王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
ララさんが帰ったあとも、談話室には小さな嵐の跡が残っていた。
机の上には、まだ紙が何枚か散っている。カップの位置も微妙にずれていたし、リンカの短剣はいつもより少しだけ手元に近い場所へ戻されていた。百さんに至っては、腰の剣へ何度も視線を落としている。
あの自動お手伝いくんとやらが、よほど許せなかったらしい。
「次に来た時は、起動前に私が確認する」
「百さん、本当に保護者みたいになってますね」
「誰が保護者だ」
即座に返ってきた声は鋭かったが、いつものように斬り捨てる感じではなかった。ララさんの勢いに振り回されたせいか、百さんの表情にはわずかに疲れが残っている。
それでも、不思議と嫌そうではない。
窓の外では、夕暮れが庭園の葉を赤く染めていた。さっきララさんが飛び込んできた窓も、今は固く閉められている。リンカが無言で鍵まで確認したせいで、次に来た時のララさんがどこから現れるのか、逆に少し怖くなった。
「ヤマタ君」
アーサーが紅茶を置いた。
その音だけで、部屋の空気が少し変わる。軽いはずの音なのに、妙に重かった。
「ズヌイが動き始めたよ」
「……え、もうですか?」
「うん。早いねぇ」
アーサーは楽しそうに笑っている。けれど、その目はさっきまでの悪戯っぽいものとは違っていた。盤面の向こう側を見ている時の顔だ。
ココさんがソファの背に腕を預け、愉快そうに目を細める。
「さすが商売人。損の匂いには敏感だね」
「ララ王女の変化を見逃さなかったか」
百さんが静かに言う。
俺はララさんが去り際に見せた笑顔を思い出した。発明品を抱えて、また来るね、と手を振っていた。あの明るさは、確かに隠せるものではない。
「ララさん、大丈夫なんですか?」
「本人は大丈夫って顔してたよ。まあ、ララちゃんは隠し事があんまり得意じゃないから」
「そこを分かってて帰したんですか」
「もちろん」
「もちろんじゃないです」
俺がため息をつくと、アーサーは楽しげに肩を揺らした。
「でも、ズヌイが最初に疑ったのは私だよ。ヤマタ君の名前までは、まだ出してない」
「出してない?」
「うん。アーサーが関わっている。そこまでは掴ませてる」
百さんの眉がわずかに動いた。
「ズヌイの目を君に向けさせ、ヤマタを隠すつもりか」
「正解。さすがモモちゃん」
「褒めるな。悪辣さを確認しただけだ」
「それも褒め言葉に聞こえるなぁ」
リンカが短く呟く。
「敵に回したくない」
「同感だ」
百さんが即答した。
俺も心の中では全力で同意していた。アーサーの恐ろしいところは、人を助ける時でさえ、同時に誰かへ最大効率の一撃を入れる準備をしているところだ。善意と悪意が、同じティーカップの中で平然と混ざっている。
「ズヌイ兄さんは、どこまで気づいたんですか?」
「ララちゃんが誰かと会ったこと。そこに私の手が入っていること。あと、情報が妙に抜けていること」
「抜けている?」
「肝心の相手の名前がない。どこで、誰と、何をしたのか。周辺の噂は拾えるのに、中心だけ空白」
アーサーは指先でテーブルを軽く叩いた。
「ズヌイなら気づくよ。これは誰かが抜いた情報だって」
「それを分かっててやったんですね」
「分かっててやったんだよ」
悪びれない声だった。
窓の外で、夕日が沈み始める。赤い光がアーサーの横顔を照らし、その笑みの輪郭を濃くした。
俺は喉の奥に引っかかったものを飲み込む。
「ララさんの気持ちを、爆弾みたいに扱うのは嫌です」
声にすると、部屋が一瞬だけ静かになった。
アーサーは笑みを消さない。
ただ、紅茶のカップを持ち上げた手が、ほんの少しだけ止まった。
「爆弾にしてるつもりはないよ。ララちゃんが自分で選ぶ瞬間を、一番効果的な場所に置くだけ」
「それを爆弾って言うんじゃないですか」
「かもね」
「かもね、じゃなくて」
言い返そうとした俺の横で、百さんが静かに口を開いた。
「ヤマタ。アーサーのやり方は危うい。だが、ズヌイ相手に正面から善意だけを差し出せば、ララ王女ごと買い叩かれる」
「……」
「君がララ王女本人を見るなら、誰かが盤面も見なければならない」
百さんの声は冷たくない。
むしろ、そっと刃を鞘に戻すような響きだった。
俺は返事を探した。けれど、うまく見つからない。
ララさんは、保険じゃない。
ズヌイ兄さんの逃げ道でも、デビルークの外交カードでもない。彼女は、失敗した発明品を抱えて少し落ち込み、次の話をしたらぱっと笑った女の子だ。
でも、その彼女を守るには、ただ手を伸ばすだけでは足りないのかもしれない。
ココさんがくすりと笑う。
「だから面白いんだよねぇ、この陣営。ヤマタ君が人を見る。アーサーちゃんが盤を見る。モモちゃんが危険を測る。リンカちゃんが刃を構える」
「私は?」
「私は儲けを考える」
「ブレないですね」
「商人だからね」
軽い会話で空気が少し戻った。
けれど、胸の奥の重さは消えない。
たぶん、同じ頃。
ズヌイ兄さんは、自分の部屋で集めた情報を眺めていたのだと思う。アーサーがそう言っていた。商会筋から入った断片。庭園で見かけられたデビルーク第一王女。妙に楽しそうだったララさん。アーサーの侍女筋が動いていたという噂。
けれど、肝心の名前だけがない。
誰と会ったのか。
何を話したのか。
どうして、あんな顔で帰ってきたのか。
そこだけが、綺麗に抜け落ちている。
アーサーが聞かせてくれた話の中で、ズヌイ兄さんは怒鳴らなかったらしい。ララさんを問い詰めもしなかった。ただ、薄く笑って、こう言ったという。
「アーサー。お前、俺の逃げ道に手ぇ突っ込んできやがったな」
その場にいたわけでもないのに、その声が聞こえた気がした。
ズヌイ兄さんは、怒るより先に損益を計算する。
奪われたものの値段を測り、取り返す価値があるかどうかを見る。そういう人だ。
そしてララさんは、その値札の向こう側で笑っていた。
俺は拳を握った。強く握ったつもりなのに、指先は少し頼りなかった。
「ヤマタ君」
アーサーが俺を見る。
「怖い?」
「怖いですよ」
素直に言うと、アーサーは少しだけ目を細めた。
「でも、止めないんだ」
「ララさんが本当に嫌なら止めます。でも、ララさんが自分で楽しい方へ行きたいなら、俺が勝手に引き戻すのも違うと思います」
「うん。そう言うと思った」
「また分かってて聞きましたね」
「確認したかっただけ」
百さんが俺の隣に立ったまま、少しだけこちらを見る。
「危ういな」
「自覚はあります」
「なら、支える側も必要だ」
短い言葉だった。
けれど、それだけで、肩に乗っていた重さが少しだけ位置を変えた。
ララさんの笑顔。
ズヌイ兄さんの薄い笑み。
アーサーの盤面。
百さんの静かな視線。
夕暮れの赤はいつの間にか薄れ、窓の外には夜の青が落ち始めていた。色が変わる境目は、いつも静かだ。気づいた時には、もう世界の見え方が少し変わっている。
ララさんはまだ、ズヌイ兄さんの婚約者だ。
けれど、その足元の線は、もう少しずつ滲み始めている。
誰かが水を落としたみたいに。
あるいは、誰かが意図して、境界をぼかしたみたいに。
ズヌイ兄さんは、まだ本当の相手を知らない。
けれど、気づき始めている。
自分の保険が、もうただの保険ではなくなっていることに。
そして俺は、また胃の痛くなる予感を抱えながら、それでもララさんが次に来た時のために、窓の鍵だけは開けやすくしておこうと思ってしまった。