽く答えると、ジャンヌさんは胸の前で手を重ね、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたと話していると、私は聖女候補ではなく、ただのジャンヌとして立っていてもよいのだと思えます」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
聖女候補。
ヨルムン兄さんの婚約者。
軍の象徴。
いくつも名前を乗せられている彼女が、ほんの少しだけ、自分自身の場所へ戻れたのなら。
今日ここに来た意味は、ちゃんとあったのかもしれない。
遠くで訓練場の声がまた響いた。
ジャンヌさんはそちらへ目を向ける。
その横顔はまだ迷っている。
けれど、さっきより苦しそうではなかった。