王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
礼拝堂の扉を出ると、夕方の光が石畳の上に薄く伸びていた。
エレナさんは、俺の前で深く頭を下げる。
その仕草は丁寧だったけれど、さっきまで無理に浮かべていた笑みとは違って、少しだけ呼吸が楽になったように見えた。
「ヤマタ殿下。本当に、ありがとうございました」
「俺は思ったことを言っただけです。エレナさんが納得しないまま降ろされるのは、やっぱり変だと思ったので」
「その“変だ”という言葉に、救われる者もいるのですね」
そう言われると、少しだけ照れくさい。
俺が困って頭をかくと、エレナさんは小さく笑って、神官たちの後を追うように礼拝堂の奥へ戻っていった。
その背中を見送るジャンヌさんは、しばらく何も言わなかった。
胸元に添えた手だけが、ゆっくりと動いている。
戦場で旗を掲げる時とは違う、静かな迷いがそこにあった。
「ヤマタ様」
「はい」
「あなたは、誰かを助ける時に、ご自分の正しさを掲げないのですね」
「そんな立派なものじゃないですよ。俺はただ、後味が悪くなりそうなことを放っておけないだけです」
「……それでも、誰かにとっては十分なのだと思います」
その声は柔らかかった。
けれど、そこへヨルムン兄さんの大きな声が割り込んでくる。
「随分と静かな顔になったじゃねぇか、ジャンヌ」
振り向くと、訓練場脇の柵にもたれたヨルムン兄さんが、面白そうにこちらを見ていた。
いつからいたのかは聞かない方がいい。聞いたら余計に疲れそうだ。
「ヨルムン様」
「ヤマタのことを考えてたな」
「……そのようなことは」
「戦場で敵を見る目と、今の目は違う。俺でも分かる」
ジャンヌさんは、少しだけ視線を落とした。
否定しきれない沈黙が、夕方の空気に混じる。
「私は、ただ……あの方の言葉を考えていただけです」
「言葉だけか?」
「……分かりません」
ヨルムン兄さんは、そこで豪快に笑った。
笑い声は相変わらず大きいのに、不思議と押しつけがましさはない。
「分からねぇなら、見に行けばいい。戦いも恋も、遠くから眺めてるだけじゃ勝てねぇぞ」
「恋、などと軽々しく仰らないでください」
「軽くは言ってねぇよ。お前が自分で選ぶなら、俺は止めん」
ジャンヌさんは目を上げる。
その横顔に、安堵とも戸惑いともつかない色が滲んだ。
「私は、ヨルムン様の婚約者です」
「形だけだろ。俺はお前を戦士として気に入ってる。縛りたいわけじゃねぇ」
「……あなたは、いつもそういうことを簡単に仰います」
「簡単だからな。お前が本気でヤマタを選ぶなら、それも戦いの結果だ」
何を勝手に戦いにしているんだ、と俺は言いたかった。
けれど、その言葉を飲み込む。
ジャンヌさんが、さっきよりもずっと真剣な顔で俺を見ていたからだ。
やがて、訓練場の片付けが終わり、兵士たちの声も遠くなった。
俺とジャンヌさんは、城壁へ続く石段をゆっくり歩いた。
夕暮れの風が、昼間の熱を少しずつさらっていく。
「先ほどのこと、怖くはありませんでしたか」
隣を歩くジャンヌさんが、静かに尋ねる。
「怖かったですよ。神官と軍の代表相手に、あんなことを言うのは普通に怖いです。後でアーサーに怒られる気もします」
「それでも、言ってくださったのですね」
「言わなかったら、もっと後悔しそうだったので」
ジャンヌさんは足を止めた。
城壁の上から見える訓練場は、もう橙色に染まっている。
「あなたは、強い方なのですね」
「いや、俺は強くないです。強いのはジャンヌさんですよ。俺だったら、あんな風に期待を背負って立てない」
「私は、立てているのでしょうか」
「少なくとも、立とうとしているのは分かります。でも、立ち続けるために誰かに寄りかかるのは、悪いことじゃないと思います」
「寄りかかる……」
ジャンヌさんは、自分の手を見下ろした。
旗を握り、剣を受け、兵を支えてきた手。
その手が今は、何かを探すようにわずかに揺れている。
「兵士たちを守る人だって、誰かに支えられていいと思うんです」
言葉にすると、少し気恥ずかしかった。
けれど、ジャンヌさんは笑わなかった。
「ヤマタ様」
「はい」
「私は、これまで必要とされる場所に立つことが正しいのだと思っていました」
「それは、間違いじゃないと思います」
「ですが、それだけでは苦しくなるのですね」
「そういう時は、少し休んでもいいんじゃないですか」
「休む場所が、分からなかったのです」
返す言葉を探して、俺は少し黙った。
格好いい台詞なんて、こういう時に限って出てこない。
「俺の隣でよければ、少しくらいなら空いてますよ」
言ってから、変なことを言った気がして目を逸らす。
「……それは、随分と優しい言葉ですね」
「格好つけたつもりはないんですけど」
「だからこそ、届くのだと思います」
ジャンヌさんは一歩だけ近づいた。
肩が触れるほど近い。
それでも、強引さはなかった。
「少しだけ、寄り添ってもよろしいでしょうか」
「えっ」
「駄目、でしょうか」
「いや、駄目じゃないですけど……俺でいいんですか」
「はい。あなたがいいのです」
その言葉に、胸の奥が変なふうに跳ねた。
ジャンヌさんの肩が、静かに俺の肩へ触れる。
鎧の重さはない。
ただ、一人の女性が、迷いながらも自分から距離を詰めてきた温度だけがあった。
「今だけは、聖女候補でも、ヨルムン様の婚約者でもなく、ただのジャンヌでいたいのです」
「……それなら、今はそれでいいと思います」
ジャンヌさんは目を伏せた。
夕日の色が、その頬にほんのりと乗っている。
遠くから、ヨルムン兄さんの笑い声が聞こえた。
「ははっ。始まったな」
「見ていたんですか」
リンカの冷たい声も続く。
「見える場所にいたのが悪い」
「最低です」
「だが、いい戦いになってきた」
俺は聞こえないふりをした。
ジャンヌさんも、たぶん気づいていない。
ただ、隣に寄り添ったまま、静かに夕暮れを見ている。
その横顔はまだ迷っているけれど、もう自分の気持ちから目を逸らしてはいなかった。