※この作品はR-18です。

王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記-   作:ボルメテウスさん

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弱い王子の値札

 朝の庭園には、まだ露が残っていた。

 

 葉先に引っかかった小さな水滴が、陽を受けて白く光っている。綺麗なのに、少しでも触れたら落ちて消えそうだった。

 

 俺は窓の外を見ながら、昨夜からずっと閉じたり開いたりしている手を見下ろした。

 

 剣を握る手ではない。

 商談の机を叩く手でもない。

 誰かに値札をつける手でもない。

 

 それでも最近、その手元へいろんなものが転がり込んでくる。リアスさん。リンカ。ココさん。百さん。ララさん。

 

 俺が望んで集めたわけじゃない。

 けれど、気づけば全員が、俺の近くに立っていた。

 

 その事実が、どうやらズヌイ兄さんの目に引っかかったらしい。

 

「ズヌイ君が、ヤマタ君のことを調べ始めたよ」

 

 アーサーの声は、いつものように軽かった。

 

 軽いのに、カップを置く音だけがやけに響いた。

 

「ついに来ましたか……」

 

 俺は胃のあたりを押さえた。

 

 リンカが壁際から淡々と言う。

 

「胃痛案件」

 

「言葉にしないでくれる?」

 

「事実」

 

「事実でも、言われると痛みが増すんだよ」

 

 ココさんはソファに座り、片手で頬杖をついている。笑っているが、視線は机の上の紙束から離れていない。

 

「でも、遅かれ早かれこうなったよ。ララちゃんがあれだけ楽しそうにしてたらねぇ」

 

 アーサーが机に一枚の紙を置いた。

 

「ズヌイ君の商会筋が集めている情報の写し。もちろん全部じゃないけど、流れを見るには十分かな」

 

 百さんが俺の隣で紙へ視線を落とす。

 

「読んでも?」

 

「どうぞ、モモちゃん」

 

「その呼び方は今は流せ」

 

「真面目だねぇ」

 

 百さんはアーサーを無視して、紙を手に取った。

 

 整った文字が並んでいる。

 第五王子ヤマタ。末弟。王位争奪戦では出遅れ。目立った武力なし。大きな財源なし。派手な人脈なし。

 

 そこまでは、まあ、分かる。

 

 俺自身、そう評価されることに慣れていた。

 慣れていたはずなのに、紙に文字として並ぶと、自分の輪郭を薄い刃物でなぞられているような気分になる。

 

 百さんが次の行で止まった。

 

「……周辺人物」

 

 アーサーがにこりと笑う。

 

「そこからが本題」

 

 ココさんが指で机を叩く。とん、とん、と、一定の間隔で。

 

「リアスちゃん。元はクル君の妃候補。今はヤマタ君側」

 

 リンカが続ける。

 

「私。元はズヌイ関係。今は保護下」

 

「保護下って言い方、ちょっと固くない?」

 

「他に?」

 

「……えっと、仲間?」

 

 リンカは一瞬だけ目を伏せた。

 

「それでいい」

 

 短い返事だった。

 それだけなのに、部屋の空気が少し柔らかくなる。

 

 ココさんが笑って、次の名前を拾った。

 

「私。商業的には危険人物扱いだろうねぇ」

 

「自覚があるんですね」

 

「あるよ。女は自分の値段を知らないと安売りされるからね」

 

 アーサーが楽しそうに頷く。

 

「そして、モモちゃん。エインヴルス帝国の将軍。私の親友。今はヤマタ君のすぐ近く」

 

 百さんは何も言わなかった。

 ただ、紙を持つ指に少し力が入った。

 

 アーサーは最後に、ゆっくりと口にする。

 

「ララ・サタリン・デビルーク。ズヌイ君の婚約者。デビルーク第一王女。その子が、ヤマタ君の名前を口にした」

 

 窓の外で、露が一つ落ちた。

 

 音はしなかった。

 けれど、光が一つ消えたのは見えた。

 

「ズヌイ兄さんは、俺をどう見てるんですか」

 

 聞くと、アーサーは紙の端を指でなぞった。

 

「本人の値札は安く見える。だが、周りに並んでる商品が高すぎる」

 

 その言葉に、ココさんが軽く口笛を吹いた。

 

「ズヌイ君らしいねぇ」

 

「商品って……」

 

 俺は眉を寄せる。

 

 アーサーは肩をすくめた。

 

「ズヌイ君の見方だからね。人も縁も立場も、まず値段を見る。だからこそ気づいたんだよ。ヤマタ君本人の評価と、周りに集まっている人間の質が釣り合ってないって」

 

 百さんが紙を机に置いた。

 

「偶然では片付けられない数だ」

 

「ですよね……」

 

「だが、君が意図して集めたわけでもない」

 

「はい」

 

 百さんはこちらを見る。

 真っ直ぐな目だった。逃げ道を塞ぐ目ではなく、逃げたいなら逃げ道の場所まで見せた上で、それでも立つのかと聞いてくる目。

 

「そこが、ズヌイには面倒に映るだろうな」

 

「面倒、ですか」

 

 ココさんが笑う。

 

「買える人間は扱いやすい。脅せる人間も扱いやすい。でも、勝手に人が集まる人間は値段がつけにくい」

 

「俺、そんな大層なものじゃないんですけど」

 

「それを決めるのは、もうヤマタ君だけじゃないよ」

 

 アーサーの声が、少しだけ静かになった。

 

 俺は返事に詰まった。

 

 机の上の紙には、俺の名前がある。

 その周りに、みんなの名前がある。

 

 紙の上だけ見れば、まるで俺が何かを動かしているように見える。でも実際の俺は、胃を押さえて、アーサーの策に振り回されて、ララさんの発明品に慌てて、百さんに姿勢を直されるような人間だ。

 

 その時、百さんが言った。

 

「ヤマタ。少し外へ出ろ」

 

「外、ですか?」

 

「ああ。訓練場へ行く」

 

「剣の訓練ですか?」

 

「違う」

 

 百さんは紙を置き、俺の前に立った。

 

「立つ練習だ」

 

 訓練場には、風が通っていた。

 

 朝の光はさっきより強くなっている。石畳の上に落ちる影が、輪郭を濃くしていた。風が吹くたび、庭園の葉から残っていた露が落ちる。

 

 百さんは俺の正面に立つ。

 

 剣は抜いていない。

 なのに、妙に背筋が伸びる。

 

「見られる側の立ち方を教える」

 

「それ、姿勢の話ですか?」

 

「姿勢も含む」

 

 百さんはゆっくりと俺の周りを歩き始めた。

 

 一歩。

 また一歩。

 

 足音は静かだ。けれど、俺の耳には妙に大きく聞こえた。正面から見られるより、横や背後に回られる方が落ち着かない。

 

 視線が勝手に逃げる。

 

「目を逸らすな」

 

「値踏みされてる感じがして落ち着かないんですけど」

 

「その感覚に慣れろ。これから君は、そう見られる」

 

「……ズヌイ兄さんに?」

 

「ズヌイだけではない。君の周りに人が集まるほど、君を見る目は増える」

 

 百さんは俺の正面に戻った。

 

 俺は反射的に笑って誤魔化そうとした。

 けれど、百さんは笑わなかった。

 

「背筋」

 

「はい」

 

「顎を引け」

 

「はい」

 

「肩に力を入れすぎるな」

 

「……はい」

 

「呼吸を急ぐな」

 

 言われて初めて、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。

 

 息を吸う。

 朝の空気が胸に入る。少し冷たくて、肺の内側を撫でるようだった。

 

 百さんの視線が俺を見ている。

 

 責めているわけじゃない。

 試しているわけでもない。

 ただ、そこに立っているかを見ている。

 

「剣を抜かなくても、人は人を斬れる」

 

「言葉で、ですか」

 

「視線で。沈黙で。値踏みで」

 

「怖いこと言いますね」

 

「怖いものから目を逸らすな。見られることに慣れれば、相手の視線の揺れも見える」

 

 百さんが一歩近づく。

 

 俺は逃げなかった。

 足の裏に力を入れる。石畳の硬さが、靴底越しに伝わってきた。

 

「俺にできますかね」

 

「今はできなくていい」

 

 百さんの声は低く、よく通った。

 

「逃げずに立てれば、それでいい」

 

 俺は百さんを見る。

 

 額に汗が浮いていた。剣も振っていないのに。走ってもいないのに。たった数分、見られていただけで、喉が乾いている。

 

 でも、さっきより呼吸は深い。

 

 百さんがほんの少しだけ頷いた。

 

「それでいい」

 

 その小さな頷きが、剣の稽古で一本取った時より重く感じた。

 

「百さん」

 

「何だ」

 

「ズヌイ兄さんに会うことになったら、俺、たぶん上手くやれません」

 

「だろうな」

 

「そこは少しくらい励ましてくれても」

 

「上手くやろうとするから崩れる。君は君のままで立て」

 

「それが一番難しいんですけど」

 

「だから練習している」

 

 百さんは淡々と言った。

 

 それから、少しだけ目を細める。

 

「君が人を見るなら、相手にも見られる。その視線から逃げ続ければ、君の言葉は届かなくなる」

 

 風が吹いた。

 

 庭園の葉が擦れる音がした。

 どこか遠くで、鳥が一声鳴く。

 

「届かせたい相手がいるのだろう」

 

 ララさんの顔が浮かんだ。

 

 発明品を抱えて、目を輝かせていた顔。

 失敗した時、少しだけ下がった肩。

 次の話をしたら、ぱっと戻った笑顔。

 

 俺はもう一度、息を吸った。

 

「はい」

 

 その返事は、自分で思ったより小さかった。

 けれど、百さんは聞こえていたらしい。

 

「なら、立て」

 

「はい」

 

 訓練が終わる頃、俺の足は少しだけ重くなっていた。

 

 剣を振っていないのに、肩も背中も妙に疲れている。

 立つだけでこれなら、ズヌイ兄さんとの商談なんてどうなるのか。

 

 考えた瞬間、胃が存在を主張し始めた。

 

「胃薬、いる?」

 

 いつの間にか、リンカが訓練場の入口に立っていた。

 

「……お願いします」

 

「まだ飲んでないのに顔が効いてる」

 

「どういう意味?」

 

「手遅れ」

 

「ひどい」

 

 リンカは小さな包みを差し出す。俺が受け取ると、百さんがリンカを見た。

 

「何かあったか」

 

「ズヌイ側に動き」

 

 短い言葉で、朝の空気が少し冷えた。

 

「会談か商談の準備。名目はまだ不明」

 

「来たか」

 

 百さんの声が低くなる。

 

 俺は胃薬の包みを握ったまま、息を止めていた。

 

 リンカが続ける。

 

「アーサーが確認中。たぶん、デビルークとの交易か、ララの発明素材絡み」

 

「ララさんを口実に……」

 

 言葉にすると、さらに現実味が増した。

 

 百さんが俺の前に立つ。

 

「今の立ち方を忘れるな」

 

「はい」

 

「背筋」

 

「はい」

 

「顎」

 

「引きます」

 

「呼吸」

 

「急ぎません」

 

 リンカが少しだけこちらを見た。

 

「訓練された胃痛」

 

「その言い方やめて」

 

「前より姿勢はいい」

 

「褒めてる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんか……」

 

 少し笑ったら、胸の奥に詰まっていた息が抜けた。

 

 その日の夕方、アーサーが戻ってきた。

 

 彼女はいつもの笑みを浮かべていたが、手にした封書を軽く振る仕草だけで、俺は中身を察した。

 

「ズヌイ君からだよ」

 

「……商談ですか」

 

「名目はね。デビルークとの交易に関する軽い意見交換。あと、ララちゃんの発明素材についても少し」

 

「軽くないですよね」

 

「軽い紙に、重い中身が乗ってるね」

 

 アーサーは封書を机に置いた。

 

 紙の上には、ズヌイ兄さんの名前がある。

 

 その名前を見て、俺は朝の訓練場を思い出した。百さんの視線。石畳の硬さ。呼吸の仕方。逃げずに立てという声。

 

 俺は封書を手に取った。

 

 指先が少し冷たい。

 でも、紙を落とすほどではなかった。

 

「ヤマタ君」

 

 アーサーが俺を見る。

 

「無理なら断る方法もあるよ」

 

 俺は封書を見下ろした。

 

 ズヌイ兄さんは、俺に値をつけようとしている。

 弱い王子か。安く見えるだけの王子か。

 

 なら、俺は俺のまま、そこに立つしかない。

 

「会います」

 

 声は震えなかった。

 少なくとも、自分の耳にはそう聞こえた。

 

 百さんが隣で、ほんの少しだけ頷いた。

 

 窓の外では、朝に落ちた露などもうどこにもなかった。

 代わりに夕陽が、庭園の石畳を赤く染めている。

 

 朝は触れれば消えそうだった光が、今は地面に長い影を伸ばしていた。

 

 ズヌイ兄さんの視線が近づいている。

 

 商人の目で。

 王子の目で。

 兄の目で。

 

 その視線の先に立つために、俺は百さんに直された背筋を、もう一度だけ伸ばした。

 

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