王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
夜の王城は、昼間よりもずっと広く感じる。
廊下を歩く足音は遠く、窓の外では風が庭木を揺らしていた。
机に広げていた書類を片づけようとした時、扉が控えめに叩かれる。
こんな時間に来る相手なら、だいたい予想はつく。
アーサーか、ココか、あるいはリンカあたりだろうと思って扉を開けた。
そこに立っていたのは、ジャンヌさんだった。
鎧ではなく、淡い色の落ち着いた服を着ている。
訓練場で見た時の鋭さは薄れていたが、背筋は変わらずまっすぐだった。
ただ、胸の前で重ねた指先だけが、ほんの少し強く握られている。
「ジャンヌさん? こんな時間にどうしたんですか」
「少しだけ、お話をしてもよろしいでしょうか」
声は静かだった。
けれど、その奥に硬さがある。
「もちろんです。入ってください」
俺が横へ避けると、ジャンヌさんは小さく頭を下げて部屋へ入った。
すぐには奥へ進まず、扉の近くで一度だけ呼吸を整える。
戦場なら迷わず前へ出る人が、俺の部屋の敷居を越えたあとで立ち止まっている。
その姿が、妙に胸に残った。
「座りますか?」
「いえ、少しだけ、このままで」
ジャンヌさんは部屋の中央に立ったまま、ゆっくり口を開いた。
「私は、ヨルムン様に自分の気持ちを伝えようと思います」
「ジャンヌさんの気持ち、ですか」
「はい。聖女として担がれることも、婚約者として扱われることも、これまでは受け入れるべきだと思っていました」
俺は黙って聞いた。
急かす言葉は、今は邪魔になりそうだった。
「けれど、今は違うというより……初めて、自分がどうしたいのかを考えようとしているのだと思います」
ジャンヌさんの声は揺れていない。
でも、揺れないようにしているのは分かった。
「怖いですか」
そう聞くと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「はい」
短い返事だった。
「戦場へ出ることよりも、誰かの期待を断ることの方が、ずっと怖いのです」
その言葉は、重かった。
たぶん、ジャンヌさんにとって敵の刃より厄介なのは、味方の祈りや信頼なのだろう。
俺は少し考えてから、なるべく軽く言った。
「怖いなら、怖いままでいいと思います」
「怖いままで、よいのですか」
「怖くなくなってから動こうとしたら、多分ずっと動けないですから」
ジャンヌさんは目を上げる。
真面目な顔でこちらを見るから、少し落ち着かなくなる。
「あなたは、簡単に難しいことを仰いますね」
「俺も内心では、結構びびってますよ」
「そうなのですか」
「神官とか軍部とか、ああいう人たち相手に口を出したあと、毎回ちゃんと後悔してます」
少しだけ、ジャンヌさんの表情が緩んだ。
それは大きな笑みではない。
けれど、張りつめていた糸がわずかにほどけるような変化だった。
「ヤマタ様は、不思議な方ですね」
「それ、もう何回も聞きました」
「ですが、今はその不思議さに助けられています」
そう言われると、返す言葉に迷う。
俺は視線を外し、部屋の端にあるベッドを軽く指した。
「無理に立ってなくても大丈夫ですよ。そこ、座ってください」
「よろしいのですか」
「俺の部屋ですけど、別に玉座じゃないですし」
ジャンヌさんは、ふっと息を漏らした。
「ふふ……そういうところが、あなたらしいですね」
少し迷ったあと、彼女はベッドの端に腰を下ろした。
背筋はまだ伸びている。
けれど、さっきまでの緊張は少しだけ薄れていた。
俺も間を置いて、彼女の横へ座る。
近い。
肩は触れそうで、触れない。
ジャンヌさんは前を向いたまま、小さく言った。
「今だけは、少しだけ休ませてください」
「はい。今はそれでいいと思います」
「……ありがとうございます、ヤマタ様」
その声は、礼儀としての感謝とは少し違っていた。
やがて、ジャンヌさんの身体がほんの少しだけこちらへ寄る。
遠慮がちで、慣れていない動きだった。
それでも、自分から選んだ距離なのは分かった。
俺は何も言わない。
下手に言葉を足すと、この静けさを壊してしまいそうだった。
夜風が窓を小さく鳴らす。
今この部屋にいる彼女は、聖女候補でも、ヨルムン兄さんの婚約者でもない。
旗を掲げる戦士でも、兵たちの希望でもない。
ただ、これから自分の言葉で立とうとしている一人の女性だった。
そしてその人は、今、俺の横に並んで座っている。