王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
朝の庭園には、まだ露が残っていた。
葉先に引っかかった小さな水滴が、陽を受けて白く光っている。綺麗なのに、少しでも触れたら落ちて消えそうだった。
俺は窓の外を見ながら、昨夜からずっと閉じたり開いたりしている手を見下ろした。
剣を握る手ではない。
商談の机を叩く手でもない。
誰かに値札をつける手でもない。
それでも最近、その手元へいろんなものが転がり込んでくる。リアスさん。リンカ。ココさん。百さん。ララさん。
俺が望んで集めたわけじゃない。
けれど、気づけば全員が、俺の近くに立っていた。
その事実が、どうやらズヌイ兄さんの目に引っかかったらしい。
「ズヌイ君が、ヤマタ君のことを調べ始めたよ」
アーサーの声は、いつものように軽かった。
軽いのに、カップを置く音だけがやけに響いた。
「ついに来ましたか……」
俺は胃のあたりを押さえた。
リンカが壁際から淡々と言う。
「胃痛案件」
「言葉にしないでくれる?」
「事実」
「事実でも、言われると痛みが増すんだよ」
ココさんはソファに座り、片手で頬杖をついている。笑っているが、視線は机の上の紙束から離れていない。
「でも、遅かれ早かれこうなったよ。ララちゃんがあれだけ楽しそうにしてたらねぇ」
アーサーが机に一枚の紙を置いた。
「ズヌイ君の商会筋が集めている情報の写し。もちろん全部じゃないけど、流れを見るには十分かな」
百さんが俺の隣で紙へ視線を落とす。
「読んでも?」
「どうぞ、モモちゃん」
「その呼び方は今は流せ」
「真面目だねぇ」
百さんはアーサーを無視して、紙を手に取った。
整った文字が並んでいる。
第五王子ヤマタ。末弟。王位争奪戦では出遅れ。目立った武力なし。大きな財源なし。派手な人脈なし。
そこまでは、まあ、分かる。
俺自身、そう評価されることに慣れていた。
慣れていたはずなのに、紙に文字として並ぶと、自分の輪郭を薄い刃物でなぞられているような気分になる。
百さんが次の行で止まった。
「……周辺人物」
アーサーがにこりと笑う。
「そこからが本題」
ココさんが指で机を叩く。とん、とん、と、一定の間隔で。
「リアスちゃん。元はクル君の妃候補。今はヤマタ君側」
リンカが続ける。
「私。元はズヌイ関係。今は保護下」
「保護下って言い方、ちょっと固くない?」
「他に?」
「……えっと、仲間?」
リンカは一瞬だけ目を伏せた。
「それでいい」
短い返事だった。
それだけなのに、部屋の空気が少し柔らかくなる。
ココさんが笑って、次の名前を拾った。
「私。商業的には危険人物扱いだろうねぇ」
「自覚があるんですね」
「あるよ。女は自分の値段を知らないと安売りされるからね」
アーサーが楽しそうに頷く。
「そして、モモちゃん。エインヴルス帝国の将軍。私の親友。今はヤマタ君のすぐ近く」
百さんは何も言わなかった。
ただ、紙を持つ指に少し力が入った。
アーサーは最後に、ゆっくりと口にする。
「ララ・サタリン・デビルーク。ズヌイ君の婚約者。デビルーク第一王女。その子が、ヤマタ君の名前を口にした」
窓の外で、露が一つ落ちた。
音はしなかった。
けれど、光が一つ消えたのは見えた。
「ズヌイ兄さんは、俺をどう見てるんですか」
聞くと、アーサーは紙の端を指でなぞった。
「本人の値札は安く見える。だが、周りに並んでる商品が高すぎる」
その言葉に、ココさんが軽く口笛を吹いた。
「ズヌイ君らしいねぇ」
「商品って……」
俺は眉を寄せる。
アーサーは肩をすくめた。
「ズヌイ君の見方だからね。人も縁も立場も、まず値段を見る。だからこそ気づいたんだよ。ヤマタ君本人の評価と、周りに集まっている人間の質が釣り合ってないって」
百さんが紙を机に置いた。
「偶然では片付けられない数だ」
「ですよね……」
「だが、君が意図して集めたわけでもない」
「はい」
百さんはこちらを見る。
真っ直ぐな目だった。逃げ道を塞ぐ目ではなく、逃げたいなら逃げ道の場所まで見せた上で、それでも立つのかと聞いてくる目。
「そこが、ズヌイには面倒に映るだろうな」
「面倒、ですか」
ココさんが笑う。
「買える人間は扱いやすい。脅せる人間も扱いやすい。でも、勝手に人が集まる人間は値段がつけにくい」
「俺、そんな大層なものじゃないんですけど」
「それを決めるのは、もうヤマタ君だけじゃないよ」
アーサーの声が、少しだけ静かになった。
俺は返事に詰まった。
机の上の紙には、俺の名前がある。
その周りに、みんなの名前がある。
紙の上だけ見れば、まるで俺が何かを動かしているように見える。でも実際の俺は、胃を押さえて、アーサーの策に振り回されて、ララさんの発明品に慌てて、百さんに姿勢を直されるような人間だ。
その時、百さんが言った。
「ヤマタ。少し外へ出ろ」
「外、ですか?」
「ああ。訓練場へ行く」
「剣の訓練ですか?」
「違う」
百さんは紙を置き、俺の前に立った。
「立つ練習だ」
訓練場には、風が通っていた。
朝の光はさっきより強くなっている。石畳の上に落ちる影が、輪郭を濃くしていた。風が吹くたび、庭園の葉から残っていた露が落ちる。
百さんは俺の正面に立つ。
剣は抜いていない。
なのに、妙に背筋が伸びる。
「見られる側の立ち方を教える」
「それ、姿勢の話ですか?」
「姿勢も含む」
百さんはゆっくりと俺の周りを歩き始めた。
一歩。
また一歩。
足音は静かだ。けれど、俺の耳には妙に大きく聞こえた。正面から見られるより、横や背後に回られる方が落ち着かない。
視線が勝手に逃げる。
「目を逸らすな」
「値踏みされてる感じがして落ち着かないんですけど」
「その感覚に慣れろ。これから君は、そう見られる」
「……ズヌイ兄さんに?」
「ズヌイだけではない。君の周りに人が集まるほど、君を見る目は増える」
百さんは俺の正面に戻った。
俺は反射的に笑って誤魔化そうとした。
けれど、百さんは笑わなかった。
「背筋」
「はい」
「顎を引け」
「はい」
「肩に力を入れすぎるな」
「……はい」
「呼吸を急ぐな」
言われて初めて、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
息を吸う。
朝の空気が胸に入る。少し冷たくて、肺の内側を撫でるようだった。
百さんの視線が俺を見ている。
責めているわけじゃない。
試しているわけでもない。
ただ、そこに立っているかを見ている。
「剣を抜かなくても、人は人を斬れる」
「言葉で、ですか」
「視線で。沈黙で。値踏みで」
「怖いこと言いますね」
「怖いものから目を逸らすな。見られることに慣れれば、相手の視線の揺れも見える」
百さんが一歩近づく。
俺は逃げなかった。
足の裏に力を入れる。石畳の硬さが、靴底越しに伝わってきた。
「俺にできますかね」
「今はできなくていい」
百さんの声は低く、よく通った。
「逃げずに立てれば、それでいい」
俺は百さんを見る。
額に汗が浮いていた。剣も振っていないのに。走ってもいないのに。たった数分、見られていただけで、喉が乾いている。
でも、さっきより呼吸は深い。
百さんがほんの少しだけ頷いた。
「それでいい」
その小さな頷きが、剣の稽古で一本取った時より重く感じた。
「百さん」
「何だ」
「ズヌイ兄さんに会うことになったら、俺、たぶん上手くやれません」
「だろうな」
「そこは少しくらい励ましてくれても」
「上手くやろうとするから崩れる。君は君のままで立て」
「それが一番難しいんですけど」
「だから練習している」
百さんは淡々と言った。
それから、少しだけ目を細める。
「君が人を見るなら、相手にも見られる。その視線から逃げ続ければ、君の言葉は届かなくなる」
風が吹いた。
庭園の葉が擦れる音がした。
どこか遠くで、鳥が一声鳴く。
「届かせたい相手がいるのだろう」
ララさんの顔が浮かんだ。
発明品を抱えて、目を輝かせていた顔。
失敗した時、少しだけ下がった肩。
次の話をしたら、ぱっと戻った笑顔。
俺はもう一度、息を吸った。
「はい」
その返事は、自分で思ったより小さかった。
けれど、百さんは聞こえていたらしい。
「なら、立て」
「はい」
訓練が終わる頃、俺の足は少しだけ重くなっていた。
剣を振っていないのに、肩も背中も妙に疲れている。
立つだけでこれなら、ズヌイ兄さんとの商談なんてどうなるのか。
考えた瞬間、胃が存在を主張し始めた。
「胃薬、いる?」
いつの間にか、リンカが訓練場の入口に立っていた。
「……お願いします」
「まだ飲んでないのに顔が効いてる」
「どういう意味?」
「手遅れ」
「ひどい」
リンカは小さな包みを差し出す。俺が受け取ると、百さんがリンカを見た。
「何かあったか」
「ズヌイ側に動き」
短い言葉で、朝の空気が少し冷えた。
「会談か商談の準備。名目はまだ不明」
「来たか」
百さんの声が低くなる。
俺は胃薬の包みを握ったまま、息を止めていた。
リンカが続ける。
「アーサーが確認中。たぶん、デビルークとの交易か、ララの発明素材絡み」
「ララさんを口実に……」
言葉にすると、さらに現実味が増した。
百さんが俺の前に立つ。
「今の立ち方を忘れるな」
「はい」
「背筋」
「はい」
「顎」
「引きます」
「呼吸」
「急ぎません」
リンカが少しだけこちらを見た。
「訓練された胃痛」
「その言い方やめて」
「前より姿勢はいい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか……」
少し笑ったら、胸の奥に詰まっていた息が抜けた。
その日の夕方、アーサーが戻ってきた。
彼女はいつもの笑みを浮かべていたが、手にした封書を軽く振る仕草だけで、俺は中身を察した。
「ズヌイ君からだよ」
「……商談ですか」
「名目はね。デビルークとの交易に関する軽い意見交換。あと、ララちゃんの発明素材についても少し」
「軽くないですよね」
「軽い紙に、重い中身が乗ってるね」
アーサーは封書を机に置いた。
紙の上には、ズヌイ兄さんの名前がある。
その名前を見て、俺は朝の訓練場を思い出した。百さんの視線。石畳の硬さ。呼吸の仕方。逃げずに立てという声。
俺は封書を手に取った。
指先が少し冷たい。
でも、紙を落とすほどではなかった。
「ヤマタ君」
アーサーが俺を見る。
「無理なら断る方法もあるよ」
俺は封書を見下ろした。
ズヌイ兄さんは、俺に値をつけようとしている。
弱い王子か。安く見えるだけの王子か。
なら、俺は俺のまま、そこに立つしかない。
「会います」
声は震えなかった。
少なくとも、自分の耳にはそう聞こえた。
百さんが隣で、ほんの少しだけ頷いた。
窓の外では、朝に落ちた露などもうどこにもなかった。
代わりに夕陽が、庭園の石畳を赤く染めている。
朝は触れれば消えそうだった光が、今は地面に長い影を伸ばしていた。
ズヌイ兄さんの視線が近づいている。
商人の目で。
王子の目で。
兄の目で。
その視線の先に立つために、俺は百さんに直された背筋を、もう一度だけ伸ばした。