王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
「ズヌイ」
ララさんの声が、壊れた舞台の上をまっすぐに進んだ。
大広場を満たしていた拍手が止んでいる。
風に鳴る王国旗。停止した機械兵から漏れる熱。騎士たちに連行されていく実行犯の足音。
少し前まであれほど騒がしかった場所なのに、今はララさんが息を吸う音まで聞こえそうだった。
ズヌイ兄さんは主催者席の前に立っている。
服には戦闘で飛び散った埃がついていた。けれど、払おうとはしない。片手に閉じた帳簿を持ち、もう片方の指で、その表紙を一度だけ叩いた。
「何だ」
いつもと変わらない声だった。
ララさんは掌に載せた機械部品を見下ろす。
自動お手伝いくんから外れた、小さな制御部品。表面には傷が走り、端が黒く焼けている。
その部品を一度握りかけ、やめた。
指を開いたまま、ズヌイ兄さんへ顔を上げる。
「私、ズヌイとの婚約をやめたい」
広場に息を呑む音が広がった。
貴族席からざわめきが起きる。
「ララ王女が……」
「この場で婚約破棄を?」
「デビルークとの交易はどうなる」
細い声が重なり、波になって舞台へ押し寄せる。
ララさんは振り返らなかった。
ズヌイ兄さんの指が、帳簿の表紙の上で止まっている。
表情は変わらない。
「理由を聞こうか」
「ズヌイが嫌いだからじゃないよ」
ララさんはすぐに答えた。
「欲しい材料も用意してくれたし、発表会も開いてくれた。今日だって、一緒に犯人を捕まえてくれた」
「なら、何が不満だ」
「私が何を作りたいかより、それを使って何ができるかばっかり聞かれたから」
ズヌイ兄さんの目が、わずかに細くなる。
「王族の婚約だ。本人の趣味だけで成り立つ関係じゃねぇ」
「うん。分かってる」
「分かってねぇ顔だな」
「まだ全部は分かってないよ」
ララさんは、そこで言葉を切った。
発明品の残骸へ視線を落とす。
「でもね。この子が暴れた時、みんなが最初に見たのは、これがどれだけ危ないかだった」
彼女の指が、焼けた部品の傷をなぞる。
「それは正しいと思う。危ないものを作ったなら、直さなきゃいけないから」
その指が止まる。
「だけどヤマタは、最初に私を見たの」
不意に名前を呼ばれ、背中が伸びた。
大勢の顔が、今度は俺へ向く。
「ララさん」
「発明が失敗したかもしれない時も、私が悪いって決めなかった。止めてから一緒に考えようって言った」
観客の視線が刺さる。
逃げたくなる。
けれど、百さんに教えられた通り、肩の力を抜いた。息を吸い、顎を上げる。
ララさんは俺を見ていなかった。
ズヌイ兄さんを見たまま、自分の言葉を続けている。
「私の発明を使って何ができるかじゃなくて、私が何をしたいのかを聞いてくれた」
「だから婚約を切るのか」
「それだけじゃないよ」
「なら?」
「私が、次にどこへ行くかを、自分で決めたいの」
風が吹いた。
ララさんの桃色の髪が頬へかかる。
彼女は空いた手で髪を耳へかけた。
その動きはいつもより遅い。けれど、目はズヌイ兄さんから逸れなかった。
「私、ずっと面白いものを作りたいって思ってた。でも、作ったものを誰に見せたいかは、あんまり考えたことなかった」
掌の部品を胸元へ寄せる。
「今は、見せたい人がいる。失敗した時も、直した時も、すごいって言ってくれる時も。全部見てほしいって思う人がいる」
最後の言葉だけ、少し小さくなった。
けれど、大広場には十分届いた。
俺の隣で、アーサーが小さく息を漏らす。
「これは予想以上だね」
「何がですか」
「ヤマタ君、後で鏡を見た方がいいよ」
「どういう意味です?」
「顔が真っ赤」
「暑いんです」
「今日はそんなに暑くないよ」
反対側から百さんの視線が刺さった。
「二人とも黙れ」
「はい」
俺とアーサーの声が重なる。
ズヌイ兄さんは、しばらく何も言わなかった。
閉じた帳簿を脇の机へ置く。
一段ずつ、壊れた舞台へ上がっていく。
砕けた装飾を踏まず、偽造された商印の横を通り過ぎ、ララさんの前で止まった。
「婚約を切れば、デビルークとの交易条件は一から組み直しだ」
「うん」
「今日の事件が解決しても、商会の中にはデビルークの技術を警戒する奴が残る。お前の発明事業へ出していた資金も止まるかもしれねぇ」
「うん」
「王族同士の約束だ。お前と俺だけが了承して終わる話でもない」
「それも分かってる」
「本当に?」
ズヌイ兄さんの声が、少しだけ低くなる。
「さっき、自分で全部は分かってねぇと言っただろ」
ララさんは返事を急がなかった。
焼けた部品を見て、次に観客席を見る。
集まった人々。
不安げな貴族。
様子を窺う商人。
デビルークの随行員。
一つずつ確かめるように視線を動かす。
「分からないことは、これから勉強する」
声に迷いはなかった。
「今までは、ズヌイが考えてくれるなら任せればいいって思ってた。でも、それだと私が決めたことにならないから」
「勉強すれば損失が消えるわけじゃねぇ」
「消えないよ」
「お前のせいで職を失う奴も出るかもしれない」
ララさんの指が、部品の縁を強く押した。
「だったら、新しい仕事を一緒に考える」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから考えるんだよ」
ズヌイ兄さんの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのか、呆れたのか。
それだけでは分からなかった。
「次の男へ乗り換えるだけなら、選んだとは言わねぇぞ」
その言葉で、広場の視線が再び俺へ集まった。
今度こそ逃げたい。
足元を見ると、虫ちゃんがいた。
『携行食料を要求』
「今は無理です」
『緊張状態に糖分は有効』
「誰のせいで緊張してると思ってるんですか」
『回答不能』
「そうでしょうね」
小声でやり取りしていると、ララさんがこちらを振り返った。
目が合う。
さっきまでズヌイ兄さんへ向けていたまっすぐな目が、俺を捉えた途端に少し揺れた。
唇が開き、閉じる。
彼女は一度、胸元の部品へ視線を落とした。
それから舞台を降り始める。
一段。
もう一段。
壊れた床には金属片が散らばっている。ララさんは正装の裾を持ち上げ、慎重にこちらへ歩いてきた。
観客の囁きが遠くなる。
桃色の髪が風に揺れるたび、陽光が細く跳ねる。
俺の前で止まった。
「ヤマタ」
「はい」
「私が、そっちへ行ったら嬉しい?」
声は大きくなかった。
けれど、広場にいる全員が聞いている。
アーサーが息を殺している気配がした。
百さんは俺の半歩前から、少しだけ横へ移る。間に立つのではなく、俺がララさんと向かい合える場所を空けるように。
答えなければならない。
そう思ったのに、言葉がすぐには出なかった。
ララさんの目が、ほんの少し細くなる。
「嬉しくない?」
「違います」
慌てて否定する。
「来てくれたら、俺は嬉しいです」
ララさんの表情が明るくなる。
けれど、次の言葉を続ける前に、俺は一度息を吸った。
「でも、今ここで俺を選んでほしいとは言えません」
明るくなった目が止まる。
周囲から、戸惑うような声が上がった。
アーサーの「へえ」という小さな声も聞こえる。
「どうして?」
ララさんが聞く。
「今は事件が解決したばかりです」
「うん」
「ズヌイ兄さんとの婚約をやめたいと思ったばかりです」
「うん」
「そんな時に俺が来てほしいと言ったら、ララさんが本当に行きたい場所を考える前に、答えを決めさせてしまうかもしれない」
「でも、ヤマタは私に来てほしいんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、言えばいいじゃん」
「言いたいですけど」
「言いたいんだ」
ララさんの口元が少し緩む。
俺は言葉に詰まった。
アーサーが後ろで笑いを堪えている。
「笑わないでください」
「笑ってないよ」
「肩が揺れてます」
「ヤマタ君が正直すぎるから」
百さんが静かにアーサーの肩を掴んだ。
「黙っていろ」
「はい、モモちゃん」
ララさんが俺を見たまま、続きを待っている。
俺は掌を開いた。
百さんから教えられた。
爪を立てるほど手を握っている時は、一度開け、と。
呼吸を整え、もう一度ララさんを見る。
「事件を解決したからでも、ズヌイ兄さんと別れたからでもなく、ララさんが行きたい場所を選んでください」
ララさんの髪が、風で頬へ触れる。
今度は払わなかった。
「その答えが俺たちのところなら」
口の中が乾く。
それでも、目を逸らさない。
「今度は、ちゃんと迎えます」
風が止まった。
大広場に大勢いるはずなのに、何も聞こえない。
ララさんの指から、焼けた部品が滑った。
「あっ」
俺は反射的に手を伸ばす。
部品が地面へ落ちる前に受け止めた。
ララさんの手も同時に伸びてきて、俺の手の甲へ重なる。
指先が触れた。
彼女の手が止まる。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
「部品、壊れなくてよかったですね」
「そっちじゃなくて」
「え?」
ララさんは俺の手の甲に置いた指を見ている。
すぐに離すのかと思った。
けれど、指は動かなかった。
それどころか、少しずつ滑り、俺の指の間へ入り込んでくる。
「ララさん?」
「ヤマタって、ずるいね」
「何がですか」
「来てほしいって思ってるのに、来てって言わない」
「それは、ララさんに選んでほしいからで――」
「そういうところ」
ララさんが顔を上げる。
頬が、少しだけ赤い。
陽の光のせいではないと思う。
たぶん。
「私、ずっとヤマタって面白い人だと思ってた」
「褒められてます?」
「失敗しても怒らないし、危ない時は変なこと言うし、虫ちゃんには好かれるし」
「最後は俺の長所ですか?」
「あと、すぐ囮になる」
「それは長所じゃありません」
「うん。やめた方がいいよ」
「なら最初から入れないでください」
ララさんが笑う。
いつもの、見た人まで明るくなる笑顔だった。
けれど、今日は笑った後も俺から目を離さなかった。
「でも今、面白いだけじゃないって思った」
握られた手に、少し力が加わる。
「私がどこに行くかを、私より大事そうに考えてくれた」
「ララさんの人生ですから」
「そういうことを普通に言うんだもん」
「おかしいですか?」
「ううん」
ララさんは首を振る。
桃色の髪が肩を滑った。
「たぶん、好き」
広場の時間が止まった。
少なくとも、俺の中では止まった。
「……誰がですか?」
「ヤマタが」
「何を?」
「そういうところを」
「俺の?」
「もう!」
握られていた手が、大きく振られる。
「どうしてそこで分からないの!?」
「確認しないと、勘違いだったら困るので!」
「今、かなり分かりやすく言ったよ!」
アーサーがとうとう吹き出した。
「ああ、これは駄目だね。ララちゃん、完全に落ちた」
「アーサー!」
「本人に聞こえている」
百さんが冷静に指摘する。
「聞こえるように言ったんだよ」
「余計なことをするな」
「モモちゃんも気づいたでしょ?」
百さんは答えなかった。
ただ、俺とララさんの繋がれた手を一度だけ見る。
それから静かに目を細めた。
ララさんもアーサーの言葉を否定しなかった。
握っていた俺の手を少し持ち上げ、自分から繋いだことに今さら気づいたように目を見開く。
「あ」
「どうしました?」
「手」
「はい」
「繋いでた」
「そうですね」
「いつから?」
「部品を落とした時からです」
「どうして言わなかったの!?」
「離したいのかと思って」
ララさんの指が一度緩む。
離れるかと思った。
けれど、次の瞬間には前より強く握り直された。
「離さない」
「え?」
「今は、離さない」
頬を赤くしたまま、ララさんが舞台へ向き直る。
俺の手を引き、壊れた舞台の中央へ歩き始める。
「ララさん、どこへ?」
「決めたことを言うの」
「もう決めたんですか?」
「全部じゃないよ」
ララさんは振り返らずに言う。
「婚約をどうするかは決めた。でも、これから先のことはまだ分からない」
「それでいいと思います」
「だから、ヤマタの近くで確かめる」
俺の足が止まりかける。
引かれた手が伸び、ララさんも立ち止まった。
肩越しにこちらを見る。
「私が何を作りたいのか。どこにいたいのか。ヤマタのことを、本当に好きなのか」
「さっき、好きって」
「たぶんって言ったでしょ」
「そうでした」
「だから、もっと確かめるの」
ララさんの目が細くなる。
「嫌?」
「嫌ではありません」
「嬉しい?」
「……はい」
「よろしい!」
満足そうに笑い、また俺の手を引く。
俺はその後ろを歩いた。
追いかけているはずなのに、不思議と置いていかれている感じはしなかった。
壊れた舞台の中央へ戻る。
ズヌイ兄さんは、その場から動かずに待っていた。
俺たちの繋がれた手を見る。
指先が、帳簿の表紙を叩くように一度動いた。けれど今は帳簿を持っていない。
「答えは出たか」
「うん」
ララさんが頷く。
「私は、ズヌイとの婚約を終わらせたい」
「その後は?」
「まだ全部は決めない」
俺の手を少し引き寄せる。
「でも、ヤマタのところへ行く」
観客席が再びざわめく。
「第五王子の陣営へ?」
「婚約を乗り換えるのか?」
ララさんは周囲の声へ顔を向けた。
「ヤマタのものになるんじゃないよ」
はっきりと言った。
「私が、自分でそっちへ行くの」
繋いだ手を持ち上げる。
「ヤマタの近くで、私が何を選びたいのか確かめる。私の発明も、私の行く場所も、今度は自分で決める」
ズヌイ兄さんはしばらく黙っていた。
ララさんを見る。
次に俺を見る。
最後に、繋がれた手を見る。
「デビルークとの正式な協議は必要だ」
「うん」
「交易条件も組み直す」
「うん」
「俺の商会から出していた資金も、同じ条件では続けられねぇ」
「それも考える」
「そうか」
ズヌイ兄さんは、それ以上何も言わなかった。
背を向ける。
舞台を降りる前に、一度だけ足を止めた。
「ヤマタ」
「はい」
「お前、人を手に入れるのが下手だな」
「手に入れようとしてませんから」
「それで向こうから来るんだから、質が悪い」
吐き捨てるような言い方だった。
けれど、声に棘はなかった。
「ララ」
「なに?」
「後悔するなら、自分で選んだことを後悔しろ。誰かに選ばされたとは言うな」
「うん」
ララさんの返事を聞き、ズヌイ兄さんは舞台を降りた。
その背中を見送っていると、アーサーが隣へ寄ってくる。
「最高に盛り上がったね」
「最初からこれを狙ってたんですか?」
「場所だけはね」
「ララさんの答えまで?」
「それは知らないよ」
アーサーはララさんを見る。
繋がれた手。
少し赤い頬。
俺を見るたびに、すぐ別の場所へ移る視線。
「でも、想像よりずっと面白くなった」
「俺は頭が追いついてません」
「そのままでいいんじゃない?」
「よくないです」
「ヤマタ」
百さんが呼ぶ。
「はい」
「いつまで手を繋いでいる」
言われて、俺もようやく気づいた。
式典中だ。
大勢が見ている。
ララさんと手を繋いだまま、舞台の中央に立っている。
「あの、ララさん」
「なに?」
「そろそろ手を――」
「離さないよ」
「まだですか?」
「まだ」
「いつまで?」
「決めてない」
ララさんは前を向いたまま答えた。
指だけが、もう一度俺の手を握り直す。
百さんが小さく息を吐く。
アーサーは隠そうともせず笑っている。
リンカが俺たちを見て、ぽつりと言った。
「捕獲」
「何がですか?」
「今度はララが、ヤマタを捕まえた」
「俺は虫ちゃんじゃありません!」
『呼称を確認』
足元から機械音声が響いた。
『飼育対象ヤマタを登録します』
「登録しないでください!」
「いいね、それ!」
ララさんが笑う。
「よくありません!」
大広場に笑い声が広がった。
止まっていた拍手も、また少しずつ戻ってくる。
壊れた機械兵の金属面に、並んで立つ俺とララさんの姿が映っていた。
風が吹く。
床へ散らばっていた配置図や偽造帳簿の紙が、舞台の端から空へ舞い上がる。
誰かが決めた位置を示す赤い印も、風に攫われて遠ざかっていった。
ララさんの手は、まだ離れない。
俺も、無理に離すことはしなかった。