王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
朝の光が窓辺の白い机をなぞり、磨かれた木目の上に細い帯を落としていた。
王城の一角にある俺の私室は、広さだけなら王子相応なのだろうが、今は向かいに座る婚約者のせいで、妙に逃げ場のない空間に感じられる。
紅茶の湯気がゆるく立ちのぼる。
その向こうで、アーサーは青い瞳を細めながら、実に楽しそうに笑っていた。
こういう顔をしている時は、大体ろくでもない話が始まる。
「いやぁ、ヤマタ君。さっそく君の事で話題になっているよ」
軽い口調だった。
まるで、昨日の晩餐会で誰が転んだとか、その程度の噂話でも持ってきたみたいな言い方だ。
俺はカップを持ち上げかけた手を止め、半目で向かいを見る。
「……アーサーはかなり面白そうにしているだろ」
「もちろん」
否定すらしない。
むしろ待っていましたと言わんばかりに、アーサーは口元へ手を添えた。
紫の髪が肩から流れ、朝の光を受けて柔らかく艶めく。
見た目だけなら絵画にでもしたくなるような美人なのに、腹の中は多分この国の誰より黒い。
少なくとも、俺はそう思っている。
アーサーは椅子の背にゆったり身体を預けながら、くすりと笑った。
「それはそうだよ。貴族であるリアスがこちらの陣営に来たのは、かなり大きいからねぇ」
「まぁ」
それしか言えなかった。
否定しても仕方がないし、認め切るのも妙に気恥ずかしい。
リアス・グレモリー。
クル兄さんの妃候補だった彼女は、今では俺の妃の一人として扱われている。
事実だけ切り取れば派手だ。
王位争奪戦が始まって早々、末弟が第三王子の有力候補を横から持っていったのだから、城中がざわつくのも無理はない。
もっとも、持っていったなんて表現は、本人の意思を無視しすぎている気もする。
あれはあれで、彼女が自分で選んだ結果だ。
たぶん。
いや、そこは信じたい。
カップを口へ運ぶ。
少し冷めた紅茶が喉を滑っていく感触に合わせて、俺は小さく息を吐いた。
「クル兄さん、やっぱり噂になってるのか」
「そりゃあねぇ。表向きは平静を装っているみたいだけど、周囲はそう見てくれない。婚約者候補を弟に持っていかれた、となれば、面白がる人間はいくらでもいる」
「うわぁ……」
思わず顔をしかめる。
貴族社会の面倒くささは、こういう時に本気を出す。
クル兄さん本人がリアスにどれほど執着していたのかは分からない。
けれど、執着の有無と、面子を潰されたかどうかは別問題だ。
そして貴族は面子でめちゃくちゃ面倒なことをする。
俺がうんざりしていると、アーサーは机に肘をつき、指先で頬を支えた。
「だけど、ヤマタ君。少しは警戒した方が良いかもしれないよ」
その声色が、ほんの少し変わった。
さっきまでの、ただ楽しいだけの響きじゃない。
軽さは残っているのに、底の方に冷たいものが混じっている。
俺は自然と背筋を伸ばす。
「警戒?」
問い返すと、アーサーは笑みを薄くしたまま、こちらをまっすぐ見た。
青い瞳の温度が少し下がる。
こういう時のこの人は、本当に怖い。
「……君も知っていると思うけど、クルは警戒している。それだけじゃない、おそらくはズヌイは何かを行動すると思う」
「行動」
その言葉を口の中で転がす。
嫌な予感しかしない単語だった。
第四王子ズヌイ。
あの人は、表向きは人当たりがいい。
笑うし、冗談も言うし、貴族相手の受け答えも上手い。
けれど、あれを額面通りに受け取る人間は、たぶん長生きできない。
金の匂いがする場所に現れ、得になるなら平然と人を切る。
そういう噂を、俺は昔から山ほど聞いてきた。
アーサーはカップの縁をなぞりながら、さらりと言った。
「おそらく暗殺だろうね。だから、罠を仕掛けようか」
「……怖ぇ」
ほとんど反射だった。
真面目に返す前に、率直な感想が口からこぼれていた。
アーサーは一瞬だけきょとんとして、それから堪えきれないみたいに笑う。
肩が揺れ、長い髪が胸元で波打った。
「失礼だなぁ。私は君を守ろうとしているのに」
「守り方が物騒なんだよ」
「王位争奪戦だよ? 今さら何を言っているのさ」
それを言われると弱い。
実際、兄弟仲良く話し合いで決めるような生ぬるい舞台なら、とっくに開かれていない。
父上が公の場で始めた以上、これはそういう争いだ。
俺は額に手を当てたまま、椅子の背にもたれた。
「いや、分かってる。分かってるけどさ……もう少しこう、あるだろ。穏便な何かが」
「あるよ」
アーサーはあっさり言った。
その口調が逆に不穏で、俺は嫌な顔になる。
「例えば?」
「相手が動く前に動きを読んで、失敗させる」
「十分穏便じゃないだろ」
「じゃあ、相手に諦めてもらう」
「どうやって」
「失敗したら面倒だと思わせる」
「それ脅しだろ」
「場合によってはそうなるねぇ」
楽しそうに笑うな。
本当にこの人、こういう話になると生き生きするな。
俺がじとっと睨むと、アーサーは少しだけ身を乗り出した。
さっきまでの愉快そうな表情が、そのまま艶っぽいものへ変わる。
この切り替えの速さがずるい。
分かっていても調子が狂う。
「でも安心して、ヤマタ君」
低く落ちた声が、妙に耳に残る。
「君を簡単に殺させるほど、私は優しくないよ」
「優しいの基準が怖いんだって」
「褒め言葉かな?」
「違う」
即答したのに、アーサーは満足そうだった。
俺の返事そのものを楽しんでいる節がある。
本当に性質が悪い。
しばらく黙って、窓の外を見る。
中庭では朝露の残る芝が風に揺れていた。
平和そうだ。
少なくとも、暗殺だの罠だのという単語とは、まったく縁がなさそうな景色に見える。
けれど、王城の中身はそうじゃない。
リアスがこちらに来たことで、盤面は確かに動いた。
俺が意図して動かした部分もあるし、結果としてそうなった部分もある。
どちらにせよ、もう「何もしていない末弟」ではいられないらしい。
「……ちなみに」
俺は視線を外したまま口を開く。
「罠って、もう考えてるのか」
「もちろん」
間髪入れず返ってきた。
嫌な予感が当たる時って、なんでこうも早いんだろうな。
「聞かない方がいいやつ?」
「半分は」
「半分は聞いていいのかよ」
「ヤマタ君には舞台の中央に立ってもらう必要があるからねぇ。全部知らなくても困るけど、全部知ると顔に出そうだし」
「うわ、ひどい評価」
「事実でしょ?」
否定できなかった。
策を弄する顔には向いていない自覚がある。
多分、俺は何か隠そうとすると普通に顔に出る。
アーサーは満足そうに頷くと、再びカップを持ち上げた。
「大丈夫。今回もちゃんと上手くいくよ」
「その自信、どこから来るんだよ」
「君がいるから」
するっとそんなことを言う。
まっすぐ言われると、こっちの調子が狂う。
俺が言葉に詰まっていると、アーサーは楽しそうに目を細めた。
「ほら、そういう顔」
「どんな顔だよ」
「利用しやすくて、でも見ていて飽きない顔」
「褒めてないだろ、それ」
「もちろん。今のは本音」
くすりと笑う。
その表情はあまりにも綺麗で、だからこそ余計に怖かった。
花みたいに整った顔で、平然と人を罠にかける話をする。
しかも、その罠に俺まで組み込む気でいる。
見慣れてきたつもりだったけど、たまに本気で思う。
やっぱりこの人、俺の婚約者として大分おかしい。
それでも不思議なことに、嫌だとは思わない。
面倒だし、振り回されるし、怖い。
なのに、横にいないところを想像すると、それはそれで落ち着かないのだから困る。
俺は残っていた紅茶を飲み干し、カップを静かに置いた。
「……分かったよ。警戒はする」
「うん」
「でも、あんまり無茶はするなよ」
その言葉に、アーサーは少しだけ目を丸くした。
意外そうに瞬きをしてから、ふっと笑う。
「それ、君が言うんだ」
「俺だから言うんだよ」
アーサーは何も返さず、ただ楽しそうに笑っていた。
窓から差し込む朝の光が、その横顔をやわらかく照らす。
綺麗だな、と思う。
同時に、油断したら食われるな、とも思う。
たぶん、その両方が正しい。
この王位争奪戦がどこへ転がるのか、まだ俺には見えていない。
けれど少なくとも、盤上に立った以上、何も知らないふりではいられないらしい。
そして向かいの婚約者は、そんな俺の覚悟なんてお見通しだと言わんばかりに、唇の端を上げた。
「それじゃあ、次の一手を考えようか。ヤマタ君」
朝の空気はまだ少し冷たかった。
けれど、その一言を聞いた瞬間、胸の奥に別の緊張が静かに灯った。