王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
礼拝堂の裏庭には、昼の熱が少しだけ残っていた。
訓練場から離れているのに、まだ耳の奥には兵士たちの声が残っている。
木剣がぶつかる音、土を踏む足音、ヨルムン兄さんの豪快な笑い声。
その全部が遠くなった場所で、ジャンヌさんは泉のそばに立っていた。
白い花が風に揺れる。
鎧を外した彼女は、さっきよりずっと静かに見えた。
それでも背筋は伸びていて、どこか戦場の空気を残している。
「ヤマタ様」
先に声をかけてきたのはジャンヌさんだった。
「先ほどは、失礼いたしました。私のことで場を乱してしまって」
「いや、俺が余計なことを聞いたんです。謝るならこっちですよ」
そう返すと、ジャンヌさんは少しだけ目を伏せた。
「余計なこと、ではありませんでした」
声は静かだった。
けれど、言葉を選ぶ間がいつもより長い。
俺は泉の縁に腰を下ろし、少しだけ距離を取った。
無理に近づくと、彼女はまた聖女候補の顔に戻ってしまう気がした。
「訓練、すごかったですね」
「戦うことには慣れています。兵と共に前へ出ることなら、迷いはありません」
「それは分かりました。正直、俺が想像していた聖女候補とは全然違いましたけど」
「……やはり、そう見えますか」
ジャンヌさんは困ったように微笑む。
その笑みは、周囲に向ける整ったものではなく、少しだけ自分を持て余している顔だった。
「私は、祈りだけで人を救える者ではありません。旗を持ち、前へ出て、敵を倒してきました。手も心も、綺麗なままではないのです」
「それでも、兵士たちはジャンヌさんを慕ってましたよ」
「はい。それが……怖いのです」
思いがけない言葉だった。
ジャンヌさんは自分の手を見つめる。
白い指には、訓練でできた細かな傷が残っていた。
「必要とされるのは、ありがたいことです。兵たちが私を信じてくれるなら、応えたいと思います。ですが、それが聖女という形になると、胸の奥が詰まるのです」
「元々の候補の人がいるからですか」
「それもあります」
ジャンヌさんの指が、ゆっくり握られる。
「あの方は、民に慕われ、神殿でも長く祈りを捧げてきた方です。本来ならば、その方が選ばれるはずでした。なのに、私がヨルムン様の婚約者であり、軍に支持されているという理由で、席を奪う形になる」
言葉の端に、押し殺した苦さが滲んでいた。
「私が選ばれれば、兵たちは喜ぶでしょう。ヨルムン様を推す者たちも、王位争奪戦に有利だと言うでしょう。けれど、それは正しいのでしょうか」
風が止んだ。
泉の水面だけが、小さく震えている。
「ジャンヌさん」
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「聖女になりたくないんですか?」
ジャンヌさんはすぐに答えなかった。
その沈黙が、答えそのものみたいだった。
「分かりません」
やがて落ちた声は、思ったより弱かった。
「なりたいわけではない。ですが、皆が必要としていることは分かります。求められたなら、応えなければならないと思っていました」
「それ、もしかして」
俺は彼女の横顔を見る。
「聖女になりたいかどうかより、断ったら誰かを裏切ることになるって思ってませんか」
ジャンヌさんの瞳が揺れた。
言いすぎたかもしれない。
けれど、今の彼女は自分の胸の内を、きっとまだ掴みきれていない。
「誰かを守りたい気持ちと、誰かの期待を全部背負うことは、同じじゃないと思います」
「同じでは、ない……」
「兵を守りたいなら、それは本物だと思います。でも、だからって聖女にならなきゃいけない理由にはならない。少なくとも、誰かを押しのけて苦しいなら、苦しいって言っていいんじゃないですか」
ジャンヌさんは何も言わなかった。
ただ、強く握られていた指が、少しずつ緩んでいく。
「私は……必要とされることが怖いのかもしれません」
小さな声だった。
「期待されることも、失望されることも。どちらも怖いのです」
「怖いなら、怖いって言っていいと思います」
「それは、許されるのでしょうか」
「俺は許されていいと思います。聖女候補でも、戦場の英雄でも、その前にジャンヌさん本人なんですから」
ジャンヌさんはゆっくり顔を上げた。
その目に涙はない。
けれど、張り詰めていた何かがほどけたように、呼吸が少しだけ深くなる。
「あなたは、本当に不思議な方ですね」
「最近、そればっかり言われます」
「けれど、今はその不思議さに救われています」
そう言って、ジャンヌさんは初めて柔らかく笑った。
聖女としての微笑みではなく、ただのジャンヌさんとしての笑い方に見えた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「ヤマタ様」
「はい」
「もしよろしければ、またお話を聞いていただけますか。私はまだ、自分の気持ちをうまく言葉にできそうにありません」
「俺でよければ、いつでも」
軽く返すと、ジャンヌさんは小さく頷いた。
その仕草は礼儀正しかったが、さっきより少しだけ近い。
「ありがとうございます。あなたと話していると、私は聖女候補ではなく、ただの私でいてもよいのだと思えます」
遠くで訓練場の声が響く。
ジャンヌさんはそちらを見たあと、もう一度こちらを向いた。
その視線はまだ迷っている。
けれど、その奥にあった苦しさは、ほんの少し薄れていた。
俺はそれを見て、今日ここで言葉を交わせてよかったと思った。