fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
カラン、と。
埋葬機関第七位の代行者・シエルの手から滑り落ちた黒鍵が、床の大理石に当たって冷たい音を立てた。
彼女の両手は今、暗殺用の武器ではなく、ホカホカと湯気を立てる純白の陶器の皿を無防備に抱え込まされている。
「ほら、冷めないうちに食べてみて! カレンから、キミがすっごくカレーが好きだって聞いたから、愛歌ちゃんたちに手伝ってもらって、一番美味しいのを作ったんだ!」
桜色の髪を揺らし、フリフリのエプロンをつけたアストルフォが、至近距離で満面の笑みを向けてくる。
彼から放たれる、むせ返るような薔薇の香りと圧倒的なオスの体温が、カレーの芳醇なスパイスの香りと混ざり合い、シエルの脳髄を直接揺さぶっていた。
(……くっ、この男。私が殺意を向けているのに、全く警戒していない。いえ、それ以前に……この距離、この熱……っ)
シエルは、自らの身体に起きている異常な反応に戦慄していた。
「不死身」の肉体を持つ彼女は、あらゆる苦痛や刺激に対して耐性を持っている。だというのに、彼の大きな手が自らの手に重なっている部分から、まるで致死量の媚薬を直接血管に流し込まれたかのような、甘く、痺れるような熱が全身を駆け巡っているのだ。
だが、それ以上にシエルの理性を狂わせていたのは――目の前の皿から立ち昇る、暴力的なまでのカレーの芳香だった。
(クミン、コリアンダー、ターメリックの基本構成は当然として……この奥深い甘みとコクは、果物のチャツネと、極上のブイヨン? いえ、それだけではない。数十種類に及ぶスパイスが、寸分の狂いもなく黄金比で調合されている……!)
生粋のカレー愛好家(マニア)であるシエルの脳内で、戦闘思考よりも先に、カレーの分析回路が勝手にフル回転を始めてしまっていた。
「……毒が、入っているかもしれません」
シエルは、必死に代行者としての冷徹な声を取り繕って睨みつけた。
「ええっ!? そんなことしないよ! ボク、キミとお友達になりたいだけだもん!」
アストルフォは慌てて首を横に振ると、皿の端に添えられたスプーンを自ら手に取り、カレーを一口すくってパクリと口に入れた。
「んんっ! 美味しい! ほら、ボクが食べても全然平気だよ! アーンして!」
アストルフォは、自分が口をつけたばかりのスプーンで再びカレーをすくい、シエルの唇のすぐ前へと差し出した。
「なっ……!?」
間接キスなどという次元ではない。彼が唇をつけたスプーンから、オスの唾液の匂いと熱が、カレーの香りと共に直接鼻先を犯してくる。
「食べないの? すっごく一生懸命作ったのに……」
彼が、少しだけ悲しそうに紫水晶の瞳を潤ませる。
その、一切の打算のない純粋な瞳と、圧倒的なフェロモンの前に、シエルの強固な防壁(ATフィールド)がピシリと音を立ててひび割れた。
(……一口。一口だけ食べて、この男の隙を作ってから、急所を貫く。それだけです)
シエルは自らにそう言い聞かせ、微かに震える唇を開き、彼が差し出したスプーンをパクリと咥え込んだ。
「――――っ!!」
瞬間、シエルの全身に雷が落ちた。
(な、なんだ、この味は……ッ!?)
口の中に広がったのは、単なる辛さではない。計算し尽くされたスパイスの刺激が舌を踊らせた直後、上質な肉の旨味と野菜の甘みが波のように押し寄せ、最後に爽やかなカルダモンの香りが鼻腔を吹き抜けていく。
沙条愛歌や玲瓏館美沙夜といった、世界最高峰の魔術師たちの超絶技巧によるスパイス調合。そこに、アストルフォの「食べさせてあげたい」という純度百パーセントの愛情(熱)が込められた、文字通り『至高のカレー』。
「……カルダモンとクローブの焙煎タイミングが完璧……。それに、この奥深いコクは、まさか、最高級のフォンドボーをベースに……っ。いえ、玉ねぎの飴色化にも、ただ炒めるだけでなく、魔術的な火加減の微調整が……」
シエルは、スプーンを咥えたまま、うわ言のようにブツブツと呟き始めた。
「あはは! キミ、やっぱりカレーすっごく詳しいんだね! 当たりだよ、玉ねぎは美沙夜ちゃんが付きっきりで炒めてくれたんだ!」
アストルフォが、嬉しそうにシエルの頭を撫でる。
「ひゃうっ……」
頭を撫でられた瞬間、シエルの口から、甘く艶めかしい吐息が漏れた。
カレーの辛さによる発汗か、それとも彼の手から伝わる圧倒的なオスの熱のせいか。シエルの雪のような肌はほんのりと桜色に上気し、丸い眼鏡の奥の瞳が、急速にトロンと水気を帯びていく。
(だめ、です……。この男の熱に当てられたら……不死身の私でも、頭の芯が、ドロドロに溶かされて……ただの、雌に……っ)
シエルは、自らの子宮の奥底で、かつて感じたことのない「発情」の疼きが生まれ始めていることに恐怖した。
このまま無防備に彼の熱を受け入れ続ければ、間違いなく遠坂凛やルヴィアたちと同じように、彼なしでは生きていけない身体にされてしまう。
シエルは、必死に理性を総動員し、冷徹な代行者としての思考回路を強制再起動させた。
(……落ち着きなさい、私。この男は、力押しではどうにもならない『規格外』。まともに敵対すれば、あの全能の少女(愛歌)や他の魔術師たちに屋敷ごと消し飛ばされる。ならば……)
シエルは、空になったスプーンをゆっくりと口から離し、アストルフォを真っ直ぐに見つめ返した。
「……負けました。これほど美味しいカレーを作られ、そして貴方のような温かい瞳で見つめられては……私の中にあった敵意など、馬鹿らしくなってしまいました」
シエルは、まるで憑き物が落ちたかのような、たおやかで美しい微笑みを浮かべた。
「聖堂教会には、私から上手く報告しておきます。……どうか、私も貴方の側に置いてはいただけませんか?」
(……ひとまずは、この甘い檻に屈したフリをして、警戒を解かせる。この男の懐に潜り込み、確実に急所を貫ける『隙』を窺う。それが、埋葬機関第七位としての私の任務……!)
シエルの完璧な面従腹背。
しかし、その彼女の冷徹な決意など露知らず、アストルフォは「やったー!」と歓声を上げ、カレー皿を持ったままのシエルを、その細い腰ごとがばっと力強く抱きしめた。
「わぷっ!?」
「シエルも、今日からボクたちの家族だね! すっごく嬉しいよ! カレー、まだまだいっぱいあるから、おかわりしてね!」
「あ、あつ……っ。アストルフォ、さん……っ、そんなに強く、抱きしめられたら……っ」
シエルの計算など一瞬で吹き飛ばす、理不尽なまでの抱擁と密着。
分厚い法衣の上からだというのに、彼の胸板の硬い筋肉の感触と、火傷しそうなほどの体温が直接素肌に押し付けられ、シエルは計算(演技)ではなく、本能からの甘い嬌声を漏らしてしまっていた。
***
その光景を、別室の防衛管制室の巨大なモニター越しに、ヒロインたちが見下ろしていた。
「……ふふっ。教会が誇る最強の代行者も、大根役者ですこと。あんなに身体を強張らせて、『貴方に屈しました』なんて、誰が信じますの」
ルヴィアが、扇子越しにオーッホッホと冷たく、しかし底意地の悪い笑いをこぼす。
「ええ。眼の奥にはまだ、冷たい殺意が残っているわ。……うちの馬鹿旦那に抱きしめられて、脚の震えを隠しきれていないけれど」
凛が、モニターに映るシエルの紅潮した顔を指差して溜息をつく。
「おそらく、あの方に屈したフリをして懐に潜り込み、寝首を掻くつもりなのだろうね。……教会の犬らしい、小賢しくも正しい戦術だ」
ライネスが、腕を組みながらモニターを睨み据えた。
「なら、どうするの? あの泥棒猫、今すぐ私が燃やしてきてもいいのよ?」
愛歌が、一切の感情の無い声で、指先に巨大な魔力の光を灯す。
「いいえ、愛歌さん。それには及びません」
オルガマリーが、銀髪を優雅に揺らして進み出た。彼女の金色の瞳には、アストルフォの妻としての絶対的な余裕と、同性の弱点を知り尽くした極上の雌の光が宿っている。
「彼女は、あの方の『熱』の恐ろしさを全く理解していない。……罠を張るつもりで自らあの方の懐に飛び込むなら、私たちはただ、彼女が絶対に逃げられないように、外堀を埋めて差し上げればいいだけ」
オルガマリーは、モニター越しのシエルに向かって、艶やかに微笑んだ。
「あの不死身の代行者が、殺意を装いながらも、次第にあの方の放つ圧倒的なオスのフェロモンと優しさに抗えなくなり、子宮の奥底からドロドロに溶かされて、最後には泣いてあの方に快楽を乞うようになる。……ふふっ、極上のエンターテインメントじゃありませんこと?」
「同感だわ、オルガマリー。……私たちで、あの教会のシスターの冷たい理性を、少しずつ、じわじわと崩壊させてあげましょう。私たちの『家族』にふさわしい、可愛い雌になるまでね」
青子もまた、魔法使いとしての威厳をかなぐり捨て、極悪な(そして最高に楽しそうな)共犯者の笑みを浮かべた。
最強の代行者シエルの、孤独で冷徹な面従腹背。
しかし彼女はまだ知らない。自らが飛び込んだ先が、決して抜け出すことのできない底なしの愛と快楽の沼であり、周囲の女たちがすでに彼女を『新たな姉妹』として調教(歓迎)する気満々であるということを。
エーデルフェルトの魔の城で、シエルの絶望的で甘すぎる陥落へのカウントダウンが、今、静かに始まろうとしていた――。