王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
ララさんがデビルークへ帰った日の夜、王都には雨が降った。
窓を叩く雨粒は細く、途切れることなく続いている。
夕方までは雲の切れ間から光が差していたのに、日が沈む頃には王城も街並みも灰色の幕に包まれていた。
俺は左手首を持ち上げる。
銀色の腕輪に埋め込まれた青い石は、静かな光を宿していた。
今のところ通信は来ていない。
出発してから、まだ半日も経っていないのだから当然だ。
「ヤマタ君」
隣を歩くアーサーが、俺の手元を覗き込んだ。
「さっきから三十七回目だよ」
「何がです?」
「腕輪を見るの」
「数えていたんですか」
「面白かったから」
「他に見るものはなかったんですか」
雨に濡れた回廊の外へ目を向ける。
庭園の花は頭を下げ、水を吸った葉が魔導灯の光を鈍く返していた。
「ララちゃんから連絡が来ないか気になる?」
「無事に着いたか確認したいだけです」
「へえ」
「何ですか」
「それを世間では気になるって言うんだよ」
「アーサーの世間は信用できません」
「あははっ。今日のヤマタ君、いつもより刺々しいね」
アーサーの声は軽い。
けれど、俺の歩幅が少し速くなっていることには触れなかった。
俺たちが向かっているのは、第四王子ズヌイ兄さんの執務室だ。
ララさんを乗せた飛行船が王都を離れて間もなく、使者が来た。
『今夜、話がある。アーサーも連れて来い』
それだけだった。
兄さんらしいと言えば、兄さんらしい。
要件も目的も書かれていない。
「何の話だと思います?」
「ララちゃんを奪った慰謝料請求」
「人聞きが悪すぎませんか」
「じゃあ婚約破棄に伴う損害賠償」
「言い方が変わっただけです」
「商会の損失は相当なものだからね」
アーサーは笑いながら言った。
俺は返事をしなかった。
ガルドの事件によって、ズヌイ兄さんの商会は大きく揺れた。
副会頭が王族暗殺と他国技術への妨害を企てていた。
それだけでも信用は落ちる。
さらに、事件に関与した倉庫責任者や商会員の処分。資産の凍結。取引停止。被害を受けた商会や職人への補償。
そして、ララさんとの婚約解消。
帳簿の上に並べれば、赤い数字ばかりになるはずだ。
執務室の前へ着く。
扉の左右に立つ衛兵は、何も言わず頭を下げた。
俺が扉を叩く前に、中から声が飛ぶ。
「入れ」
「聞こえていたんですか」
「お前らの声は廊下まで響く」
「主にアーサーです」
「ヤマタ君も十分うるさかったよ?」
「入らねぇなら帰れ」
扉越しの声が低くなる。
「入ります!」
急いで扉を開けた。
執務室は暗かった。
灯りがないわけではない。
中央の卓上には魔導灯が置かれている。壁にも複数の照明がある。
それでも部屋全体が暗く見えるのは、厚い雲と雨に王都の光が遮られているからだろう。
窓を伝う雨水が、外の街灯を歪ませていた。
卓の向こうにズヌイ兄さんが座っている。
黒い上着は椅子の背に掛けられ、白いシャツの袖を肘まで捲っていた。
机の上には帳簿と報告書。
横には酒瓶と杯がある。
杯には一度も口をつけていないようだった。
「座れ」
向かいに椅子が二つ用意されている。
俺とアーサーは並んで腰を下ろした。
アーサーは部屋を見回す。
「護衛も側近もいないんだね」
「余計な耳は必要ねぇ」
「私を呼んだのに?」
「お前は何を言っても勝手に聞く」
「よく分かってる」
アーサーは満足そうに脚を組む。
ズヌイ兄さんは彼女を無視し、一冊の帳簿を俺たちの前へ滑らせた。
「今回の損失だ」
「俺が見ても分からないと思いますが」
「数字くらい読めるだろ」
「読めますけど、桁が多いと現実感がなくなります」
「じゃあ現実的に言ってやる」
ズヌイ兄さんは指先で帳簿を叩いた。
「俺の商会が二年で稼ぐ利益が消えた」
「……それは」
「まだ増える」
次の報告書が置かれる。
「事件に関与していた支店を閉鎖。取引先への違約金。被害を受けた職人と倉庫業者への補償。デビルークとの共同事業も白紙だ」
紙が一枚ずつ重ねられていく。
薄い紙なのに、卓が沈んで見えた。
「ララとの婚約が正式に解消されれば、予定していた技術供与も消える」
「デビルークとの交易自体は続けられないんですか」
「国同士の交易は残る。俺の商会を優先する理由が消えるだけだ」
ズヌイ兄さんが杯へ手を伸ばす。
だが持ち上げず、縁を指で弾いた。
硬い音が一度だけ鳴る。
「失ったのは金だけじゃねぇ」
さらに別の紙が出された。
そこには、複数の貴族や大商会の名前が書かれている。
いくつかの名前には赤い線が引かれていた。
「俺を王へ押し上げると言っていた連中だ」
「この線は?」
「支持の撤回」
ほとんどの名前に線がある。
残っている方が少なかった。
「早いですね」
「商人は損を避ける生き物だ。沈む船に残る馬鹿は少ない」
「ズヌイ兄さんも商人でしょう」
「だから分かる」
声に自嘲はなかった。
他人の帳簿を読むように、自分から離れていった人間を数えている。
アーサーが一枚の報告書を摘まみ上げた。
「王位継承争いに関する情勢報告?」
「読んでみろ」
「いいの?」
「そのために呼んだ」
アーサーは紙へ視線を落とす。
いつもの笑みが少しだけ薄くなった。
「第四王子派の支持は、事件前の三分の一以下」
「商会の再建を優先すべきだという声も増えている」
ズヌイ兄さんが続ける。
「俺を支持していた連中の大半は、王になった俺が市場を広げると考えていた」
「市場が縮みそうになったら、いなくなった」
「そういうことだ」
窓を叩く雨音が少し強くなった。
卓上の硬貨が魔導灯を反射している。
金色のはずなのに、冷たい銀のように見えた。
「それでも、まだ商会は残っています」
俺が言うと、ズヌイ兄さんの目がこちらへ向いた。
「金も、流通網も、人脈も。兄さんが王位を諦めるほどでは――」
「無理だ」
短い言葉だった。
俺の声だけが、途中で切られた。
「俺は王になれねぇ」
雨音が部屋を満たす。
アーサーは何も言わない。
口元に笑みは残っているが、杯へも書類へも手を伸ばさなかった。
「まだ争奪戦は終わっていません」
「終わる前だから分かる」
「何がです?」
「親父が見てるものだ」
ズヌイ兄さんは椅子へ背を預けた。
「妃の数。領地。金。軍。表向きは全部評価対象だ」
「本当は違うと?」
「違わねぇ。ただ、それだけじゃ足りない」
兄さんの指が、支持者の名前に引かれた赤い線をなぞる。
「王の周りに何人いるかじゃねぇ。何があっても、何人残るかだ」
俺は紙を見る。
利益が消えれば離れる人間。
商会が揺れれば線を引く人間。
「俺の周りにいた連中は、俺が利益を生むから集まった」
ズヌイ兄さんは言った。
「利益が消えれば、こうなる」
赤い線。
一本。
二本。
数える気にもなれないほど続いている。
「それは商人として普通では?」
「王になるには足りねぇ」
指が止まった。
「国が儲かってる間しか従わねぇ連中を集めても、国が沈んだ時には誰も残らねぇ」
窓の外で稲光が走った。
一瞬だけ部屋全体が白く染まる。
机に並ぶ書類も、空の杯も、ズヌイ兄さんの横顔も、輪郭だけが鋭く浮かび上がった。
「お前の周りは違う」
「俺の?」
「危険が増えるほど、人が増えた」
「巻き込まれているだけでは?」
「本人たちに言ってみろ」
「絶対に怒られますね」
百さんの顔が浮かんだ。
リンカ。
ココさん。
リアスさん。
そしてアーサー。
ララさん。
「暗殺者を拾った。商人を引き込んだ。第三王子の妃候補を奪った。帝国の将軍がお前を守ってる。デビルークの王女は、自分からお前の腕に印をつけた」
ズヌイ兄さんの視線が、俺の左手首へ向く。
袖で隠していた腕輪の端が見えていた。
慌てて袖を下ろす。
「印ではなく通信具です」
「同じだ」
「違います」
「少なくとも周りはそう見ねぇ」
アーサーが横で頷いた。
「お揃いだしね」
「アーサーは黙っていてください」
「あははっ。照れなくてもいいのに」
「話の空気を読んでください!」
「読んでるから少し軽くしたんだよ」
アーサーは笑った後、ズヌイ兄さんを見る。
「それで、自分には王になる資格がないと?」
「資格の話じゃねぇ。勝ち目の話だ」
「同じじゃない?」
「違う」
兄さんは即答した。
「資格がなくても勝つ奴はいる。資格があっても負ける奴もな」
「兄さんは後者だと?」
「俺に資格があるかどうかは知らねぇ」
机の上の紙をまとめる。
端を揃え、真っ直ぐ重ねる。
「だが、勝てねぇことは分かる」
その手つきだけは、いつもと同じだった。
商品を並べ、数字を整え、損失を計算する商人の手。
けれど今、並べられているのは自分の未来だった。
「第一王子には血統と人望がある。第二王子には武力がある。第三王子には知識と裏の繋がりがある」
「俺には?」
「何もねぇ」
「そこまで言わなくても」
「事実だ」
ズヌイ兄さんの目が細くなる。
「王位に興味がない。計画性もない。本人の能力だけなら、一番安い」
「反論しづらいですね」
「だが、お前の周りに並んでる商品は高すぎる」
「人を商品扱いするのはやめてください」
「例えだ」
「兄さんの場合は例えに聞こえません」
アーサーが笑う。
「私は自分が高価だと言われるの、嫌いじゃないけど」
「アーサーは別の問題があります」
「でもズヌイの言いたいことは分かるよ」
アーサーが頬杖をつく。
「ヤマタ君本人は、王になるために人を集めてない」
「集めているつもりもありません」
「それでも集まる」
彼女の目がこちらへ向く。
「しかも、帰らない」
軽い声だった。
なのに、視線を外せなかった。
「ヤマタ君が王になるかどうかは別として、王の資格を測る側からすれば、無視はできないよね」
「だから俺の勝ちは消えた」
ズヌイ兄さんが立ち上がる。
背後の棚から、一枚の大きな紙を取り出した。
卓上の書類を脇へ寄せ、広げる。
王国全土の交易路図だった。
主要街道。
河川。
港。
商会の倉庫。
鉱山。
穀倉地帯。
赤、青、黒の線が複雑に交差している。
「これは?」
「俺が持つ流通網の全部だ」
ズヌイ兄さんは複数の地点を指した。
「北部の鉱石は第一王子派が押さえている。東部の港は第二王子と繋がる商人が多い。南部の学術都市には第三王子の資金が流れてる」
図面には、それぞれの資金経路まで書き込まれていた。
矢印の横に、細かな数字が並ぶ。
「こんなもの、見せていいんですか」
「見せるために呼んだ」
「これをどうしろと?」
「使え」
即答だった。
「……はい?」
「耳が悪いのか」
「聞こえましたけど、意味が分かりません」
「第一王子の資金源を潰せとは言ってねぇ。第二王子の武器を止めろとも、第三王子の研究を邪魔しろとも言わねぇ」
兄さんの指が地図の中央を滑る。
「ただ、連中が国を食い物にしようとした時、止められるようにしておけ」
複数の交易路が、中央から西へ伸びている。
その先にあるのは、第五王子である俺の領地だった。
「これ……最初から俺の領地へ繋がっていたんですか」
「繋げた」
「いつ?」
「事件の処理を始めた時だ」
「早くないですか!」
「商売は決断が遅い奴から死ぬ」
ズヌイ兄さんは椅子へ戻らず、立ったまま窓の外を見る。
雨脚は先ほどより弱くなっていた。
「王にはなれねぇ」
窓ガラスを伝う水滴の向こうで、王都の灯りが揺れている。
「だが、次の王が国を潰すのを黙って眺める気もねぇ」
「つまり、俺に協力してくれるんですか」
「勘違いするな」
顔だけがこちらへ向く。
「投資だ」
「投資?」
「お前が勝てば、俺の商会は次の王と早く繋がれる。負けても、お前の周りにいる連中との取引は残る」
「兄さんらしいですね」
「損を減らしてるだけだ」
「でも、俺が何もしなければ?」
「切る」
迷いのない返事だった。
「王位に興味がねぇのは好きにしろ。ただし、お前の判断で国や商会へ損が出るなら、俺は容赦なく敵に回る」
「味方ではないんですね」
「最初から言ってる。投資だ」
ズヌイ兄さんは交易路図の端を指で押さえた。
「お前が値札を貼れる男になるか、最後まで見届ける」
「前は値札が貼れないと言ってませんでした?」
「だから困ってる」
「では、そのままでいいのでは?」
「商人は値段の分からねぇものが一番嫌いなんだよ」
アーサーが小さく笑った。
いつもの声を上げる笑い方ではない。
地図の上へ視線を落とし、複数の線を指で辿っている。
「面白いね」
「何がですか」
「ズヌイは王位を諦めたのに、盤上から降りる気がない」
「商会まで捨てる理由はねぇからな」
「それだけ?」
アーサーの問いに、ズヌイ兄さんは答えなかった。
空の杯を持ち上げる。
酒瓶から中身を注ぎ、初めて口をつけた。
喉が一度動く。
「ヤマタ」
「はい」
「ララが戻ってきても、俺に遠慮するな」
杯を卓へ戻す。
「本人が選んだことだ」
「分かっています」
「ならいい」
「ただ、まだ正式には何も決まっていません」
「だから言ってる」
ズヌイ兄さんは目を細めた。
「今のお前は、欲しいものを欲しいと言うのが遅すぎる」
「ララさんは物ではありません」
「そういう話をしてねぇ」
「では、どういう話です?」
「本人に聞け」
「今はいませんよ!」
「帰ってきた時に聞け」
アーサーが楽しそうに身を乗り出した。
「それは私も賛成だな」
「どうしてアーサーまで」
「ララちゃんばかり言葉にしてるからね」
「俺も伝えています」
「『待っています』だけ?」
「十分でしょう」
「足りないねぇ」
「この話をするために呼んだんですか?」
「違う」
ズヌイ兄さんが地図を折り畳む。
俺の前へ押し出した。
「持っていけ」
「本当にいいんですか」
「何度言わせる」
地図へ手を伸ばす。
紙は厚く、端には使い込まれた跡があった。
ズヌイ兄さんが何年もかけて作った流通網。
商会の血管。
それが今、俺の手の中にある。
「兄さん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「利益が出るまで礼は要らねぇ」
「では、結果で返します」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
以前なら、こんな言葉は出なかった。
期待されることも、何かを託されることも、なるべく避けていた。
受け取れば、応えなければならない。
失敗すれば、渡した相手まで巻き込む。
だから最初から持たない方が楽だった。
けれど、今は地図を返そうとは思わなかった。
ズヌイ兄さんは俺を見ている。
やがて鼻で小さく笑った。
「少しは値段が上がったか」
「投資家が目の前で値段を吊り上げないでください」
「安く買うのが商売だ」
「買われるつもりはありません」
「そういうところが面倒なんだよ」
雨音が弱くなる。
窓の向こうの雲が薄れ、切れ間から月が覗いた。
白い光が執務室へ差し込み、卓上の交易路図を照らしている。
王国を走る無数の線。
そのいくつかが、確かに俺の領地へ伸びていた。
敵が味方になったわけではない。
兄弟の関係が急に良くなったわけでもない。
ズヌイ兄さんは損を減らし、利益を探している。
俺が使えないと分かれば、迷わず切るだろう。
それでも。
これまで俺を値踏みしていた目は、もう安物を見るものではなかった。
「帰るよ、ヤマタ君」
アーサーが立ち上がる。
「ズヌイも忙しいだろうし」
「ああ。商会の膿を出し切るまで眠れねぇ」
「寝ないと判断を誤りますよ」
「お前に言われたくねぇ」
「俺は最近休んでいます」
「ララに部屋を占拠されてただけだろ」
「どうして知っているんですか!」
「城中の噂だ」
「まだ一晩しか来てません!」
「一晩来たんだね」
アーサーが目を輝かせる。
「今のは言葉の間違いです!」
「あははっ。帰りながら詳しく聞こうか」
「話しません!」
地図を抱え、扉へ向かう。
開ける直前、ズヌイ兄さんの声が背中へ届いた。
「ヤマタ」
振り返る。
兄さんは卓の前に立ち、空になった杯を見下ろしていた。
「俺は王になれねぇ」
同じ言葉。
今度は、先ほどより静かだった。
「だからって、俺を敗者扱いするな」
「しませんよ」
「即答か」
「兄さん、負けた人に見えませんから」
「じゃあ何に見える」
少し考える。
卓上の帳簿。
赤い線。
広げられた交易路。
失ったものを数えた後、残ったものをすべて次へ回そうとしている男。
「次の商売を始めた人です」
ズヌイ兄さんの口元が、ほんの少し上がった。
「高くつくぞ」
「値引きしてください」
「断る」
「兄弟割引は?」
「ねぇ」
「厳しいですね」
「商人だからな」
扉を閉じる。
回廊へ出ると、雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から月光が落ち、濡れた床を白く照らしている。
俺は抱えた交易路図を見下ろした。
左手首の腕輪が、小さく震える。
青い石の中に、桃色の光が灯った。
『ヤマタ、着いたよ!』
ララさんの声が響く。
隣でアーサーが笑う。
「三十八回目で来たね」
「数えるのをやめてください」
『何の話?』
「何でもありません。無事に着いてよかったです」
『うん! ヤマタは何してたの?』
腕の中にある地図へ目を落とす。
複数の道が雨上がりの月光を反射していた。
「これからの話をしていました」
『私が戻った後の?』
「それも含めて」
『じゃあ、帰ったらいっぱい聞くね!』
「はい」
腕輪の光が消えない。
俺は袖で隠さず、そのまま歩き出した。