fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
ロンドン郊外、深い森の中に佇むエーデルフェルト別邸。
その豪奢な鉄柵の前に、静かに、そして一切の足音を立てずに一人の女性が降り立った。
黒い法衣に身を包んだ、青色の髪の女性。
丸い眼鏡の奥にある瞳は、一切の感情を排した冷徹なガラス玉のように透き通っている。
聖堂教会、その中でも異端審問と代行を司る狂信的な殺戮部隊『埋葬機関』。その第七位に座する代行者――シエルであった。
(……ここが、カレン・オルテンシアが堕ちたという魔術師たちの巣窟……)
シエルは、眼鏡を中指で押し上げながら、巨大な洋館を見上げた。
彼女の異常なまでに発達した魔力感知能力が、屋敷全体を覆う常軌を逸した「気配」を正確に捉えている。
魔術の世界でも指折りの名門の魔術師たち、時計塔の君主クラスの魔力、さらには『魔法使い』の波長までが複雑に絡み合っている。それだけでも教会の教義に反する絶対的な「異端」の坩堝だが、それ以上にシエルの鼻を突いたのは――むせ返るような、途方もなく甘く、濃厚な『愛欲とオスの熱』の匂いだった。
(……吐き気がします。これほどの魔術師たちが揃いも揃って、まるで発情した獣のように一つのフェロモンに群がっているなんて。……カレンも、この異常な熱気に当てられて教義を忘れたというのなら。私が、すべて浄化するまでです)
シエルの両手指の間に、投擲用の概念武装『黒鍵』がシャキン、と冷たい金属音を立てて現れる。
彼女は、鉄柵を軽々と跳躍し、エーデルフェルト邸の広大な前庭へと足を踏み入れた。
その、まさに瞬間だった。
『――空間推移、確認。対象の座標を第四防衛ラインへ強制スライド』
シエルの視界が、ぐにゃりと歪む。
本来ならまっすぐエントランスに続くはずの石畳が、まるで万華鏡のようにねじれ、彼女の身体は屋敷の裏手にある、強固な石造りの迷宮(庭園の地下に作られた魔術的な空間ループ)へと一瞬にして転移させられていた。
「……空間の分断と、結界魔術。随分と手の込んだ歓迎ですね」
シエルは周囲を警戒しながら、冷たく呟いた。
別邸の地下、モニターと水晶球が並ぶ防衛管制室。
そこでは、遠坂凛、ルヴィアゼリッタ、そして大人のレディへと成長したオルガマリーの三人が、優雅に紅茶を傾けながら結界の出力を調整していた。
「……ふふっ。まんまとレッドカーペットの上に乗ってくれましたわね。あの泥靴で、あの方や子供たちが憩う美しい庭園を荒らさせるわけにはいかないもの」
オルガマリーが、艶やかな銀髪をかき上げながら、金色の瞳を悪戯っぽく細める。かつては怯えるばかりだった少女は、愛する男に骨の髄まで女にされ、今や天体科の君主としての知性と、余裕に満ちた極上の妻の顔を併せ持っていた。
「当然ですわ。わたくしたちエーデルフェルトの屋敷の壁一枚、高価な調度品一つたりとも、教会の犬の暴力で傷つけさせるわけにはいきませんもの」
ルヴィアが扇子でモニターを指し示す。
「兄上(Ⅱ世)も言っていたじゃないか。彼女は『不死身』だとね。まともに殺し合えば、屋敷が更地になる。……だから、殺さずに、壊させずに、一直線に『あの方』の待つ部屋へと誘導する。これが一番賢い戦い方さ」
ライネスが、後ろからモニターを覗き込んでニヤリと笑った。
空間ループの中で、シエルは無数の黒鍵を放ち、幻影の壁を次々と破壊していく。
しかし、どんなに魔術回路を物理的に粉砕しても、空間はゴムのように伸び縮みし、彼女の歩みを「特定の方向」へと滑らかにスライドさせていく。
(……おかしい。私を殺そうという『殺意』が全く感じられない。ただ、私を何処かへ流し込もうとしている……?)
シエルの優れた戦術眼が、罠の意図を察知する。
「小賢しいですね。……小細工など、すべて力で粉砕するまでです」
シエルの足元から、尋常ではない魔力が膨れ上がった。
彼女の背後に、巨大な鉄の塊――千年クラスの概念武装、転生批判『第七聖典』が召喚される。吸血鬼すら物理的に殴り殺す、絶対的な破壊兵器。
「……消し飛びなさい!」
シエルが第七聖典の引き金を引こうとした、その時。
『――あら。私の王子様のお城で、そんな物騒なオモチャを振り回すのは、マナー違反よ?』
ふわりと。
空間全体に、甘く、けれど背筋が凍るような全能の囁きが響き渡った。
沙条愛歌である。
「なっ……!?」
シエルの目が驚愕に見開かれた。
彼女の腕の中で、必殺の概念武装であるはずの『第七聖典』が、突如としてただの重たい「鉄の塊」へと変質し、魔力の脈動を完全に停止してしまったのだ。
根源接続者による、理不尽極まりない概念の封殺。
「くっ……! 第七聖典が……沈黙した!? 一体、どれほどの怪物がこの先に……っ」
武装を封じられ、さらに青子やバゼットによる物理的な牽制(これもまた、彼女を傷つけない程度の絶妙な圧力)に背後から急り立てられ、シエルはやむを得ず、結界が『唯一開いている道』へと全速力で駆け込むしかなかった。
(罠だと分かっていても、進むしかない。……この先に待ち受ける異端の長を、私の手で必ず――!)
シエルは、修道服の裾を翻し、最後に立ちはだかる重厚なオーク材の扉を、渾身の力で蹴り破った。
「――そこまでです、異端の魔術師ッ!!」
バァンッ! と凄まじい音を立てて扉が開け放たれる。
シエルは両手に黒鍵を構え、全身の魔力を限界まで高め、室内にいるであろう邪悪な魔術師たちに向けて殺意を放った。
しかし。
「…………へ?」
シエルの冷徹な思考回路が、完全に停止した。
そこに広がっていたのは、血みどろの儀式場でも、おぞましい魔術工房でもなかった。
そこは、エーデルフェルト邸の広大で清潔なプライベートダイニング。
そして、部屋中を満たしていたのは、邪悪な魔力などではなく――。
「あ、いらっしゃい! ちょうど今、ルーが煮込み終わったところだよ!」
桜色の髪をふわりと揺らし、なぜか『フリフリのエプロン』を身につけた太陽のような青年が、巨大な鍋をお玉でかき混ぜながら、満面の笑みでシエルを振り返ったのだ。
「え……?」
シエルの鼻腔を、強烈なスパイスの香りが容赦なく殴りつけた。
カルダモン、クミン、コリアンダー……数え切れないほどの極上の香辛料が複雑に絡み合った、シエルがこの世で最も愛してやまない食べ物。
そう、『超絶品の手作りカレー』の匂いである。
「お腹すいてるでしょ? 美沙夜ちゃんたちが特別にブレンドしてくれたスパイスで作ったんだ! カレンから、キミがカレーすっごく好きだって聞いたからさ!」
アストルフォは、両手に黒鍵を構え、殺気を放ちまくっている暗殺者(シエル)に対し、一切の警戒も敵意も抱くことなく、ホカホカと湯気を立てるカレー皿を両手で持ち、無防備な足取りで彼女の目の前へと歩み寄ってきた。
「な、何を……貴方は、一体……っ」
シエルは後退りしようとしたが、足が動かない。
カレーの匂いだけではない。
近づいてくる彼から、火傷しそうなほどの圧倒的な『オスの体温』と、むせ返るような甘い薔薇のフェロモンが、空間の空気をじっとりと重くしてシエルの肌にまとわりついてきたのだ。
「ほら、熱いうちに食べて! 絶対美味しいから!」
アストルフォは、シエルが黒鍵を握りしめているその右手に、自らの大きくて熱い手をそっと重ね、カレー皿の温もりごと彼女の手に握らせた。
「ひゃうっ……!?」
シエルの口から、代行者らしからぬ、ひどく可愛らしい悲鳴が漏れた。
彼の手が触れた瞬間。修道服の布地を完全に無視して、彼の手のひらから、信じられないほど甘く、深く、そして優しい熱が直接流れ込んできたのだ。
(あつ、い……。なんだ、この熱は……。私の、不死身の肉体を……内側から、溶かすような……っ)
視線が、至近距離で深く絡み合う。
彼の紫水晶の瞳には、シエルを恐れる色も、魔術師としての計算も一切ない。ただ、目の前の女の子にお腹いっぱいご飯を食べて笑顔になってほしいという、純度百パーセントの優しさだけがあった。
「お仕事、すっごく頑張ってきたんでしょ? 手、少し冷たくなってるよ。ボクが、いっぱいいっぱい温めてあげるね」
アストルフォの顔がさらに近づく。
彼の熱い吐息が、シエルの鼻先を直接撫でた。
「あ……っ、ぅ……っ」
シエルの手から、力なく黒鍵が床へと滑り落ちた。
血みどろの戦場と、孤独な不死の呪いの中で生きてきた彼女の冷たい心が。
極上のカレーの匂いと、それを遥かに凌駕するほどの甘く熱いオスのフェロモンの前に、今、音を立ててドロドロに溶け出そうとしていたのだった――。