王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
事件が終わる時というのは、もっと分かりやすいものだと思っていた。
犯人を捕まえる。
悪事を暴く。
壊れたものを直す。
最後に全員で笑って、めでたしめでたし。
物語なら、そこで頁を閉じればいい。
けれど現実では、捕まえた犯人は黙秘し、壊れた舞台には撤去費用が発生し、商会からは厚さだけで人を殴れそうな帳簿が次々に届く。
そして何より、悪事というものは証拠がなければ終わらない。
「つまり、まだ終わってないんですね」
俺の言葉に、ズヌイ兄さんは鼻を鳴らした。
「終わらせるために来たんだろうが」
目の前には、分厚い鉄扉がある。
場所はズヌイ兄さんの商会本部。その地下四階。
表向きの倉庫よりさらに深く、一般の商会員には存在すら知らされていない秘密記録庫だった。
壁に並ぶ魔導灯は青白い。冷たい光が石壁を這い、通路の奥をぼんやり浮かび上がらせている。
天井は低く、空気には古い紙と油、それから金属の匂いが混じっていた。
「この奥に、ガルドが残した記録がある」
ズヌイ兄さんが、鉄扉の中央に刻まれた商印へ手を触れる。
「裏帳簿、通信履歴、協力者への支払い。発表会で使われた改竄命令もな」
「それがあれば、ララさんの発明に問題がなかったと証明できる」
「正確には、最初から仕込まれていたことを証明できる」
隣に立つララさんが、左手首を持ち上げた。
「だから、絶対に残さなきゃね」
細い手首には、銀色の腕輪がある。
中央に埋め込まれている石は桃色だった。
俺の左手首にある青い石と、形は同じだ。
昨日の夜、ララさんが完成させた。
本人は「お揃い!」と両手を上げて喜び、俺はアーサーに十五分ほど笑われた。
今朝になっても、まだ少し恥ずかしい。
袖を下ろして腕輪を隠す。
その動きを見ていたララさんが、俺の袖をつまんだ。
「どうして隠すの?」
「目立つので」
「お揃いなのが?」
「その言い方を大声でしないでください」
通路の後ろから、抑えきれない笑い声が聞こえた。
「ヤマタ君、地下まで来ても照れてる」
「アーサー、事件の調査中です」
「分かってるよ。だから静かに笑ってる」
「聞こえています」
「それはごめん」
まったく悪いと思っていない声だった。
アーサーは薄暗い地下だというのに、いつも通り涼しい顔をしている。
その横では百さんが天井や壁の継ぎ目を確認し、リンカは床に残る足跡を追っていた。
虫ちゃんは鉄扉の前で六本の脚を動かし、接続口を探している。
『非公開領域への侵入を確認』
「侵入ではありません。正式な調査です」
『証明を要求』
「ズヌイ兄さん」
「俺の商印を使え」
ズヌイ兄さんが指輪を外し、虫ちゃんの背中へ当てる。
赤い単眼が商印を読み取った。
『最高管理権限を確認』
「最初からそれで開ければよかったのでは?」
「俺の権限だけで開けられるなら、秘密記録庫とは呼ばねぇ」
『補助認証を要求』
虫ちゃんの前脚が小さく開く。
手のように見えた。
『携行食料を要求』
「それは認証ではありません!」
『糖分不足により処理速度低下』
「機械でしょう!」
「昨日、性能調整でお菓子を使ったら覚えちゃった」
ララさんがポケットから焼き菓子を出す。
「覚えさせないでください!」
「でも開かないよ?」
虫ちゃんの赤い目が、焼き菓子を見つめている。
鉄扉は固く閉じたままだ。
俺は額を押さえた。
「一個だけですよ」
『契約成立』
焼き菓子を受け取った虫ちゃんが、背中の端子を鉄扉へ差し込む。
低い駆動音が響いた。
錠が一つずつ外れていく。
重い鉄扉が左右へ開くと、冷たい空気が流れ出した。
その奥には、壁一面の記録棚が並んでいた。
紙の帳簿ではない。
透明な板状の記録媒体が、何千枚も収納されている。
中央には円柱型の大型端末。無数の光の線が床と天井へ伸び、地下全体の記録を管理しているらしい。
「すごい……」
ララさんが記録庫へ入る。
腕輪の桃色の石が、青白い魔導灯の下で淡く光る。
「全部、ここに保存されてる」
「触るなよ」
ズヌイ兄さんが言った。
「罠が残っている可能性がある」
「分かってる」
そう答えながらも、ララさんの歩幅は大きい。
俺は自然と、その半歩後ろについた。
百さんがこちらを見る。
「ヤマタ」
「前へ出ていません」
「ララ王女と一緒に進んでいる」
「一人で行かせるよりいいでしょう」
百さんは数秒黙った。
「私の視界から出るな」
「はい」
「二人ともだ」
「うん!」
ララさんの返事は明るい。
俺の腕輪が小さく震えた。
見ると、青い石の上に桃色の光が一度だけ走っている。
「今のは?」
「私からの確認信号」
「何を確認したんですか」
「近くにいること」
「見れば分かりますよね」
「腕輪でも分かると嬉しいから」
「機能を私的に使わないでください」
「嫌?」
「……嫌ではありませんけど」
アーサーの笑い声がまた聞こえた。
「早く調査を始めましょう!」
俺は中央端末へ向かった。
ララさんも隣へ並び、腕から細い端子を伸ばす。
「接続するよ」
「安全ですか?」
「確認した」
「何回?」
「十回」
百さんが少し離れた場所から声を上げた。
「十一回目は?」
「今やってる!」
「実地確認を安全確認に含めるな」
「大丈夫だよ。危なくなったらすぐ切るから」
ララさんは端子を中央端末へ接続した。
低い音が鳴る。
空中に、無数の文字列が浮かんだ。
取引記録。
倉庫への搬入履歴。
魔導結晶の購入記録。
通信端末の使用時間。
ララさんの指が、光の文字を次々に送っていく。
「見つけた」
一つの記録が大きく表示された。
自動お手伝いくんに送られた命令。
本来の安全命令の上に、別の命令が追加されている。
整理対象の強制指定。
警告機能の停止。
そして――第五王子ヤマタ・ドラグウェルの排除。
自分の名前が赤い文字で浮かぶ。
もう驚きはしなかった。
けれど、隣でララさんの指が止まった。
「ララさん?」
「これを残せば」
彼女は画面を見たまま言った。
「私の発明が悪かったんじゃないって、誰にでも証明できる」
「証明がなくても、俺は疑っていませんよ」
ララさんがこちらを見る。
俺は画面の赤い文字を指した。
「でも、ララさんが次に発明を見せる時、これを理由に俯かなくて済むなら」
表示された記録を保存領域へ送る。
「絶対に残しましょう」
ララさんの唇が少し動く。
返事の代わりに、俺の腕輪が一度震えた。
桃色の光が、青い石の中へ流れ込む。
「今のも確認信号ですか?」
「ううん」
「では?」
「ありがとうの代わり」
「普通に言えばいいのでは?」
「腕輪でも伝えたかったの」
ララさんが笑う。
その瞬間。
中央端末の光が赤へ変わった。
『最高管理者ガルド・ベルクの拘束を確認』
機械音声が記録庫に響く。
『機密保全手順を開始』
「何ですか、それ」
ズヌイ兄さんの表情が変わった。
「全員、端末から離れろ!」
『全記録の消去を実行します』
床が揺れた。
記録棚の奥で、巨大な炉が起動する。
赤い炎が細い隙間から吹き上がり、収納されていた記録板が自動的に運び出され始めた。
「証拠消去装置!」
ララさんが端末へ指を走らせる。
「止める!」
『外部操作を拒否』
端末から衝撃波が放たれた。
「ララさん!」
俺は彼女の肩を抱き、横へ飛ぶ。
直後、立っていた場所を赤い光が薙ぎ払った。
床が焼け、黒い線が走る。
「大丈夫ですか?」
「うん。ヤマタは?」
「俺も――」
言い終わる前に、壁が開いた。
収納棚の一部が回転し、内部から人型の警備兵が現れる。
黒い装甲。
太い四肢。
胸部に埋め込まれた赤い認識灯。
両腕が変形し、右腕には刃、左腕には盾が展開された。
「最後まで機械兵ですか!」
「事件の後始末まで自動化されてるね」
アーサーの声が弾む。
「面白がってる場合ですか!」
「面白いものは仕方ないよ」
「右から来るぞ!」
百さんの声。
警備兵が剣を振り下ろす。
百さんが片手を掲げた。
空気が沈む。
警備兵の腕が途中で落下し、刃が床へ突き刺さった。
「天井も崩れ始めている!」
頭上を見る。
機械兵が出現したことで壁の支柱が外れ、石の天井に亀裂が走っていた。
百さんはもう片方の手も上げる。
複数の重力点が空中に生まれ、落下する石材と傾いた記録棚を止めた。
「二人とも急げ!」
「百さんは?」
「私はここを支える!」
「でも――」
「ヤマタ!」
低い声が飛ぶ。
「今、自分がするべきことを見ろ!」
天井を支える百さんの腕が震えている。
それでも膝は曲がっていない。
視線だけが俺へ向いていた。
「……はい!」
前を見る。
記録板が次々に炉へ運ばれている。
リンカが警備兵の前へ滑り込んだ。
短剣が脚部の関節へ刺さる。
一体目が傾く。
回転した身体の影から二体目が現れ、盾を突き出した。
リンカは床へ手をつき、低い姿勢でかわす。
すれ違いざまに通信線を切った。
赤い認識灯が消え、警備兵が壁へ激突する。
「端末は壊さないでください!」
「分かってる」
リンカは次の短剣を抜く。
「壊すのは邪魔な部分だけ」
警備兵の腕が飛んだ。
アーサーは戦場の中央で、機械兵の動きを見ている。
剣を抜くでもなく、攻撃を避けながら視線だけを動かしていた。
「ララちゃん!」
「なに!」
「警備兵は記録炉を守ってない!」
「え?」
「中央端末を壊そうとしてる!」
一体の警備兵が、俺たちではなく大型端末へ向けて腕を振り上げる。
ララさんが息を呑んだ。
「記録を消すだけじゃない。操作できなくするつもりだ!」
「なら、制御核は端末の中じゃない」
アーサーが床を指す。
「左右の通路。機械兵は私たちを中央へ集めようとしてる」
「守る場所から遠ざけているのか」
ズヌイ兄さんが壁の設計図を開く。
「確かに左右に補助制御室がある!」
ララさんが端末へ接続し直す。
赤い文字列の中から経路を抜き出す。
「二つの制御核が同時に動いてる。片方だけ止めても、もう片方が再起動させる」
「同時に解除が必要なんですね」
「うん」
「俺が片方へ行きます」
言った瞬間、ララさんがこちらを見た。
「ヤマタが?」
「二人必要なんでしょう」
「でも、機械の操作は――」
「教えてください」
俺は左手首を上げる。
「これがあるでしょう」
青い腕輪。
その中央で、石が淡く光っている。
「姿が見えなくても、声は聞こえます」
ララさんの桃色の石へ視線を移す。
「ララさんの合図で動きます」
返事はすぐには来なかった。
記録炉の炎が彼女の頬を赤く照らしている。
やがてララさんは、自分の腕輪へ触れた。
「分かった」
桃色の光が強くなる。
「ヤマタは右。私は左」
「逆では?」
「どうして?」
「右側の方が警備兵が多いので」
「だからヤマタを行かせるの?」
「俺の方が機械を直せないので、時間を稼ぐ役に向いてます」
「それ、前にも聞いた理屈だよ」
「実績があります」
「囮の?」
「今回は制御核の解除です!」
ララさんが小さく笑った。
「じゃあ、絶対に腕輪を切らないでね」
「ララさんも」
左右の通路へ分かれる。
右側の通路には赤い警告灯が並び、奥で機械兵の足音が響いている。
俺が走り出すと、背後から百さんの声が追ってきた。
「ヤマタ!」
「はい!」
「危険だと判断したら戻れ!」
「努力します!」
「努力ではなく戻れ!」
返事をする前に、壁から刃が突き出した。
「うわっ!」
身体を反らす。
刃が胸元を掠め、上着の布を切った。
腕輪が強く振動する。
『生体反応上昇』
「今は報告しなくていいです!」
『危険状態を検知』
今度は虫ちゃんではない。
腕輪そのものの音声だ。
直後、ララさんの声が聞こえた。
『ヤマタ、大丈夫!?』
「声が大きいです!」
『危険って出たから!』
「壁から刃が出ただけです!」
『それを危険って言うんだよ!』
通路の奥から警備兵が現れる。
狭い場所では、横を抜ける隙間がない。
「ララさん、制御核までどのくらいですか!」
『私はもうすぐ! ヤマタは右の壁に保守用の溝があるはず!』
壁を見る。
細い溝が縦に走っている。
「ありました!」
『そこへ腕輪を近づけて!』
「腕輪を?」
『一時的に保守端末として使えるようにしたの!』
「いつそんな機能を!」
『昨日の夜!』
「寝てください!」
警備兵の剣が振り下ろされる。
横へ跳ぶ。
刃が床を砕く。
俺は転がりながら壁へ手首を押し当てた。
青い光が溝へ流れ込む。
『保守経路へ接続』
警備兵の動きが一瞬止まった。
「止まりました!」
『十秒だけ!』
「短い!」
『走って!』
警備兵の横を抜ける。
九秒。
八秒。
背後で駆動音が再開する。
振り向かない。
突き当たりの扉へ飛び込み、閉鎖レバーを下ろした。
直後、扉の向こうから衝撃が響いた。
金属が歪む。
「長くは保ちませんね」
『私も着いたよ』
腕輪からララさんの息遣いが聞こえる。
姿は見えない。
けれど、すぐ隣にいるように近い。
目の前には円形の制御核があった。
複数の輪が高速で回転し、その中心で赤い結晶が輝いている。
「これをどうすれば?」
『外側の輪を止めて、青い端子を引き抜く』
「青い端子が三つあります」
『一番細いもの』
「全部同じに見えます!」
『触ったら腕輪に表示が出るよ』
一つ目へ触れる。
『不正解』
「話すんですね、この腕輪」
『分かりやすいでしょ?』
二つ目。
『不正解』
「最後しか残っていません!」
『じゃあ、それ!』
「最初からそう言ってください!」
背後の扉が大きくへこむ。
警備兵の腕が隙間から入ってきた。
「急ぎます!」
外輪へ手をかける。
回転が速い。
指を挟まれれば、骨ごと持っていかれる。
『ヤマタ』
「はい」
『腕輪から停止信号を送る。三秒だけ回転が遅くなるから、その間に掴んで』
「分かりました」
『脈、速いよ』
「走ったので」
『嘘』
「何がです?」
『さっきより速い』
腕輪は便利すぎる。
「ララさんも速いですよ」
少し間が空いた。
『……分かる?』
「お揃いですから」
桃色の光が、腕輪の青い石へ混じる。
『事件が終わったら』
ララさんの声が小さくなる。
『私、ここにいる理由がなくなるのかな』
扉がもう一度揺れた。
警告灯が赤く点滅する。
そんな場所で話す内容ではない。
けれど、機械音と警報に囲まれているからこそ、声だけは嘘をつけないように聞こえた。
「発明の調査は終わりますね」
『うん』
「虫ちゃんの確認も」
『うん』
「婚約問題は、まだ残っています」
『それが終わったら?』
扉の隙間が広がる。
警備兵の赤い目が覗いた。
俺は制御核へ手を置く。
「理由がなければ、会いに来てはいけないんですか?」
腕輪の向こうが静かになる。
「昨日、俺の部屋へ来た時も言ったでしょう」
『何を?』
「話をするのに、理由はいりません」
赤い結晶が脈打つ。
「デビルークへ帰っても、通信してください」
『毎日?』
「毎日は多くないですか?」
『今、間があった』
「検討しただけです!」
『じゃあ毎日』
「ララさんの予定もあるでしょう」
『ヤマタの予定に合わせる』
「俺にもあります!」
『夜なら大丈夫?』
「話が進んでいますね!」
ララさんの笑い声が腕輪から聞こえる。
いつもの声に戻っていた。
『回転を止めるよ』
「お願いします」
『三、二、一――今!』
制御核の回転が遅くなる。
俺は外輪へ手をかけた。
金属が掌へ食い込む。
押し戻されそうになる腕を、両手で押さえる。
「止めました!」
『青い端子を抜いて!』
片手を離す。
輪が動き出す。
腕が巻き込まれる前に、細い端子を掴んだ。
「抜きます!」
『まだ! 二つ同時じゃないと再起動する!』
「では、いつですか!」
『三つ数える!』
背後で扉が破れた。
警備兵が室内へ踏み込む。
赤い目が俺を捉える。
刃が振り上げられる。
『三!』
腕輪の青い光が強くなる。
『二!』
警備兵が踏み込む。
『一!』
刃が頭上へ落ちてくる。
『今!』
端子を引き抜いた。
同時に、腕輪の向こうから金属の外れる音が聞こえる。
制御核の赤い光が消えた。
警備兵の刃が、俺の額の手前で止まる。
風だけが髪を揺らした。
『証拠消去手順を停止』
機械音声が響く。
警告灯が赤から青へ変わる。
記録炉の炎が小さくなり、運ばれていた記録板が直前で止まった。
「止まりました?」
『こっちは止まったよ! ヤマタは!?』
「目の前に刃があります」
『ええっ!?』
「止まっているので大丈夫です」
『大丈夫じゃないよ!』
警備兵の横を慎重に抜ける。
腕輪が激しく震え続けている。
『高脈拍を確認』
「だから走ったんです!」
『今すぐ戻って!』
「戻りますから落ち着いてください」
『ヤマタの方が落ち着いて!』
「十分落ち着いてます!」
『腕輪が違うって言ってる!』
機械は正直すぎる。
中央記録庫へ戻ると、天井と棚はまだ百さんの重力で固定されていた。
リンカの足元には停止した警備兵が積まれている。
アーサーは炉の前で、燃える寸前だった記録板を拾い上げていた。
「最後の一枚、間に合ったよ」
「中身は?」
ズヌイ兄さんが受け取る。
記録板を端末へ差し込むと、空中に取引の一覧が表示された。
ガルド。
協力者。
複数の倉庫責任者。
発明品の危険性を喧伝する予定だった記者。
技術導入の停止で利益を得る商会。
細い線が、すべて一つへ繋がっていた。
ズヌイ兄さんの指が、一覧の上で止まる。
「これで全部だ」
声は低かった。
喜びも、達成感もない。
ただ、帳簿の最後の数字を確認した商人のような声だった。
「もう俺の商会の影には隠れられねぇ」
百さんが両腕を下ろす。
固定されていた棚と天井が、ゆっくり元の位置へ戻った。
最後の石片が床へ落ちる。
「百さん、大丈夫ですか?」
「ああ」
そう答えた直後、百さんの肩がわずかに下がる。
俺が近づこうとすると、先に彼女の手が俺の額へ伸びた。
「怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「刃は止まりました」
「どの位置で」
「額の少し前です」
百さんの指が止まる。
「ヤマタ」
「はい」
「後で話がある」
「どうしてですか!」
「分からないなら、長くなる」
「分かりました。短い方でお願いします」
ララさんが走ってくる。
「ヤマタ!」
俺の左腕を掴み、手首の腕輪を確認する。
次に額。
肩。
胸元の切れた上着。
「切れてる!」
「服だけです」
「本当に?」
「百さんにも同じことを聞かれました」
「私も確認する!」
「二人とも確認が長いです!」
「危ない目に遭ったヤマタが悪い」
「今回は証拠を守るためです!」
「私も証拠を守ったけど、刃の前には立ってないよ」
「正論ですね……」
ララさんの指が、切れた布をつまむ。
そのまましばらく離さなかった。
「事件、終わるね」
「はい」
記録庫の赤い警告灯は、すべて消えている。
青い魔導灯だけが静かに点いていた。
長く続いていた騒音が止まり、地下には機械が冷えていく小さな音だけが残る。
「これで、ララさんの発明に細工をした人間も、資金を出した人間も分かりました」
「うん」
「ズヌイ兄さんの商会も、正式に公表してくれるそうです」
「うん」
ララさんは同じ返事を繰り返す。
俺の上着をつまんだ指は、そのままだ。
「どうしました?」
「何でもない」
「何でもない顔には見えません」
「ヤマタがそれ言うの?」
「最近、百さんに教わって少し分かるようになりました」
「じゃあ、分かって」
「難しい注文ですね」
ララさんが小さく笑った。
それから、俺の腕輪へ自分の腕輪を重ねる。
青と桃色の石が触れ、淡い光が二人の手首を包んだ。
「事件が終わっても、外さないでね」
「危険検知に必要ですから」
「それだけ?」
「通信にも使えます」
「それだけ?」
顔を上げる。
ララさんがこちらを見ている。
逃げ道のない目だった。
「……お揃いですから」
桃色の石が一度だけ強く光る。
ララさんの口元がゆっくり持ち上がった。
「よろしい!」
「誰の真似ですか」
「私」
「そうでしたね」
ズヌイ兄さんが記録板を箱へ収める。
「地上へ戻るぞ。ここでやることは終わりだ」
俺たちは地下記録庫を後にした。
長い階段を上る。
一段ごとに空気が変わっていく。
地下の油と金属の匂いが薄れ、代わりに地上の風が流れ込んでくる。
最後の扉を開くと、夕日が目へ差し込んだ。
空は赤く、王都の屋根が一面に染まっている。
背後で地下への扉が閉じた。
赤い警告灯も、機械兵の音も、その向こうへ消える。
「終わったね!」
ララさんが両腕を伸ばす。
夕日の中で桃色の髪が明るく揺れた。
その時、一羽の小さな通信鳥が空から降りてきた。
金属製の翼。
胸にはデビルーク王家の紋章。
通信鳥はララさんの前へ着地し、嘴から細い巻物を差し出した。
「お父様から?」
ララさんが巻物を受け取る。
封蝋を外し、紙を開く。
さっきまで上がっていた口元が、そのまま止まった。
「何と書いてあるんですか」
「婚約のこと」
紙を持つ指が少し曲がる。
「ズヌイとの婚約解消について、原則認めるって」
「良かったじゃないですか」
「うん」
「では正式に――」
「でも、その前に帰ってこいって」
夕日が少しずつ沈む。
建物の影が長くなり、ララさんの足元まで伸びてきた。
「お父様と直接話して、私の意思を説明しなきゃいけないみたい」
「当然だと思います」
「明日の朝、出発しろって」
「早いですね」
「うん」
ララさんは巻物を畳む。
一度、俺を見る。
すぐに視線を落とし、腕輪へ触れた。
「ヤマタは、どう思う?」
「どう、とは?」
「私が帰ること」
言葉が喉へ引っかかった。
帰国は必要だ。
ララさんが自分で選んだことを、父親へ伝える。
婚約を正式に終わらせる。
それをしなければ、前には進めない。
分かっている。
だから笑おうとした。
「帰って、自分の言葉で伝えてきてください」
腕輪が震えた。
『脈拍上昇を確認』
「今は黙ってください」
機械音声へ小声で言う。
ララさんの目が、俺の腕輪へ落ちる。
「上がってるよ」
「階段を上ったからです」
「さっきより高い」
「夕日が暑いので」
「地下より涼しいよ?」
「……便利すぎませんか、この腕輪」
「ヤマタが嘘をつけないようにしたの」
「そんな機能は聞いていません!」
ララさんが一歩近づく。
自分の腕輪を、俺の青い石へ重ねた。
「寂しい?」
「その聞き方はずるくないですか」
「答えて」
夕日が彼女の髪を赤く染めている。
風が吹く。
手の中の帰国通知が小さく鳴った。
「少しは」
「少し?」
「かなり」
言い直すと、ララさんの肩から力が抜けた。
「でも、行ってきてください」
「うん」
「俺が決めることではないですけど」
「うん」
「ララさんが戻りたいと思った場所へ、戻ってきてください」
桃色の石が、青い光の中で瞬いた。
「じゃあ、すぐ戻る」
「会談には時間がかかるかもしれませんよ」
「急ぐ」
「急いで失敗しないでください」
「毎日連絡する」
「それはさっき決まりましたね」
「朝と夜」
「増えてませんか?」
「お昼も」
「さらに増えました!」
「ヤマタが寂しくならないように」
「仕事ができなくなります!」
「じゃあ、夜だけ?」
「……それなら」
「朝も」
「交渉術を覚えましたね」
「ヤマタに教わった」
「教えた覚えがありません」
ララさんは笑った。
その笑顔はいつも通りだった。
けれど、重ねた腕輪は離れない。
「外さないでね」
「ララさんも」
「うん」
「途中で改造しないでください」
「どうして?」
「急に機能が増えるからです」
「ヤマタの声をいつでも聞ける機能とか?」
「事前に相談してください!」
「じゃあ、帰ってる間に考えるね」
「考えないでください!」
俺の抗議を聞きながら、ララさんはさらに一歩近づいた。
肩が触れる。
腕輪の光が、夕日の中ではっきり見えなくなる。
「ヤマタ」
「はい」
「帰ってくるから」
さっきも聞いた言葉だった。
今度は返事を急がなかった。
ララさんの腕輪へ、自分の手首を軽く押し返す。
「待っています」
西の空へ太陽が沈む。
長く続いた事件の最後の光が、王都の屋根からゆっくり消えていく。
それでも手首には、青と桃色の光が残っていた。