王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
部屋に足を踏み入れるなり、違和感が鼻腔を突いた。 バラの香り。それも以前嗅いだ淡い芳香ではなく、濃厚な蜜のような甘美な匂いが空間全体を覆っている。まるで何かを演出するために調整されたかのようだ。
「……あら、いらっしゃい」
ソファに腰掛けていたリアスがゆっくりと視線を上げる。琥珀色の瞳が微かに細められ、唇には淑やかな微笑が宿っていた。が、その奥底に潜む意図は読み取れない。
私はソファの斜め向かいに腰を下ろした。
「今日も天気がいいな。春というより夏が近いんじゃないかと思うくらい暑くて」
「そうですね。でもこの部屋は冷房が効いておりますわ」
「ああ、それは助かる。汗だくで来たところだ」
他愛ない挨拶の後、沈黙が流れる。いつもなら彼女の方から話題を振ってくるのに、今日は妙に受動的だ。
「それで……今日はどのようなご用件で?」
抑揚の少ない声。私は居住まいを正した。
「単純にまた君と話したくて。前回は途中で中断されたから」
「そうですか」
リアスは薄く笑みを保ったままコーヒーカップを手に取る。しかし口をつけずに置き直した。その仕草一つにさえ引っかかりを覚える。
探られてる?
唐突に胸騒ぎがした。彼女の指先が机上の錫杖を弄ぶ音が妙に大きく響く。
「ヤマタ様は――」
やがて彼女が切り出した。
「結婚という概念をどのように捉えていらっしゃいますの?」
急な問いに喉が詰まる。
「結婚? なんで急にそんな……」
「いえ、興味があって。私たちはいずれ婚姻という形で結ばれる可能性もあるわけですし」
「まあそれは確かに」
私は曖昧に相槌を打つ。が、リアスの視線はじっと固定されたままだ。まるで答えを吟味しようと構えているように。
「例えば、子供は何人くらい望まれます?」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。リアスは涼しい顔で続ける。
「将来設計ですよ。私が知りたいのはそういうことですわ」
私は一瞬たじろいだが、真面目に考えてみた。
「……少なくとも三人家族は作りたいと思ってる。親の数だけ子がいると賑やかだし」
「なるほど」
リアスの唇が僅かに持ち上がった。が、それは肯定でも否定でもない。観察の延長線上にある表情だ。
「では夫婦生活に関してはどうお考え?」
「互いに敬意を持って支え合うのが理想かな。喧嘩はあっても最後は笑って仲直りできるような――」
そこまで喋ったところで、ふと気づく。
彼女が求めているのは具体的なビジョンではなく、「私に対する忠誠度」だ。本気で私と未来を共有する意思があるのか測ろうとしている。
だから敢えて明言せず婉曲的な質問ばかり投げかけてくる。
「あなたは……私のことを好きだと仰ってましたが」
突如リアスが身を乗り出した。金環が揺れて鎖がシャランと鳴る。
「ではなぜ私以外の女性と睦み合うのです?」
心臓が跳ね上がる。
「いや待て!睦み合ってなんか――」
「噂によると、この城内で複数の女性と接触されているとか」
リアスは静かに私の右手に手を重ねた。細く冷たい指先が掌を這う。
「私の目に映る貴方は純朴で善良な青年です。けれど政略の渦中に身を置けば必ず誰かを傷つけることになるでしょう」
視線が絡む。
私は彼女の言葉に思わず眉を寄せた。リアスの理想とする"王子"とは一体どんな人間なのだろう。幼い頃から読んでいたであろう御伽噺の英雄然とした存在か? それとも教会で語られる聖人のような清廉潔白な人格者か?
私は苦笑しつつも率直に答えた。
「優しくて強くて……って。そんなパーフェクトヒューマンになれたら苦労は無いけどな」
「つまり?」
リアスの瞳が鋭くなる。そこには失望の色が微かに滲んでいる。
「俺は確かに君を想ってる。けどな、誰かの理想像になれるほど余裕はない。日々必死だよ」
「必死? 国王陛下の弟君が?」
「爵位がどうであれ一人の人間には変わらねえ。明日の飯代に困ることだってあるし、夜中に一人で悩むこともある」
リアスは口を開きかけて噤んだ。私は続けた。
「守れるかも分からない。下手すりゃ君より先に倒れるかもしれん。でも……」
一呼吸置いて彼女の手を取り直した。
「それでも隣にはいたいって思うよ。それが今の俺にできる最大限の誠意だ」
沈黙が落ちる。
リアスの琥珀色の双眸がゆらりと揺れ、やがて伏せられた。握り返される力は弱々しかった。
「理想と違ってがっかりしたか?」
「……いいえ」
返ってきた声はか細かったが、確かに否定した。
「初めて……本音で話してくれた気がしますわ」
震える睫毛の奥に宿るのは失望ではなく驚き。あるいは困惑。いや――
「あなたもまた……"人間"なのですね」
唇がかすかに綻ぶ。そこには嘲りでも諦観でもない、どこか救われたような表情が浮かんでいた。
完璧な王子像は壊された。しかし同時に、これまで見えなかった"個"が露呈した。その瞬間を捉えたリアスの中で何かが変わり始めていた。
テーブルの上の燭台が揺れた。その炎を映す琥珀色の瞳がわずかに泳ぐ。
「……クル様は」
リアスがぽつりと漏らした。彼女の指先が無意識に金鎖のネックレスを握り締めている。普段なら計算された角度で座る彼女が、今日は背もたれに身体を預けていた。
「本当に私を選んでくださるのか、分からない時があるんです」
それは初めて聞く本音だった。政治的に最適なカードとしての役割を果たせと促されながらも、個人の心は宙ぶらりん。
「皆さんは私が『女王』の風格を持って生まれたと言います。でもそれって……結局誰かの期待に沿うだけの存在じゃないですか?」
リアスの唇がふっと歪んだ。皮肉な笑みの奥に確かな寂寥が透けて見える。私は彼女の膝に置かれた手を見た。細い指が爪の跡を残すほど固く丸まっている。
「だからあなたが王子の称号を捨てたと聞いた時は……正直羨ましいと思いました」
「羨ましい?」
「自由な道を選び得るということが。どれほどの才があっても血筋の檻から抜けられない私とは違う」
彼女の声は低く沈んでいく。琥珀色の虹彩に宿る光が徐々に陰を帯びる。
――ここで攻略するのではない。共感を選ぶ。
私は静かに椅子から立ち上がり、彼女の真正面ではなく斜め隣に移動した。過剰な接近は不要だ。物理的距離よりも心理的な同居を選ぶ。
「なあリアス」
呼びかけると彼女はぴくりと肩を揺らした。
「確かに俺は王子の称号を捨てたよ。だが今さら過去を悔やんだことは一度もない。選択に意味を見出すのも自分次第だろ?」
「……あなたは強いんですね」
「強くなんかない。毎晩床に就く時、『もしあの時別の選択をしていれば』と考え込むこともある。ただな」
一度言葉を切って呼吸を整える。
「それでもいいんじゃないかって最近思うようになったんだ」
リアスの瞼が軽く持ち上がる。私の視線は彼女の瞳に吸い込まれた。
「理想の自分になれるまで待つ必要もなければ、誰かに与えられた役割通りに生きなきゃいけないわけでもない。無理に誰かになる必要はないんじゃないか」
「そんな……投げやりな」
「投げやりじゃない。ありのままで生きる方がよっぽど根性いるぜ?」
彼女の手をそっと掬い上げる。掌の皺は硬いほど冷たく乾いていた。
「君が感じる違和感も苦しさも全部捨てなくていい。むしろ抱えながら前に進めばいいんだ」
リアスの瞳が揺らいだ。波打ち際のような透明な感情がそこに広がっていく。
「……私は」
掠れた声。続きを探すように言葉が彷徨う。
「私はただ……認められたかったのかもしれません。私が私であることを」
それは紛れもない本音だった。王位争いでも玉座でもなく、一人の人間としての自己承認欲求。その脆さを晒したリアスの顔は、今まで見てきたどの表情よりも生き生きとしていた。
私はただ頷いた。
「わかってる」
それ以上は語らず、代わりに手を握り直す。リアスの指がわずかに反応した。拒否ではなく委ねるような動作。その微細な変化がすべてを物語っている。
燭台の灯りが琥珀色の双眸を照らす。そこへ映った自分の輪郭が奇妙に滲んで見えた。
先程までの刺すような棘は消え、代わりに温かな静寂が二人を包んでいる。リアスの吐息が微かに揺れた。
「ヤマタ様」
呼ぶ声音はこれまでにないほど柔らかい。普段は冷徹な刃のような響きなのに、今は蜂蜜を垂らしたように甘く煮凝っている。
「少し……お伺いしたいことがあるのですが」
彼女が距離を詰める。ソファの肘掛け越しに腕が触れ合いそうになる刹那、私は息を飲んだ。香水と体温が混ざり合う独特の香りが脳髄を痺れさせる。
「先程のお話ですが」
視線が絡み合う。長い睫毛の間から覗く琥珀の輝きに、不意に心拍数が上昇した。
「あなたは……私を受け入れてくださるのでしょうか」
抽象的な問いに思わず首を傾げる。受け入れるとはどういう意味だ? 人生? 心? それとも——。
逡巡しているとリアスの唇がそっと弧を描いた。その動きだけで室内の温度が2℃ほど上がった気がした。
「単刀直入に申しますわ」
彼女の指先が私の袖口にかかる。細い爪先が布地を摘む仕草があまりに蠱惑的で、反射的に体が強張った。
「今度は二人だけで会っていただきたいのです」
直球すぎる。だが侮蔑するような挑発ではなく、あくまで慎み深い依頼の体裁をとっていた。これが彼女なりの「誘い」なのか。
「二人……だけ?」
「ええ」
リアスは私の戸惑いなどお見通しなのだろう。余裕ある笑みを崩さぬままさらに距離を詰めてきた。ソファが小さく軋む。
「もう少しだけ……お話ししても良いかしら?」
そのひとことが鼓膜を貫いた瞬間、世界の音が遠退いた。心臓の鼓動だけがドクドクと頭蓋骨に反響する。
彼女の提案は明瞭だった。しかし目的は不明。駆け引きか? 試しているのか? それとも……
(まずいな……)
混乱する思考を宥めようと深呼吸した矢先、背後の影が動いたような気がした。振り返ると誰もいない。だが確信する。
(アーサー……見てるな?)
婚約者とはいえ部屋の死角から監視されるのは慣れたものだ。今は気にしている場合ではない。集中せねばならないのは目前のリアスなのだ。
彼女は私の沈黙を不安と受け取ったらしく、やや気まずそうに睫を伏せた。
「もちろんお忙しいのでしたら」
「いや! 行くよ!」
咄嵯に出た声は想像以上に大きかった。リアスが瞠目する。私も驚いている。
「悪い。ただ……本当に二人だけでいいのか?」
改めて確認すると、リアスの瞳が一層澄み渡った。そこに嘘偽りの影はない。
「もちろんですわ」
簡潔にして断固たる回答。これ以上の言葉は要らないのだろう。