【完結】露蜜のカンバス~メスなボクでも幸せになりたい 作:渦螺しお
「か、川辺君!? 何で、ここに……」
東京美大・下野キャンパス。研究棟へ向かおうとしていたリオの前に、ここにいるはずのない男子学生が……思い出したくない男が立ちはだかった。
「リオに何としても逢いたくてさ。探し出すの、思ったよりずっと楽勝だったよ。ここでも君は目立ってるみたいだし」
二日前、駅で見かけてから後を追うのにしくじった川辺。その悔しさは、純粋な懐かしさを執着へと捻じ曲げていた。
昔とは違う、どこか歪んだ笑顔。リオは周りを少し気にしつつ小声で応じた。
「気持ちは嬉しいけど……ごめんなさい。正直、もう関わりたくないの。川辺君だけじゃなく、高校の頃の人たちみんな」
「そこまで……何があったってんだ? 何にも言わずに消えて。あれから、俺がどれだけ君に逢いたかったか、わかるか?」
リオは寂しげに川辺を一瞥すると、ふっと嘆息した。
「……やっぱり、何にもわかってないんだね。お願い、もう帰って」
目の前を小走りに去ろうとするリオの腕を、川辺は力強くつかんだ。
「痛っ」
「頼む、俺の話を聞いてくれ。少しでいいんだ」
美しい顔が歪むのを気にも留めず、川辺は少しきょろきょろし、わからないながらに、
「いやっ……ちょっと、離して」
リオを研究棟裏へと強引に連れ込むと、肩で息をしながら、バックパックからパステルブルーの巾着を取り出した。
「これ、リオのだろ?」
突然に、最も見たくないものを見せつけられ、リオは目を逸らした。
「知らない。それが……何?」
「嘘をつかないでくれ。これに俺の貸したCDが入ってた。大事に取っていたんだ。ほら、今でもちゃんと、君のいい匂いがする」
巾着に鼻をめり込ませ肺いっぱいに息を吸う姿に、リオはぞっとした。
「な? こうやって俺は、君のことを一瞬だって忘れたことがない。なのに君は、一方的に──」
「もうやめて!」
リオは叫んだ。生まれて初めて、怒りの目を人に向けた。
自分の都合を、自分の欲求を、自分勝手にぶつけてくる。こんなもの、電車の痴漢と何の変わりもない。それだけじゃない。あの時の想いをわざわざ掘り起こし、傷つけ、二重に踏みにじろうとする行為。
緊張の間が続く。やがて、とてつもない哀しさが降りて来て……琥珀色の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「お願いだから……もうボクのことは、忘れて。あなたが……嫌いだから」
小さな肩を震わせながら、辛い言葉を口に出す。川辺はそれを聞き、静かに逆上した。
「はっ、やっぱりな。若い男なんて眼中に無いってか。どうせ君、あの時から〝そういうやつ〟だったんだろ?」
露骨に侮蔑の眼差しを向けてくる川辺。リオはきょとんとした。
「……何のことを、言ってるの?」
「とぼけんな! だいたいおかしいと思ったんだよ。俺の部屋でもあんなに色っぽい声を出してさあ。昔からやってたんだろ、パパ活みたいなことをよお!」
川辺は指を打ち付けるようにしてスマホに触れると、呼び出した画像をリオに突きつけた。
「──っ!」
リオは愕然とした。そこには、自分と神代が駅で別れた時の様子が、はっきりと写っていた。
「何で、こんな写真を……」
「偶然通りがかったんだよ。おっさんとイチャイチャしやがって。思い出すだけでムカつくぜ。こいつをLyNEで高校ん時のやつらにバラまいたら、どうなるかな」
リオの顔から血の気が引いていく。自分はまだいいとしても、神代にだけは絶対に迷惑をかけたくない。リオはもう、涙を流す余裕さえもなくなった。
「そんなひどいこと、しないで。ボクができることなら、何でもするから」
「何でも?」
川辺はすっかり邪に染まった顔で、黒のシアーシャツから透ける白い肌と胸のラインを、嘗め回すように見た。
「じゃあさ、ヤらせてよ」
「なっ……?」
「このおっさんに抱かれてんだろ? それと同じことをやってくれって言ってんだよ!」
理解が追い付かない。侮蔑する相手を性の対象にして、何が楽しいのか。しかしどう混乱しようが、リオが答えることは、ひとつしか決められていない。
「……わかった。それで、その画像を消してくれるなら」
ただただ虚無な反応しかない身体に従い、淡々と応じる。川辺は卑屈に引きつった笑い声を出した。
「へ、へ。そんなにこのおっさんが大事か。こいつはいいや。じゃあ早速今日でも──」
「何をさせようと言うんだ? 私の大事な学生に」
背後からの声に、リオは驚いて振り向く。そこには、
「な、な、何だよあんた!」
「さっきから君がバカでかい声で『おっさん』呼ばわりしていた当人だよ。カワベ君と言ったか? 初めまして、東美大准教授の神代だ」
「せ、先生!? どうして」
「井山君が変な男に引っ張られていくのを、
口角を上げるも、目は笑っていない。神代は川辺に向かって、自分のスマホをかざした。
「キャンパスに用もなく入るのは不法侵入。おまけに在学生の恐喝に加え、暴行未遂と。なかなかやらかしてくれたね。一部始終、記録させてもらったよ」
朗々と語られる内容を聞くにつけ……川辺は逆に顔面を紅潮させ、神代へつかみかかった。
「クソがぁっ!」
「おっと」
「ぐはっ!」
神代はさっとかわし、足を引っかけて川辺を転倒させた。
「暴行未遂のおかわりとは、ずいぶんと腹が減ってるんだな。警察の手を煩わせるのも忍びないが、こんなことに税金を使われるのは、市民として遺憾だ」
無様にうつぶせになる川辺に、嫌味たっぷりで語りかける。川辺はここでやっと、顔を青くした。
「け、警察? やや、やめてくれっ」
「あ?」
「やめて、ください。申し訳ありませんでした!」
素早く起き上がって土下座をする小物ぶりに、神代は呆れ顔になった。
「とりあえず、そのスマホを渡してもらおうか」
正座のまま、おずおずと手渡す。神代は受け取るなり、外壁で斜めに立てかけると、思いっきり踏みつけた。メキリと鈍い音を立て……一撃でスマホは〝くの字〟に折れ、画面は蜘蛛の巣になった。
「あああ! お、俺のスマホ!」
「すまんすまん、つい足が滑って……お、SDの部分も開いたな。こいつはもらっておこう」
中のチップを摘まみ出すと、神代は近くの植え込みへスマホを放った。
「まあ、こんなところか。で……井山君。この無作法な男をどうしたい?」
リオはすっかり安堵した様子で、憐れむように川辺を見下ろした。
「ボクは、特に……もう二度と顔を見せないって、誓ってくれれば」
「誓う、誓いますから! 警察だけは許してください」
「君に発言権は与えていない。ふむ……そうだな」
神代は腕を組み、しばし思い巡らす。
「幸いにも今日はもう雑事をこなす以外に予定はない。カワベ君、もう少し付き合ってもらおうか」
「先生、いったい何を」
「井山君も一緒に来たまえ。少し面白いことを思いついたんでね」
小首をかしげるリオの肩をぽんと叩く。そして……ガタガタと震えっぱなしの川辺を一瞥し、神代はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
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