王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
商談が終わった日の夕方、雨が降り出した。
窓を叩くほど強くはない。庭園の葉に小さな粒が落ちて、緑の上を滑っていく程度の雨だった。けれど、空の色は朝よりずっと低い。雲が王城の屋根に手をかけて、ゆっくり重さをかけているように見えた。
机の上には、ララさんが置いていった設計図がまだ広がっている。
端には、俺が前に書いた安全確認メモが貼られていた。
字は相変わらず不格好だ。
発明品を起動する前に周囲を見ること。
武器を勝手に片付けないこと。
人の話を聞くこと。
最後の一文を見て、俺は少しだけ唇を引き結んだ。
「人の話を聞くこと、か」
「ヤマタ君にも必要だね」
向かいからアーサーが言った。
「俺、そんなに聞いてませんか?」
「聞いてるよ。聞きすぎて、たまに自分の声が遅れて出てくる」
「それ、褒めてます?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「観察」
アーサーはそう言って、雨に濡れた窓の外へ視線を向けた。
談話室には、商談後の空気がまだ残っていた。冷めた紅茶。片付けきれていない資料。いつもより静かなリンカ。腕を組んだまま、設計図ではなく俺の姿勢を見ている百さん。
ココさんはソファに座り、片手で紙束をめくっている。紙の端を弾く音が、雨音に混じっていた。
「ズヌイ君、さっそく動いたよ」
アーサーが言った。
俺の手が、設計図の端を押さえたまま止まる。
「もうですか」
「商人は、値段のつかないものを見ると放っておけないからね」
アーサーは一枚の紙を机に置いた。
そこには、簡潔な文字で報告が並んでいた。
ズヌイ兄さんの執務室に出入りした商会員の名前。交わされた短い言葉。俺の名が出た回数。ララさんの発明素材に関する確認。
そして、端の方に一文だけ、妙に大きな余白を取って書かれていた。
――弱い。商売も下手。駆け引きも甘い。なのに、買えない。
「……これ、ズヌイ兄さんが?」
「たぶんね。商会員が聞いた言葉をまとめたものだけど、言い方はかなり本人に近い」
ココさんがくすりと笑った。
「いい評価じゃないか」
「いい評価なんですか、これ」
「商人に“買えない”って言われるのは、なかなか高評価だよ。面倒って意味でもあるけど」
「そっちの意味が強そうですね」
俺が紙から目を上げると、百さんが静かに口を開いた。
「ズヌイは、君を見直したわけではない」
「ですよね」
「だが、値段をつけ損ねた」
百さんの言葉は、雨粒のように短く落ちた。
窓の外で、葉先から水滴が一つこぼれる。
「それは、相手にとって厄介なことだ」
俺はもう一度、報告書を見る。
弱い。
商売も下手。
駆け引きも甘い。
そこまでなら、否定できなかった。むしろ、だいたい合っている。けれど、その後の一文だけが、紙の上で妙に浮いている。
買えない。
売り物になった覚えはない。
けれど、ズヌイ兄さんの世界では、人も立場も縁も、まず値段をつけられる。値段がつけば、買うか、売るか、捨てるか、抱えるかを決められる。
そこから外れたものは、きっと扱いにくい。
「ズヌイ兄さんは、次に何をすると思いますか」
聞くと、アーサーはすぐには答えなかった。
窓の雨を見ている。
その横顔には笑みがあるのに、目は雨粒の落ちる場所を数えているみたいだった。
「ララちゃんを責めない」
「……」
「ヤマタ君をすぐ潰しにも来ない。ズヌイ君は、怒って殴るより、殴らせる場所を作る方が得意だよ」
「嫌な言い方ですね」
「正しい言い方だよ」
アーサーは机の上の設計図へ指を伸ばした。
ララさんが描いた改良版の図面。中心には、ズヌイ兄さんが渡した魔導結晶を組み込む案が書かれている。
「これを使う」
「発明品を、ですか」
「発明品というより、発表の場かな」
ココさんが紙束を閉じた。
「交易、素材、デビルーク第一王女、婚約者、第五王子。全部まとめて並べるなら、発明発表会は都合がいいね」
リンカが壁際から短く言う。
「公開処刑」
「言葉が物騒すぎる」
「公開商談」
「それも嫌だな……」
俺が額を押さえると、百さんが設計図に目を落とした。
「ララ王女は喜ぶだろうな」
その一言で、部屋の空気が少し沈んだ。
たぶん、全員が同じ顔を思い浮かべたのだと思う。魔導結晶を抱えて、目を輝かせるララさん。改良案を見せる相手を探して、真っ先に俺の名前を出すララさん。
その明るさを、ズヌイ兄さんは使う。
俺は設計図の端を押さえる指に、少しだけ力を入れた。
「ララさんを試すみたいな真似は、嫌です」
声にすると、雨音が少しだけ大きく聞こえた。
アーサーは笑わなかった。
ココさんも口を挟まない。
リンカは壁にもたれたまま、こちらを見ている。
百さんが、俺の隣に立った。
「君が嫌がっても、ララ王女はすでに盤上にいる」
淡々とした声だった。
でも、突き放す響きではなかった。
「ならば、彼女が駒としてではなく、一人で立てるように支えろ」
俺は設計図を見る。
ララさんの線は、勢いがある。真っ直ぐではないし、ところどころ書き直しもある。けれど、紙の上で楽しそうに跳ねていた。
この線を、誰かの都合で折りたくない。
「ララさんが何を言うのか、俺は聞きます」
アーサーが、そこでようやく口元を緩めた。
「うん。そう言うと思った」
「また分かってて待ってましたね」
「確認は大事だから」
雨が窓を滑る。
庭園の石畳が濡れて、薄く光っていた。
晴れの日よりも、道の線がはっきり見える。
その日の夜、ララさんはズヌイ兄さんから発表会の話を聞いたらしい。
俺はその場にいなかった。
けれど、後から届いた報告と、ララさんの性格を合わせれば、だいたいの光景は浮かんでしまう。
ズヌイ兄さんの客間。
机の上に置かれた魔導結晶。
青白い光が、雨の夜の窓に反射して揺れる。
「ララ。発明品の発表の場を用意する」
「えっ、本当!?」
「ああ。デビルークとの交易にも関わる。お前の発明素材の有用性を示すには、悪くない」
「やるやる! 見せたい! 今度の自動お手伝いくん、ちゃんと安全確認も入れたんだよ!」
「そうか」
「ヤマタにも見せたいなぁ。あのメモ、すっごく役に立ったんだ!」
「なら、呼べばいい」
「いいの?」
「発表には見物人が必要だろ」
「うん! じゃあ呼ぶ!」
たぶん、ララさんはそこで笑った。
何も疑っていない笑顔で。
自分の発明を見せられることが嬉しくて、俺の反応を想像して、魔導結晶を両手で抱えて。
ズヌイ兄さんは、きっとその笑顔を見ていた。
優しく見える顔で。
けれど、カップの縁を指先で叩きながら。
翌朝、招待状が届いた。
白い封筒だった。
黒い文字で、ララ・サタリン・デビルーク第一王女による発明品の発表会と書かれている。名目は、デビルーク交易および魔導素材の有用性確認。
紙は軽い。
なのに、机に置くと、やけに重い音がした。
「来たね」
アーサーが言った。
声が少し弾んでいる。
「楽しそうですね」
「楽しいよ。向こうから舞台を用意してくれたんだから」
「アーサー」
百さんの声が低くなる。
「分かってるよ、モモちゃん。まだ使うとは言ってない」
「まだ、ですか」
俺が聞くと、アーサーは招待状を指で軽く叩いた。
「ララちゃんがズヌイに別れを告げるなら、こういう場は効果が大きい。でも、それを決めるのはララちゃん」
「本当に?」
「本当。私は背中を押す場所を選ぶだけ」
「それが一番信用できないんですけど」
「ひどいなぁ」
ひどいのはどっちだ、と言いかけてやめた。
招待状の黒い文字を見ていると、昨日の雨に濡れた石畳が頭に浮かんだ。発表会。交易。王族。婚約者。発明素材。
きっと、たくさんの目が集まる。
その真ん中に、ララさんが立つ。
自分の作ったものを見せたくて、きっと楽しそうに。
その横で、ズヌイ兄さんは値段を測る。
アーサーは舞台の使い方を考える。
ココさんは利益を読み、リンカは出口を数える。
百さんは、俺の背筋を見ている。
俺は、招待状の端を指で押さえた。
前よりは早く、顔を上げられたと思う。
「参加します」
百さんが、何も言わずに俺を見た。
ほんの少しだけ、頷いた。
「ララさんが何を言うのか、俺は聞きます」
雨はもう止んでいた。
窓の外では、雲の切れ間から朝の光が差している。庭園の葉に残った水滴が、ひとつ、またひとつと光を返していた。
発表会。
それはきっと、ただの発表では終わらない。
でも、ララさんが自分の声で何かを選ぶなら。
その時、俺はせめて目を逸らさずに聞いていたい。
机の上で、白い招待状が朝日に照らされる。
それは、次の戦場への召集令状みたいだった。