王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ差し込んでいた。
百が最初に見たのは、隣にいるヤマタではなかった。
椅子の背に掛けられた、自分の剣だった。
昨夜、自分の手で外したもの。
戦場で何度も握り、公爵家当主代理としての自分を支えてきたもの。
それが今は、静かに椅子へ置かれている。
それを見た瞬間、百は自分が昨夜、将軍ではなかったことを改めて理解した。
強い女として立っていたわけではない。
誰かに求められる価値を示していたわけでもない。
ただ、ヤマタの隣で、モモ・サイガとして息をしていた。
「……おはようございます、百さん」
少し離れた場所から声がした。
ヤマタは起きていたらしい。こちらへ視線を向けているが、どう声をかければいいのか迷っている顔だった。
「ああ。おはよう、ヤマタ殿下」
「その呼び方に戻るんですね」
百は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……戻した方がいいかと思った」
「俺は、どちらでも。百さんが楽な方でいいです」
「君は、そういうところで逃げ道を作る」
「逃げ道は、あった方が安心しませんか」
責めるように言ったつもりだったのに、返ってきた言葉は穏やかだった。
百は視線を落とし、少しだけ息を吐く。
「困るな。そう言われると、また休みたくなる」
「休んでいいんじゃないですか。まだ朝ですし」
「君は本当に、私を甘やかすのが上手い」
「甘やかしてるつもりはないんですけど」
「だから厄介なのだ」
百は椅子の近くへ歩いた。
剣へ手を伸ばしかけ、けれどすぐには触れない。
剣を取れば、いつもの自分に戻れる。
帝国将軍として、誰よりも強く立つ自分へ。
だが、今だけは、その自分に戻るのが惜しかった。
「昨夜のことを、後悔はしていない」
言葉にすると、胸の奥が少し熱くなる。
「私は、自分の意思でここへ来た」
「分かっています」
「だが、こうして朝を迎えると、少し不思議だ」
「不思議、ですか」
「ああ。私はいつも、朝になれば将軍に戻っていた。剣を取り、身支度を整え、誰かの前に立つ。それが当然だった」
百は剣から目を離し、ヤマタを見る。
「だが今は、もう少しだけ戻らずにいたいと思ってしまった」
ヤマタは笑わなかった。
茶化しもしない。ただ、その言葉を軽く扱わないように、静かに頷いた。
「それなら、もう少しだけ座っていてもいいんじゃないですか」
「……そうやって、また逃げ道を作る」
「嫌ですか?」
「嫌ではない。だから困る」
その時、扉が軽く叩かれた。
ヤマタが返事をする前に、扉が開く。
「おはよう、ヤマタ君。おはよう、モモちゃん。よく眠れた?」
入ってきたのはアーサーだった。
手には茶器と軽い朝食が乗った籠。最初からここへ来るつもりだったように、あまりにも自然な顔をしている。
「アーサー!? 入る前に返事を待とう!?」
「待ったら面白いものを見逃すかもしれないでしょ?」
「その発想がまずおかしい」
百は即座に表情を引き締める。
しかし、剣はまだ椅子の背に掛けられたままだ。
「アーサー。貴様、最初から知っていたな」
「もちろん。モモちゃんがあんな顔でヤマタ君の部屋へ向かうのを、私が見逃すわけないじゃない」
「斬るぞ」
「剣、まだ椅子の上だよ?」
「……」
「煽らないでくれ、頼むから」
ヤマタが頭を抱える。
アーサーは楽しそうに笑いながら、勝手にテーブルへ茶器を並べ始めた。
「でも、よかったね。モモちゃん」
「何がだ」
「ちゃんと休めたでしょ。ヤマタ君の隣で」
百は返事をしなかった。
否定しようと思えばできた。
しかし、できなかった。
昨夜、確かに自分は休めた。
強い側でいなければならない自分ではなく、ただの百として、ヤマタの隣にいられた。
アーサーはその沈黙を見て、少しだけ笑みを柔らかくする。
「親友としては嬉しいよ。モモちゃんが、ようやく誰かの前で肩の力を抜けたんだから」
「アーサー……」
「ただし」
ヤマタが嫌な予感を覚えたように顔を上げる。
「ただし?」
「ヤマタ君を独り占めは駄目だよ?」
空気が一瞬で変わった。
アーサーは微笑んでいる。
だが、その笑みはただの祝福ではない。
「だって私は正式婚約者だからねぇ。そこは譲らないよ、モモちゃん」
「……そう来るか」
「親友としては祝福する。でも、ヤマタ君の隣を全部あげるとは言ってない」
「親友として祝福し、婚約者として牽制する。器用な女だ」
「それが私のいいところでしょ?」
「悪いところでもある」
「俺の前でそういう話を進めないでほしい」
ヤマタの声には、すでに疲れが滲んでいた。
百は椅子の剣へ手を伸ばす。
今度は迷わず、それを取った。
鞘の重みが手に戻る。
自分が将軍へ戻る感覚も、同時に戻ってくる。
けれど、昨日までとは違う。
戻る場所は一つではなくなった。
立ち続ける場所だけではなく、休める場所もできてしまった。
「私は将軍に戻る」
「はい」
「だが、君の隣で休めることを知ってしまった」
アーサーが喉の奥で笑う。
「ふふっ。モモちゃん、かなり重症だねぇ」
「黙れ」
「でも、いいんじゃない? 強いモモちゃんも、休んでるモモちゃんも、私は好きだよ」
百は言葉を失いかけた。
この女は、そういうことを何の躊躇もなく言う。
「……そういうことを、平然と言うな」
「親友だからね」
「なら親友として一つ忠告する」
「何?」
百は剣を腰へ戻し、アーサーをまっすぐ見た。
「私も、君に遠慮するつもりはない」
アーサーの笑みが深くなる。
「いいよ。そういうモモちゃんの方が面白い」
「二人とも、何でそこで楽しそうなんですか」
ヤマタが胃の辺りを押さえる。
「俺、今後どうすればいいんだ……?」
「愛される覚悟を決めればいいんじゃない?」
「同感だ」
「二人で組まないでください」
百は思わず、少しだけ笑った。
それは将軍としての笑みではない。
敵を見定めるものでも、貴族として整えたものでもない。
朝の光の中で、ただ自然に零れた笑みだった。
アーサーはそれを見て満足そうに目を細める。
ヤマタはまだ困った顔をしている。
それでも、三人の間には新しい距離が生まれていた。
アーサーは正式婚約者として譲らない。
百は親友でありながら、ヤマタの隣に立つことを選んだ。
ヤマタはその二人に挟まれ、王位争奪戦とは別の意味で逃げ道を失いつつあった。