王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
夜の廊下は、昼よりもずっと音が少なかった。
扉を叩く音がした時、俺は書類から顔を上げた。アーサーなら勝手に入ってきそうだし、ココならもう少し楽しげに声をかける。リンカなら、そもそも気配を消しすぎて心臓に悪い。
だから扉を開けた先にモモさんが立っていた時、少しだけ息が止まった。
外套を羽織り、腰には剣がある。けれど、演習場で見た将軍の圧は薄く、指先だけが布の端を静かに握っていた。
「モモさん。こんな時間にどうしたんですか」
「少し、話がしたい。将軍としてではなく、私自身の話だ」
その言葉で、すぐに横へ退いた。
「入ってください」
モモさんは一歩入ってから、扉の近くで足を止めた。部屋の中を見渡す動きは落ち着いているのに、呼吸だけがわずかに浅い。やがて腰の剣を外し、椅子の背へそっと掛ける。
金属の触れる音が、小さく響いた。
「……邪魔ではないか」
「邪魔なら、こんなに緊張してません」
「それは、安心していいのか?」
「たぶん、俺もよく分かってないです」
返すと、モモさんの口元が少しだけ緩んだ。普段の鋭さは残っている。けれど、そこに混じる硬さは、戦場のものとは違った。
「無理しなくていいですよ」
俺が言うと、モモさんはすぐに顔を上げる。
「私は自分でここへ来た」
「それは分かっています」
「なら」
「来たことを疑ってるんじゃないです。ただ、怖いなら怖いままでいいと思っただけです」
モモさんは黙った。
強い言葉を返そうとして、喉元で止めたように見えた。
「君は、また嫌なところを見る」
「すみません。でも、見ないふりはしたくないので」
「戦場で敵を前にしても、これほど緊張したことはない」
「俺も、かなり緊張してます」
「君もか」
「当たり前じゃないですか。モモさんが真剣に来てくれたのに、軽く扱えるわけないです」
外の風が窓を鳴らした。
部屋の灯りが、モモさんの横顔を柔らかく照らす。将軍としての顔ではない。誰かに見せるために整えた表情でもない。迷いながら、それでもここに立っている顔だった。
「私は、強い女として見られることには慣れている」
「はい」
「だが、君の前では強いままでいられない」
「強いままじゃなくてもいいと思います」
「……それを言われると、困る」
「困りますか」
「縋りたくなる」
その言葉は、思っていたより静かだった。
なのに、胸の奥へまっすぐ届いた。
俺はベッドの端を示す。
「立ったままだと疲れるでしょう。座りませんか」
モモさんは少し迷い、それからゆっくり腰を下ろした。背筋はまだ伸びている。けれど、剣を置いたせいか、肩の力はさっきより抜けていた。
俺はすぐ隣へ行かず、一歩分だけ間を空ける。
「隣、いいですか」
モモさんは俺を見た。
赤みを帯びた頬を隠すように、少しだけ視線を逸らす。
「君がいい」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
横に座ると、肩が触れそうで触れない距離になる。モモさんの手が布の上で握られ、ほどける。俺は急かさず、その手の近くに自分の手を置いた。
しばらくして、モモさんの指が重なった。
「今夜だけは、将軍ではなく、ただのモモでいたい」
「はい。今はそれでいいと思います」
「君は、本当に危険だな」
「何もしてないんですけど」
「だからだ」
モモさんは小さく息を吐き、ほんの少しだけこちらへ身を寄せた。
その重みは軽いのに、預けられたものはきっと軽くない。
俺は握られた手を、そっと握り返す。
言葉はもう増やさなかった。
この静けさの先へ進むかどうかは、急いで決めるものではない。けれど、隣にいる温度だけは確かで、モモさんもそれを拒まなかった。
灯りが揺れる。
剣は椅子の背に置かれたまま、夜の中で静かに沈んでいた。