王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
商談の部屋は、妙に静かだった。
王城の一角にある応接室。窓からは庭園が見える。朝から晴れているはずなのに、空は薄い雲を一枚かぶったようで、差し込む光は柔らかいというより、どこか冷めていた。
机の上には、紅茶のカップが人数分。
触れてもいないのに、湯気だけが少しずつ細くなっていく。
俺は椅子に座り、膝の上で手を開いたり閉じたりしていた。
背筋。
顎。
呼吸。
百さんに言われたことを、頭の中で一つずつなぞる。
「ヤマタ君」
隣に座るアーサーが、口元だけで笑った。
「胃薬いる?」
「商談前にその確認をされるの、かなり嫌なんですけど」
「リンカちゃんが予備を持ってるよ」
壁際のリンカが、小さな包みを指で挟んで見せた。
「即効性」
「本当に用意してる……」
「必要になる」
「断言しないで」
俺が小さく息を吐くと、向かいのココさんが書類を整えながら笑った。
「まあまあ。今日は商談だよ。剣も魔法も飛ばない。安全安全」
「ココさんがそう言うと逆に信用できないです」
「鋭くなったねぇ、ヤマタ君」
「日々鍛えられてますから」
軽口を叩いても、指先の冷たさは残っていた。
その時、扉が叩かれた。
こん、こん、と二回。
大きな音ではない。
なのに、机の上のカップが一瞬だけ重くなった気がした。
扉が開く。
ズヌイ兄さんが入ってきた。
派手な服装ではない。けれど、布地の質も、指輪の光り方も、歩き方も、どれも安くなかった。後ろには商会員が一人。必要最低限の人数。それだけで、この場が戦場ではなく市場だと言われているようだった。
「待たせたな、ヤマタ」
「いえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
立ち上がって頭を下げる。
顔を上げた時、ズヌイ兄さんの目と合った。
笑っている。
でも、その目は笑っていない。棚に並んだ品物の傷を探す商人の目だった。
「第五王子殿下と、こうして落ち着いて話すのは初めてだな」
「そうですね」
「ずいぶん背筋がいいじゃねぇか」
言われた瞬間、肩がわずかに強張った。
けれど、視線は逸らさなかった。
「最近、姿勢を直されることが多いので」
横で百さんが小さく咳払いをした。
ズヌイ兄さんの視線が、百さんへ流れる。
「帝国将軍に姿勢を直される末弟王子、か。ずいぶん豪華な教育係だ」
「誰かの教育係になった覚えはない」
百さんの返答は短い。
ズヌイ兄さんは楽しそうに口角を上げた。
「そうかい」
席につく。
それだけで、部屋の空気が一段低くなった。
最初に口を開いたのはココさんだった。
「では、まずはデビルークとの交易に関する確認から始めようか。今回の議題は、発明素材、魔導鉱石、加工品の流通経路について。合ってるかな?」
「ああ。特に、ララが興味を示す素材については、今後も需要が見込める」
「発明家としての需要? それとも第一王女としての需要?」
「どっちもだ。価値のあるものは、使い道が多いほど高い」
「いいねぇ。商人らしい答えだ」
ココさんとズヌイ兄さんの会話は、穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に怖い。
紙をめくる音。
カップの縁を指先が叩く音。
ココさんの笑い声。
その全部が、刃物を布で包んで机に置いているように聞こえた。
「ララ様の発明には、魔導結晶の安定供給が必要になる。ただし、デビルーク側へ直接流すとなると、ドラグウェル国内の鉱山利権にも触れる」
「そこを調整するのが商人の仕事だろ」
「もちろん。だからこそ、誰の名義で流すかが大事になる」
「ココ・ヘクマティアの名義か?」
「それも一案だね」
「ヤマタの名義では?」
急にこちらへ話が向いた。
俺は、一拍だけ遅れた。
商業の話は、正直なところ全部を理解できていたわけではない。けれど、今の問いがただの確認ではないことくらいは分かる。
ココさんが俺を見る。
アーサーは何も言わない。
百さんも口を挟まない。
俺は、膝の上で握りかけた手を開いた。
「俺の名義で動かすには、まだ分からないことが多すぎます」
「正直だな」
「嘘をついたら、すぐ見抜かれそうなので」
「見抜くさ」
ズヌイ兄さんは笑った。
「商売が分からない王子が、商人を抱えている。面白い形だ」
「抱えている、というより、助けられてます」
「同じことだろ」
「たぶん、違います」
ズヌイ兄さんの指が、カップの取っ手に触れたまま止まった。
ほんの一瞬。
それでも、見えた。
「違う、ねぇ」
その声は軽い。
けれど、目がこちらを測り直している。
ココさんが笑顔で書類を一枚差し出した。
「名義の話なら、今すぐ結論を出す必要はないよ。ヤマタ君は商売人じゃない。だから私がいる」
「お前は、自分が利用されているとは思わないのか?」
ズヌイ兄さんがココさんに言う。
「利用される価値があるうちは、商人として悪くないよ」
「相変わらずだな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
その会話の間も、ズヌイ兄さんの視線は何度も俺へ戻ってきた。
どこで反応するか。
どこで口を挟むか。
どこで黙るか。
値札を貼る場所を探している。
俺は紅茶に手を伸ばした。
カップは少し冷めていた。指先の冷たさと、よく似ていた。
「それで」
ズヌイ兄さんが、カップを置いた。
かちん、と小さな音。
「ララの話だ」
部屋の空気が変わった。
ココさんが書類を閉じる。
リンカの視線が扉へ向く。
アーサーは笑わない。
百さんの靴先が、俺の視界の端に入った。
背筋。
顎。
呼吸。
「ララは俺の婚約者だ」
ズヌイ兄さんの声は穏やかだった。
「お前は、あれをどうする気だ?」
あれ。
その一語が、机の上に落ちた。
俺は思わず視線を落としかけた。
その時、百さんの靴先が半歩だけ動いた。
逃げるな。
声はしなかった。
でも、聞こえた気がした。
俺は顔を上げる。
「ララさんをどう扱うか、という聞き方は嫌です」
言ってから、自分でも驚いた。
思ったより、声がまっすぐ出た。
ズヌイ兄さんは、すぐには返さなかった。
カップを持つ指だけが止まっている。
「あれは俺の婚約者だと言った」
「はい」
「デビルーク第一王女でもある」
「はい」
「価値の分からないものに触れると、火傷じゃ済まねぇぞ」
「そうだと思います」
「なら、引くか?」
俺は紅茶の水面を見た。
湯気はもうほとんどない。
なのに、水面だけが小さく揺れていた。
「ララさんが来たいと言うなら、話は聞きます」
「それだけか?」
「それだけです。帰りたいなら見送ります。困っているなら、手を伸ばします」
「得にならなくても?」
「得かどうかは、俺には分かりません」
「分からないのに手を出すのか」
「本人を置いて話を進める方が、俺にはもっと分かりません」
静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸の音が耳につく。
ズヌイ兄さんは俺を見ていた。
俺も、見返した。
どれくらいそうしていたのか分からない。
たぶん数秒。けれど、剣を向けられているより長く感じた。
やがて、ズヌイ兄さんが口元を歪めた。
「……安くは買えねぇわけだ」
「俺、売り物じゃないです」
「そこも含めて面倒なんだよ」
アーサーが小さく笑った。
「ね?」
「ね、じゃないです」
俺が小声で返した時だった。
扉の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
嫌な予感がした。
というより、最近の俺はこの足音に覚えがありすぎる。
扉が勢いよく開いた。
「発明素材の話してるって聞いた!」
ララさんだった。
桃色の髪を揺らし、目を輝かせ、手には何やら設計図らしき紙束を抱えている。
部屋の中の空気を一切読まずに、ララさんは真っ直ぐこちらへ来た。
「ヤマタ! この前の安全確認メモ、すっごく役に立ったよ! 見て見て、改良案!」
「ララさん、今、商談中です」
「うん! だから来た!」
「だから?」
「素材の話なら私も聞きたいもん!」
百さんが額に手を当てた。
「事前連絡を入れろと言ったはずだ」
「入れたよ?」
「いつ」
「扉の前で、今から入るねーって」
「それは連絡ではなく宣言だ」
リンカが短く言う。
「突入予告」
「余計に悪く聞こえるんだけど」
俺が小声で突っ込むと、ララさんは楽しそうに笑った。
「ねぇねぇ、ヤマタ。この素材、前の自動お手伝いくんの動力に使ったら安定すると思わない?」
ララさんは何のためらいもなく俺の隣に来て、設計図を広げた。
近い。
相変わらず距離が近い。
俺は慌てて身を引こうとしたが、椅子の背に当たって止まった。
「えっと、俺に見せられても専門的なことは分からないんですけど」
「でもヤマタ、安全確認は見てくれるでしょ?」
「それは、まあ……」
「ほら、ここ! 前に剣とか短剣を勝手に片付けようとしたから、武器識別機能をつけようと思って!」
「それはぜひお願いします」
百さんが即答した。
「モモ、本当に剣を持っていかれたの気にしてるね」
「当然だ」
ララさんは笑っている。
自然に。
いつも通りに。
ズヌイ兄さんの前で、俺の側に立って。
ズヌイ兄さんは何も言わなかった。
ただ、見ていた。
ララさんが俺に設計図を見せる手。
俺が慌てながらも紙を押さえる手。
百さんが距離を測るように少しだけ立ち位置を変える動き。
アーサーが口元だけで笑う顔。
全部を、見ていた。
「随分懐いてるな」
ズヌイ兄さんが言った。
ララさんはきょとんとした顔をする。
「懐く? 私?」
「違うのか?」
「うーん……ヤマタのところ、楽しいよ?」
それは、何の飾りもない言葉だった。
ズヌイ兄さんの指が、またカップの取っ手で止まる。
俺は設計図の端を押さえたまま、顔を上げた。
「ララさんが来たいと言うなら、話は聞きます」
「さっきも聞いたな」
「何度聞かれても、たぶん同じことを言います」
「頑固だな」
「よく言われるようになりました」
「誰に」
俺は横を見る。
百さんとリンカとアーサーとココさんが、ほぼ同時に視線を逸らした。
「……周りにです」
「だろうな」
ズヌイ兄さんは短く笑った。
その笑いは、さっきより少しだけ温度が違った。
侮っているわけでもない。認めていると言うには遠い。けれど、最初に部屋へ入ってきた時の、棚の商品を見るような目ではなかった。
商談は、その後も続いた。
デビルークとの交易。魔導結晶の流通。ララさんの発明品に関する安全確認。百さんの「発明品の事前検査義務化」要求。ココさんの利益計算。アーサーの楽しげな横槍。
そして俺は、時々胃を押さえながら、それでも椅子から逃げ出さなかった。
商談が終わり、ズヌイ兄さんが立ち上がる。
「ヤマタ」
「はい」
「お前、商売には向いてねぇな」
「自覚はあります」
「駆け引きも下手だ」
「それも自覚してます」
「だが」
ズヌイ兄さんは、机の上に置かれたララさんの設計図を一瞥した。
そこには、俺が書いた安全確認のメモが貼られていた。
字は不格好だ。専門的でもない。ただ、危ないと思ったことを箇条書きにしただけの紙。
「値段がつけにくい」
「それ、褒めてます?」
「商人にとっては、かなり面倒な評価だ」
「……褒めてないですね」
「褒めてねぇ」
ズヌイ兄さんはそう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音が、ようやく商談の終わりを告げた。
俺は椅子の背にもたれた。
「胃薬……」
「いる?」
リンカが即座に包みを出す。
「お願いします」
「よく立ってた」
その一言に、俺は瞬きをした。
リンカはもうこちらを見ていなかった。
壁際に戻り、いつものように無表情で立っている。
百さんが俺の隣に来る。
「目は逸らさなかったな」
「何度か逸らしかけました」
「戻したならいい」
短い言葉だった。
それだけで、さっきまで硬かった肩が少し落ちた。
ララさんは設計図を抱えたまま、不思議そうに首を傾げている。
「ねぇ、商談っていつもこんなに疲れるの?」
「ララさんが途中で入ってこなければ、もう少し違ったかもしれません」
「えー、でも楽しかったよ?」
「でしょうね」
アーサーが笑う。
「よかったね、ヤマタ君。初商談、無事生還」
「その言い方やめてください」
「でも、逃げなかった」
アーサーの声が、少しだけ柔らかくなった。
俺は設計図の端に貼られた自分のメモを見る。
不格好な字。
安全確認。
発明品を起動する前に周囲を見ること。
武器を勝手に片付けないこと。
人の話を聞くこと。
どれも、商談の武器には見えない。
けれど、ララさんはそれを貼って持ってきた。
ズヌイ兄さんは、それを見た。
そして俺に、値段がつけにくいと言った。
窓の外では、雲の切れ間から光が差し始めていた。
机の上の冷めた紅茶に、その光が細く落ちる。
俺は胃薬の包みを握りながら、百さんに直された背筋を、もう一度だけ伸ばした。
商談は終わった。
けれど、たぶん本当の話は、ここから始まる。