王位争奪戦-ラスボス婚約者と共にネトリ戦記- 作:ボルメテウスさん
夜が深くなるにつれて、王城の気配はゆっくりと薄れていった。
昼間はあれほど人の気配に満ちていた廊下も、今は遠くで衛兵が巡回する足音を残すだけで、窓の外から差し込む月明かりが部屋の床を白く切り取っている。
俺は寝台の脇にしゃがみ込み、息を潜めたまま、薄い掛け布の盛り上がりを見つめていた。
そこに横たわっているのは俺本人ではなく、毛布と衣服でそれらしく形を整えた人形だ。
「うわぁ、マジかよ……」
思わず小さく漏れた声は、我ながら情けないほど乾いていた。
忠告されたその日の夜に本当に来るとは思っていなかった、とは言わない。
ただ、思っていたよりずっと早いし、思っていたよりずっと心臓に悪い。
俺の隣、同じように寝台の下へ身を隠しているアーサーが、肩を震わせるように笑った。
こんな状況でも面白がれるのは、この人くらいだろう。
「おぉ、思ったよりも早く来たねぇ」
囁く声はやけに弾んでいて、暗殺者を待ち伏せしているというより、芝居の幕が上がるのを待っている観客みたいだった。
俺は呆れ半分で横を見るが、薄闇の中でも青い瞳だけは妙に楽しそうに光っている。
その時だった。
窓ガラスが鋭く割れる音が、静まり返った部屋を一気に引き裂いた。
月光を背にした影が、迷いのない動きで室内へ滑り込んでくる。
小柄だ。
身軽で、無駄がなくて、躊躇もない。
着地と同時に寝台へ向いたその姿を見た瞬間、ぞくりと背筋が冷えた。
かなり距離が離れている。
飛び出したところで間に合わない。
そう頭では分かっていても、身体の方は勝手に力む。
「どうするの、これじゃ身動き取れないと思うけど」
半ば文句のつもりで囁くと、アーサーはまるで心配していない声音で返した。
「あぁ、大丈夫大丈夫っと」
その軽さに一瞬だけ腹が立ったが、次の瞬間、部屋の外から怒号が響いた。
「動くな!」
「囲め!」
重い足音が一斉に廊下を踏み鳴らし、扉が勢いよく開かれる。
潜ませていた衛兵たちが雪崩れ込むと、侵入者は一瞬だけ身体を翻し、逃げ道を探るように視線を走らせた。
だが、窓も扉もすでに塞がれている。
短い沈黙のあと、その影は観念したように武器を落とした。
数時間後。
騒ぎは表向きには抑え込まれ、俺たちは別室でその暗殺者と向き合っていた。
連れてこられたのは、少女だった。
年は俺たちより少し下か、あるいは同じくらいかもしれない。
短く整えられた髪の下で、鋭い目だけが妙に冷えている。
手首には拘束具がはめられていたが、泣き叫ぶでも喚くでもなく、ただ黙ってこちらを見返していた。
「彼女が暗殺者なのか」
そう口にすると、アーサーは椅子の背に身を預けたまま、面白そうに片目を細めた。
「そうだねぇ。……ふぅん」
そのまま少女を眺めていたかと思うと、ふいに唇の端を上げる。
「君、ズヌイの所にいたよね」
その一言で、少女の肩がわずかに揺れた。
本当にほんの少しだけだったが、今まで微動だにしなかった分、その動揺はむしろはっきり見えた。
「っ……」
否定は返ってこない。
代わりに伏せられた睫毛が、灯りの下に細い影を落とす。
アーサーは頬杖をついたまま、残酷なくらい明るい声で続けた。
「まぁ、暗殺に失敗した以上は、あの性格だから見捨てられるだろうね」
その言葉は、刃物より静かに刺さった。
少女は顔を上げなかった。
それでも、握られた拳だけが小さく震えている。
反論しないのではなく、反論できないのだと、それで分かった。
ズヌイ兄さんならやる。
命じたことすら知らないふりをして、切り捨てる。
それが一番得だと判断したなら、きっと迷いもしない。
「それは……」
思わず言葉が漏れたが、その先が続かなかった。
気の利いた慰めなんて浮かばないし、浅い同情でどうにかなる顔でもなかった。
少し迷ってから、俺は少女へ視線を合わせる。
「……えっと、君、名前は」
間を置いて、低い声が返ってきた。
「……リンカ」
短い返答だった。
それでも、自分から名乗ったことが少しだけ意外だった。
「リンカ、か」
その名を口の中で転がしてから、俺は息をつく。
アーサーが横で何か言いたげにこちらを見ていたが、今は無視した。
「……君がどこの所属か、細かいことはまだ分からないけど」
リンカの視線がゆっくり上がる。
冷たいはずの目に、行き場を失った色が混じっていた。
「もしよかったら、俺の所に来ないか」
部屋の空気が一瞬だけ止まった。
衛兵たちが息を呑み、リンカは目を見開く。
そして誰より先に反応したのは、案の定アーサーだった。
「えっ、何を言っているの、あなたは」
驚いた顔をしているくせに、声の奥に笑いが混ざっている。
完全に呆れているのではなく、予想外の一手を楽しんでいる時の顔だ。
リンカはまだ言葉を失ったまま、俺を見ていた。
切り捨てられると思っていたところへ、まるで逆の提案を投げられたのだから無理もない。
俺だって、上手い言い方ができている自信はない。
それでも、見捨てられた顔を見たあとで、このまま処分されるのを黙って眺めるのは、どうにも性に合わなかった。
「どうせ行き場がないなら、うちの陣営に来た方がまだマシだろ」
なるべく軽く言ったつもりだったが、我ながら不器用だ。
それでもリンカは、しばらく黙ったあと、ほんのわずかに唇を震わせた。
その横で、アーサーがくすりと笑う。
「やっぱり、君は面白いよ、ヤマタ君」
その声は甘かった。
けれど、そこに混じる熱は、いつもより少しだけ本気に近かった。