王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
その日の空は、妙に白かった。
晴れているのに、陽射しだけが薄い。雲はないのに、どこか膜を張ったような光が王城の回廊に落ちていた。庭園の葉も、石畳も、いつもより色を失って見える。
こういう日は、だいたい何かが起きる。
俺の経験則は、残念ながらよく当たる。
「ヤマタ君、顔がもう胃痛だよ」
談話室に戻ってきたアーサーが、開口一番そんなことを言った。
「まだ何も聞いてません」
「じゃあ、今から聞いたらもっと痛くなるね」
「聞きたくないです」
「でも聞くでしょ?」
「聞きますけど」
俺が椅子の背もたれに沈むと、アーサーは向かいに腰を下ろした。百さんは俺の隣に立ったまま、腕を組んでいる。ココさんはソファで脚を組み、リンカは壁際でいつものように影のように佇んでいた。
アーサーの手には、まだ外の冷たさが残っているように見えた。指先がカップに触れる前、ほんの少しだけ止まる。
「ズヌイ君に会ったよ」
思わず、背筋が伸びた。
「向こうからですか?」
「うん。偶然を装ってね。王城の渡り廊下で、ちょうど私が通る時間に、ちょうどズヌイ君がいた」
「それは偶然じゃないですね」
「もちろん」
アーサーは紅茶を一口飲む。何でもない顔をしているのに、唇の端だけがわずかに上がっていた。
「何を話したんですか」
「ララちゃんのこと」
百さんの目が細くなる。
「早いな」
「早いよ。さすが商人。自分の帳簿に見覚えのない数字が一つ混ざっただけで気づく」
アーサーは楽しそうに言う。
それから、まるで芝居の台詞をなぞるみたいに、その時の会話を再現してくれた。
ズヌイ兄さんは、まずこう言ったらしい。
「よう、アーサー。最近、ずいぶん楽しそうじゃねぇか」
アーサーは笑って返した。
「私はいつも楽しいよ。ズヌイ君こそ、少し顔が商談中みたいだね」
「商談中じゃねぇ。損益確認中だ」
「へぇ。何か損でもした?」
「まだ損とは決まってねぇ。ただ、俺の持ち物が少しばかり妙な動きをしてる」
その言い方で、俺は思わず眉を寄せた。
持ち物。
たった一言なのに、胸の奥に砂を噛んだような感触が広がる。
アーサーはそこで、少しだけ声を低くして続けた。
「持ち物?」
「婚約者、と言い換えた方が綺麗か?」
「ララちゃんは物じゃないよ?」
「お前がそれを言うのか」
「私だから言うんだよ」
そこでズヌイ兄さんは、少し黙ったらしい。
その沈黙が、妙に想像できた。笑っている顔のまま、目だけで値段を測るような沈黙。あの人は、怒鳴るより先に計算する。相手の言葉がどこから来たのか、どこへ向かうのか、頭の中で線を引く。
「ズヌイ君、かなり引っかかってたよ」
アーサーは指先でカップの縁をなぞる。
「ララちゃんを物じゃないって言ったことに、ですか?」
「うん。あれで、私がララちゃん本人の意思に触れてるかもしれないって気づいた」
「……わざとですよね」
「もちろん」
軽い声だった。
けれど、その軽さが余計に怖い。
百さんが静かに言う。
「ズヌイは、君がララ王女を動かしたと見たか」
「半分正解。半分不正解。だから面白い」
「面白がらないでください」
俺が言うと、アーサーは笑った。
「ごめんね。でも、ズヌイ君も楽しそうだったよ」
「楽しそう?」
「商人が、見えない相手の値札を探す顔」
ココさんがくすりと笑う。
「いい顔だねぇ、それ」
「ココさんもそっち側なんですね」
「私は基本、商人側だよ」
「知ってました」
アーサーは続ける。
ズヌイ兄さんは、ララさんが最近妙に楽しそうだと言ったらしい。退屈していた女が、急に玩具を見つけた顔をしている、と。
「誰が遊び相手になった?」
「さあ?」
「とぼけるなよ。お前の侍女筋が動いたのは掴んでる」
「さすがズヌイ君。鼻がいいね」
「商人は匂いで損を避ける」
「じゃあ、今回は避けられるといいね」
「……挑発か?」
「助言だよ」
「どっちにしても性格が悪い」
「ありがとう」
「褒めてねぇ」
そこまで聞いて、リンカが短く呟いた。
「似た者同士」
「リンカ、さすがにそれは失礼じゃない?」
「どちらに?」
俺は答えられなかった。
百さんも答えなかった。
アーサーだけが、楽しそうに肩を揺らす。
「それで、ヤマタ君の名前は?」
「出してないよ。まだ」
「まだ、が怖いんですけど」
「正確には、ズヌイ君の方がまだ辿り着いてない。私が見せたのは、私が関わっていることだけ。ヤマタ君は奥に置いてある」
「俺を物みたいに言わないでください」
「ごめんごめん。奥に隠してある」
「言い直してもあんまり変わってません」
すると、百さんがアーサーを見た。
「自分を囮にしているのか」
「うん」
あまりにもあっさりした返事だった。
俺は反射的に声を上げる。
「それ、危なくないですか?」
「私は危なくていいんだよ」
「よくないです」
「ヤマタ君が前に出る方がよくないよ」
アーサーの声から、笑いが少しだけ消えた。
窓の外の白い光が、いつの間にか薄くなっている。雲はない。けれど、影だけが濃くなっていた。
「ズヌイ君は、ララちゃんを損益で見る。デビルーク第一王女。婚約者。逃げ道。保険。使えるカード。だから、ヤマタ君がいきなり前に出ると、君自身も値踏みされる」
「……」
「君はララちゃんを見る。私は盤面を見る。モモちゃんは危険を見る。役割を分けよう」
言っていることは分かる。
分かるのに、喉の奥が少し詰まった。
「ララさんの気持ちを、戦略材料みたいに扱いたくないです」
アーサーはすぐに返さなかった。
カップを置く音が、小さく響く。
「扱ってるんじゃない。守るために、置き場所を選んでる」
「置き場所って言い方がもう嫌です」
「じゃあ、舞台」
「それも嫌です」
「選択の瞬間」
その言葉だけ、少し違って聞こえた。
アーサーの目が、まっすぐこちらを見る。
「ララちゃんが自分で選ぶ。その瞬間を、ズヌイに潰されない場所へ置く。ついでに、一番効く場所ならなお良し」
「最後の一言で台無しです」
「私らしさも大事でしょ?」
「大事じゃないです」
軽口で返したのに、胸の奥の引っかかりは消えなかった。
ララさんは、失敗した発明品を抱えて少しだけ肩を落とした。
でも、次の話をしたら、すぐに目を輝かせた。
あの顔を、盤面の一部として見たくない。
俺が黙っていると、百さんが横から口を開いた。
「ヤマタ。君がララ王女本人を見るなら、誰かが盤面を見なければならない」
「……分かってます」
「分かっていても、飲み込みにくいのだろう」
「はい」
百さんは少しだけ視線を下げた。腰の剣の柄に指が触れる。触れただけで、握りはしない。
「なら、飲み込めない部分は残しておけ。無理にアーサーと同じ顔をする必要はない」
アーサーが笑った。
「モモちゃん、優しいねぇ」
「茶化すな」
「照れてる?」
「斬るぞ」
「はいはい」
そのやり取りに、少しだけ息が抜けた。
全部を飲み込めなくてもいい。
そう言われた気がした。
俺は、アーサーと同じようには笑えない。ズヌイ兄さんのように損益では測れない。ココさんみたいに商売として割り切れない。リンカみたいに即座に刃の位置を決めることもできない。
でも、ララさんがまた来た時、たぶん俺は窓の鍵を確認してしまう。百さんに怒られると分かっていても。
その日の夜、ズヌイ兄さんはララさんへ贈り物をしたらしい。
これも後でアーサーの筋から聞いた話だ。
ただ、その場面は妙にはっきり想像できた。
ズヌイ兄さんの客間。窓の外には夜の庭園。机の上には、黒い箱。中に収められていたのは、北方鉱山から出た魔導結晶だった。
透明な石の中心に、青白い光が脈のように走る希少素材。加工すれば、発明品の動力核にも使えるらしい。
「ララ。これをやる」
「なになに?」
「北方鉱山から出た魔導結晶だ。加工すれば、発明品の動力核に使える」
「わぁ、すごい! これ、なかなか手に入らないやつだよね?」
「お前なら使えるだろ」
「うん! ありがとう、ズヌイ!」
ララさんはきっと、目を輝かせただろう。
彼女は発明が好きだ。珍しい素材を渡されれば、素直に喜ぶ。
ズヌイ兄さんも、それを分かっていたはずだ。
「気に入ったか」
「うん! これなら、もっと安全な自動お手伝いくんを作れるかも!」
「自動……何だ?」
「あっ」
たぶん、そこで空気が止まった。
ララさんは隠し事が下手だ。
顔に出る。声に出る。楽しいことが、全部そのまま外へ跳ねる。
ズヌイ兄さんは、カップに触れていた指を止めたらしい。
そしてララさんは、魔導結晶を両手で持ったまま、ぽろりとこぼした。
「これ、ヤマタに見せたらどんな顔するかな?」
その名前が、夜の部屋に落ちた。
ヤマタ。
ただの一語。
けれど、商人にとっては十分だったのだと思う。
「……ヤマタ?」
「あ」
「今、何と言った?」
「えっと……何でもない!」
「何でもない顔じゃねぇな」
「ズヌイ、そういうところ本当に鋭いよね」
「商売人だからな」
「でも、怒らないの?」
「怒るには、まだ情報が足りねぇ」
「そこなんだ」
「そこだ」
ララさんは、きっと困ったように笑っただろう。
ズヌイ兄さんは、きっと表情を大きく変えなかっただろう。
でも、カップの取っ手に添えた指だけは、しばらく動かなかったはずだ。
贈り物は、ララさんの手元には届いた。
けれど、その光はズヌイ兄さんの方へ返らず、別の名前の方へ跳ねた。
俺の名前へ。
翌朝、その話を聞いた時、俺はしばらく言葉が出なかった。
「……それ、もう隠せてないですよね」
やっと絞り出すと、アーサーは紅茶を飲みながら微笑んだ。
「ララちゃんだからね」
「想定内ですか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「可愛い誤算」
「可愛くないです」
百さんが窓の外を見た。
朝の光は昨日と違って、少しだけ輪郭が濃かった。庭園の葉先に露が残り、陽を受けて小さく光っている。綺麗なのに、踏めばすぐに消えてしまいそうな光だった。
「ズヌイは動くぞ」
「でしょうね」
アーサーの声は静かだった。
「ヤマタ君」
「はい」
「そろそろ、奥に隠れているだけじゃ済まないかも」
「……そうですね」
俺は自分の手を見る。
剣を持つ手ではない。商談の書類を捌く手でもない。誰かを盤上へ置くことに慣れた手でもない。
でも、ララさんがまた発明品を抱えて来たら、その重さくらいは受け取れるかもしれない。
ズヌイ兄さんは、俺の名前を拾った。
アーサーが隠していた盤面の奥に、薄い線が一本引かれた。
その線の先に、俺がいる。
胃の辺りがきりきりと痛む。
けれど、不思議と椅子から立てないほどではなかった。
窓の鍵は、昨夜のままだ。
閉まっている。けれど、開け方は分かっている。
ララさんが次に来る時、扉から来るとは限らない。
その時、俺はきっとまた文句を言う。
百さんは眉をひそめる。リンカは窓を警戒する。アーサーは笑う。
そして俺は、たぶん言ってしまうのだ。
次は、安全確認をしましょう、と。
それが俺にできる、今のところ一番小さくて、一番譲れない戦い方だった。