王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
その日の夜。
俺はようやく、自分の部屋まで戻ってきていた。
王城前の式典会場では、まだ後片付けが続いている。壊れた舞台の撤去。停止した機械兵の回収。捕らえた犯人たちの取り調べ。デビルーク側への説明と、ズヌイ兄さんの商会に対する調査。
本来なら第五王子である俺も、もう少し働くべきなのだろう。
だが、百さんに肩を掴まれた。
「今日はもう休め」
逆らえる声ではなかった。
そのまま部屋まで送られ、湯を浴びさせられ、傷がないことを三回確認された後、ようやく一人になった。
窓の外では、王都の灯りが小さく瞬いている。
昼間の青空が嘘だったように、夜は深い。雲の切れ間から差し込む月光が、机の端と寝台の白いシーツだけを薄く照らしていた。
静かだった。
あれほど大勢の声に囲まれていた一日が終わり、部屋には時計の音しか残っていない。
その静けさの中で、俺は自分の右手を見ていた。
何もない。
当然だ。
昼間、ずっと繋がれていたララさんの手は、もうここにはない。
「……何をしてるんだ、俺は」
手を裏返す。
傷もない。火傷もない。指の間に、何かが残っているわけでもない。
それでも、ララさんが握り直した時の感触だけが、妙にはっきり思い出せた。
『今は、離さない』
頭の中で声が再生される。
俺は両手で顔を覆った。
「落ち着け」
誰に言うでもなく呟く。
ララさんは、自分の気持ちを確かめたいと言っただけだ。
俺の近くに来るとも言った。
たぶん好き、とも言った。
「全然落ち着ける要素がないな……」
喉が乾いた。
机の上に置かれた水差しへ手を伸ばす。杯へ水を注ぎ、口をつけようとした。
その瞬間。
扉が勢いよく開いた。
「ヤマタ、来たよ!」
「ぶっ――!」
水が気管へ入った。
咳き込みながら振り返る。
開いた扉の前に、ララさんが立っていた。
昼間の王女としての正装ではない。淡い桃色の寝間着姿で、髪も下ろしている。片腕には工具箱。もう片方の腕には虫ちゃん。
その後ろには、彼女の身体より大きい旅行鞄が置かれていた。
「ラ、ララさん!?」
「大丈夫?」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
「水、変なところに入った?」
「扉が変な勢いで開いたんです!」
ララさんは振り返り、扉を見る。
壁へぶつかったせいで、まだ小さく揺れている。
「壊れてないよ?」
「壊れていれば問題なのではなく、夜に王子の部屋へ突入したことが問題です!」
「でも、鍵は開いてたよ」
「部屋の中にいるからです!」
「じゃあ、合ってた」
「何が!?」
ララさんは当然のように室内へ入ってくる。
腕に抱えていた虫ちゃんを床へ下ろすと、黒い機械は六本の脚を高速で動かし、迷うことなく寝台へ向かった。
毛布を登り、枕の中央へ陣取る。
赤い単眼を一度点滅させた。
『帰巣先へ到着』
「帰巣先ではありません!」
『登録情報と発言に矛盾』
「登録情報が間違ってるんです!」
「でも、ちゃんと帰ってきたね」
ララさんが嬉しそうに笑う。
「俺の枕に帰ってこないでください」
『休眠状態へ移行』
「寝るのが早い!」
虫ちゃんの単眼が消えた。
機械のくせに、丸くなって眠る姿勢へ入っている。
俺は枕を取り戻そうと手を伸ばしたが、虫ちゃんは薄く単眼を点灯させた。
『睡眠妨害を検知』
「俺の睡眠が妨害されてるんです!」
ララさんが口元を押さえる。
肩が揺れていた。
「笑わないでください」
「だって、もう完全にヤマタの部屋を自分の家だと思ってるよ」
「誰が登録したんですか」
「私」
「まずそこを直しましょう!」
「そのために来たんだよ」
ララさんが工具箱を持ち上げる。
「虫ちゃんの帰巣設定と、今日使った逆探知機能の確認。それから、自動お手伝いくんの修理案も考えたいの」
「この時間からですか?」
「うん!」
「夜ですよ?」
「知ってるよ?」
「寝間着ですよ?」
言ってから、もう一度ララさんの姿が目に入った。
柔らかそうな布地。昼間よりも飾り気のない髪。足元も、城内用の軽い履物だけ。
視線の置き場所が分からず、机の上の水差しを見る。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「顔、赤いよ」
「咳き込んだからです」
「さっきアーサーも同じこと言ってた」
「あの人の観察結果は無視してください」
ララさんは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、廊下に置かれた大きな旅行鞄を両手で引っ張り込む。
床を擦る音が、静かな部屋へ響いた。
「その鞄は何ですか」
「荷物」
「それは見れば分かります」
「今日からこっちに泊まるから」
杯を持った手が止まった。
「……どこに?」
「ここ」
「ここ?」
「ヤマタのところ」
「場所を詳しく!」
ララさんは部屋の中を見回す。
机。椅子。長椅子。寝台。
最後に寝台を見た。
「広いね」
「駄目です!」
「まだ何も言ってないよ?」
「今、寝台を見ましたよね!」
「虫ちゃんが寝てるから」
「ララさんも寝る場所を探してましたよね!?」
「一緒じゃ駄目?」
「駄目です!」
即答した。
広い部屋に、俺の声が響く。
窓の外で夜鳥が一羽、驚いたように飛び立った。
ララさんが瞬きをする。
「どうして?」
「どうしてって……」
言葉が続かない。
王女と王子。
婚約解消を申し出たばかりの女性と、その直後に手を繋いでいた男。
その二人が夜中に同じ部屋で眠ったら、どうなるか。
何が起こるかではない。
何を言われるかだ。
「色々と問題があります」
「何が?」
「周囲から見た時の問題です」
「誰も見てないよ?」
「今見ていなくても、朝には分かります!」
「なんで?」
「侍女が起こしに来るからです!」
「じゃあ、私が先に起きる」
「そういう問題ではありません!」
ララさんは腕を組んだ。
考えているらしい。
俺もどう説明すれば伝わるのか考える。
ララさんは王女だが、こういう部分の距離感が独特だ。
昼間、あれほど人前で手を繋いだのだから、夜に同じ部屋にいる程度は問題ないと思っているのかもしれない。
「ララさんの客室は用意されていないんですか?」
「あるよ」
「あるんですか!」
「ヤマタの部屋の隣」
「では、そちらで休んでください」
「でも、虫ちゃんはここにいるよ?」
「連れて帰ってください」
『拒否』
枕の上から機械音声が響く。
「起きてたんですか!」
『帰巣先変更を拒否』
「機械に部屋を乗っ取られてる……」
ララさんが寝台へ近づく。
虫ちゃんの横に工具箱を置き、留め具を開いた。内部から細かな工具と部品が次々に現れる。
「帰巣設定を直すなら、ここで作業した方が早いよ」
「作業だけですよ」
「うん」
「終わったら客室へ戻ってください」
「分かった」
返事が素直すぎて、逆に疑わしい。
ララさんは寝台の上へ部品を広げ始めた。
「そこを作業台にしないでください!」
「広いよ?」
「俺が寝る場所です!」
「端は空けておくね」
「机を使ってください!」
「机だと虫ちゃんが遠いから」
「三歩くらいです!」
俺が抗議している間にも、枕の隣には設計図が広げられた。毛布の上には工具。寝台の中央には虫ちゃん。
すでに俺の眠る場所は半分以下になっている。
「ヤマタ、これ見て」
ララさんが設計図を持ち上げる。
「自動お手伝いくんの安全機能なんだけど、今度は命令を二つ同時に受けても、優先順位を自動で判断できるようにしたいの」
「それは良いと思います」
「それでね、危険物の判断を――」
話しながら、ララさんが近づいてくる。
設計図を見せるためだろう。
顔が近い。
俺は反射的に半歩下がった。
ララさんも前へ出る。
さらに下がる。
さらに近づいてくる。
背中が机へ当たった。
「ヤマタ?」
「はい」
「設計図、見えてる?」
「見えてます」
「遠くない?」
「十分です」
「文字、小さいよ?」
ララさんは俺の隣へ移動した。
肩が触れそうな距離で、設計図を机へ置く。
桃色の髪が腕へかかった。
昼間に繋いだ手とは違う。
今は部屋に二人しかいない。
その事実が、魔導灯の小さな音よりも大きく聞こえてくる。
「ヤマタ、やっぱり変だよ」
「どこがですか」
「昼はもっと近かった」
「昼は人が大勢いましたから」
「人がいない方が近くてもいいんじゃない?」
「普通は逆です!」
「そうなの?」
「そうです!」
ララさんが俺の顔を覗き込む。
視線が合う。
今度は逃げる場所がなかった。
「私が近いと嫌?」
声が少し小さくなった。
さっきまで設計図の上を走っていた指が止まっている。
「嫌ではありません」
「じゃあ、どうして下がるの?」
「意識するからです」
言ってから、口を閉じた。
遅かった。
ララさんの目が丸くなる。
「私を?」
「……はい」
「昼に言ったことを?」
「それも含めて」
「手を繋いだことも?」
「含めてます」
「好きって言ったことも?」
「確認しなくていいです!」
ララさんの頬が、少しずつ赤くなる。
俺も同じ顔をしている気がした。
魔導灯の明かりが弱いことだけが救いだった。
「そっか」
ララさんは設計図へ視線を落とす。
指先で紙の角を折りかけ、慌てて戻した。
「ヤマタも意識するんだ」
「しますよ」
「私ばっかりだと思ってた」
「ララさんは昼間、あれだけ堂々としてたじゃないですか」
「あの時は、言わなきゃって思ってたから」
「今は?」
「今は、二人しかいないから」
同じだった。
昼間は大勢の前だったからこそ、やるべきことだけを見ていられた。
静かな部屋では、言葉の後ろにあったものまで聞こえてしまう。
外で枝が揺れた。
月明かりが窓枠を滑り、机の上に並ぶ二人分の影を少しだけ近づける。
ララさんは設計図から手を離した。
「ねえ、ヤマタ」
「はい」
「私が来たの、嫌だった?」
「嫌ではありません」
「本当に?」
「驚きましたけど」
「追い出したい?」
返事をする前に、ララさんが少しだけ身体を引いた。
さっきまで近づいてきたのに。
その一歩だけが、部屋を急に広く見せた。
「来てくれたのは嬉しいです」
俺は言った。
ララさんが顔を上げる。
「今日のことを話したかったですし、ララさんがどう思っているのかも、もう少し聞きたかったので」
「じゃあ、ここにいていい?」
「作業が終わるまでは」
「終わった後は?」
「客室へ戻ってください」
「そこは変わらないんだ」
「変えません」
「一緒に寝るだけだよ?」
「その“だけ”が問題なんです!」
ララさんが笑った。
今度はいつもの笑い方だった。
「分かった。寝るのは隣の部屋にする」
「お願いします」
「でも、眠くなるまではここにいる」
「それなら……まあ」
「話していい?」
「何をですか」
「今日のこと。これからのこと。ヤマタのこと」
「最後だけ範囲が広くないですか?」
「いっぱい確かめたいから」
ララさんは長椅子へ腰を下ろした。
隣の座面を軽く叩く。
「ここなら近すぎない?」
「……はい」
俺も隣へ座る。
一人分ほど間を空けたつもりだった。
だが、ララさんが少し横へ動き、その間を半分にした。
「ララさん」
「近すぎないよ?」
「基準が信用できません」
「ヤマタが逃げない距離にしたの」
そう言われると、離れづらい。
寝台では、虫ちゃんが設計図の上へ移動していた。
『作業中断を確認』
「今は話す時間です」
『整備を要求』
「後でね」
『報酬を要求』
「明日、焼き菓子をあげる」
『契約成立』
「ララさん、その癖を悪化させないでください」
小さく笑い合う。
窓の外では、夜の風が庭の木々を揺らしている。
昼間の歓声も、機械兵の駆動音もない。
聞こえるのは、ララさんの声と、時折混じる虫ちゃんの機械音だけだった。
「ヤマタ」
「はい」
「昼に言ったこと、まだ変わってない?」
「何のことです?」
「私が行きたい場所を選んでいいってこと」
「変わってません」
「今、ヤマタの近くにいたいって選んでも?」
「はい」
「明日も?」
「明日になっても、同じ答えなら」
「その次の日も?」
「ララさんが決めることです」
ララさんは膝の上で指を組んだ。
その指が、少しだけこちらへ動く。
俺の手には触れない。
長椅子の上、あと指一本分のところで止まった。
「じゃあ、明日も来るね」
「扉を開ける前に、ノックしてください」
「努力する」
「約束してください」
「たぶん」
「一番信用できない返事です!」
ララさんが声を立てて笑う。
その笑い声が、夜の部屋へ柔らかく広がった。
しばらくして、彼女は昼間の発明品について話し始めた。
次に作りたいもの。
直さなければならない機能。
デビルークへ戻った後、父親へどう説明するか。
俺も聞いた。
分からないことは聞き返した。
時々、話が脱線した。
虫ちゃんが菓子の種類を指定し始め、二人で却下した。
やがて、ララさんの声が少しずつ遅くなった。
長椅子の背もたれへ頭を預け、瞬きの間隔が長くなる。
「眠いんじゃないですか」
「まだ平気」
「目が閉じてます」
「考えてるだけ」
「何を?」
「明日も……ここに来る理由」
「普通に話をしに来ればいいでしょう」
ララさんの目が、ゆっくり開いた。
「理由、いらない?」
「はい」
「虫ちゃんの様子を見に来たって言わなくても?」
「言わなくていいです」
「発明の相談がなくても?」
「なくても大丈夫です」
ララさんは俺を見たまま、何度か瞬きをした。
眠気のせいか、頬が少し緩む。
「そっか」
短い返事だった。
けれど、その後はもう新しい理由を探さなかった。
月が雲から出る。
窓から差し込む光が長椅子まで届き、二人の影を壁へ並べた。
昼間よりも静かなのに。
隣にいることだけは、昼間よりずっとはっきり分かった。