fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
重く垂れ込めた灰色の雲。霧雨に濡れて鈍く光る石畳。
地中海の陽気な気候から一転、イギリス・ロンドンは、魔術世界の総本山たる『時計塔』を抱える街にふさわしい、重厚でどこか陰鬱な空気に包まれていた。
「……あーあ。相変わらず、陰気な街ね。太陽の光を何日見てないのかしら」
黒いトレンチコートの襟を立てながら、蒼崎青子は辟易したようにため息をついた。
その隣で、彼女と一つの大きな傘に入っているアストルフォは、全く気にした様子もなく、むしろ目を輝かせて周囲の古いレンガ造りの街並みを見回している。彼の桜色の髪と、青子が買い与えた現代風のカジュアルな白いジャケット姿は、この灰色の街においてひどく鮮烈な色彩を放っていた。
「そう? ボクは結構好きだよ、この街! なんだか秘密がいっぱい隠されてそうじゃないか!」
「あんたはどこに行っても楽しそうね。……ほら、はぐれないでよ。この辺りは名門の魔術師たちのテリトリーが複雑に絡み合ってるんだから」
青子はそう言って、傘の柄を持つ手をアストルフォの腕にそっと絡ませた。
南欧での熱い夜を経て、二人の距離感は以前とは全く違うものになっている。最強の魔法使いとしての顔の下に隠された、一人の女としての柔らかな独占欲。アストルフォもそれを嬉しそうに受け入れ、彼女の肩を抱き寄せた。
「わかってるよ、青子。ボクの青子に手を出そうとする悪い魔術師がいたら、片っ端からやっつけてあげるから!」
「ふふっ、頼もしいこと。……でも、今日用事がある相手は、力押しじゃどうにもならない厄介な一族なのよ」
二人が歩みを進めた先、ロンドン郊外の一等地に、ひときわ豪奢で広大な敷地を持つ洋館が見えてきた。
高い鉄柵に囲まれたその邸宅の門には、二つの天秤を象った豪奢な紋章が掲げられている。
「ここは……?」
「『エーデルフェルト』。時計塔でも有数の資産と影響力を持つ、名門中の名門よ。ちょっと彼らが抱え込んでる特許(パテント)について、交渉しなきゃいけないことがあってね」
門番の使い魔に青子が来訪を告げると、重厚な鉄扉が音もなく開いた。
美しく刈り込まれた広大な庭園。しかし、青子は館に入る直前、少しだけ面倒そうに眉をひそめてアストルフォを振り返った。
「悪いけど、あんたはこの庭で待っててくれる? エーデルフェルトの当主候補は、とにかくプライドが高くて面倒なの。あんたみたいな得体の知れない英霊を連れて入ったら、交渉の前にひと悶着起きるのが目に見えてるから」
「えー! 青子と離れるの、つまんない!」
「すぐ終わらせてくるから。大人しく待ってたら、後でたっぷり……ご褒美、あげるから」
青子は周囲に誰もいないことを確認すると、背伸びをしてアストルフォの唇にちゅっ、と熱いキスを落とした。
「……約束だよ!」と破顔するアストルフォを残し、青子は館の中へと消えていった。
***
霧雨が静かに降り続くエーデルフェルト邸の庭園。
アストルフォは青子から渡された傘を差しながら、見事な造形を見せる生け垣や彫刻の間を散策していた。
「んー、暇になっちゃったな。……おや?」
ふと、庭園の奥に設えられた、ガラス張りの美しい温室が彼の目に留まった。
引き寄せられるように近づいたアストルフォは、ガラス越しに『彼女』の姿を見つけた。
色とりどりの薔薇が咲き誇る温室の中で、一人静かに花の手入れをしている少女。
エーデルフェルトという名門にふさわしい、上質で仕立ての良い紫色のドレス。しかし、それ以上に目を引いたのは、彼女自身の持つ、透き通るような美しさだった。
夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪。白磁のように滑らかな肌。そして、どこか憂いを帯びた、吸い込まれるような紫の瞳。
彼女の名は、桜・エーデルフェルト。
遠坂家の次女として生まれながら、冬木での聖杯戦争が起きなかったこの世界線において、父・時臣の計らいによりエーデルフェルト家へと養女に出された少女。
間桐の虫蔵という地獄を知らず、名門の令嬢として大切に育てられた彼女の魔術回路は、本来の「虚数」の属性を清らかに保ったまま、美しく、そして強大に開花していた。
しかし――。
(……すごく綺麗な子。でも、なんだか……)
ガラス越しに見つめるアストルフォの野生の勘は、彼女が放つ微かな「冷たさ」を正確に感じ取っていた。
名門の令嬢としての優雅な振る舞いの奥底に隠された、ひどく静かで、諦観に満ちた孤独。
自分は本当の家族から手放された存在なのだという、根源的な空虚感。どれだけエーデルフェルトの義姉(ルヴィア)や周囲から大切にされようとも、彼女の心の底には「自分は魔術師としての優秀な『部品』として取引されたのだ」という、凍りついた自己評価が横たわっていた。
「……」
桜は、自分の視線に気づいたように顔を上げ、ガラス越しの怪しい侵入者(アストルフォ)と目を合わせた。
彼女は僅かに目を丸くした後、静かに温室の扉を開けて外へ出てきた。
「……あなたは?蒼崎先生のお連れの方でしょうか。このような雨の中、庭を歩き回るのは感心しませんよ」
鈴を転がすような、淑やかで美しい声。
しかし、その声色には、他者との間に明確な線を引くような、微かな拒絶と警戒が混じっていた。
「やっほー! ボクはアストルフォ! 青子の用事が終わるまで、ここで待ってるように言われたんだ。キミ、すっごく綺麗な髪をしてるね! お花みたいだ!」
警戒などどこ吹く風。アストルフォは満面の笑みで傘を傾け、桜の懐へと一切の躊躇なく踏み込んだ。
「えっ……?」
桜が後ずさるより早く、アストルフォは彼女と一つの傘の下へと入り込んだ。
ロンドンの冷たい雨の匂いが遮断され、代わりに彼から漂う、花のように甘く、それでいてひどくオス味を帯びた香りが、桜の鼻腔をふわりと満たした。
「ちか……近いです、あなた。それに、初対面の方に対して、随分と馴れ馴れしい……」
「そう? だって、キミがすごく寂しそうな顔をしてたから、放っておけなくて」
「……!」
桜の肩が、微かに跳ねた。
温室で花を見つめていた時の、自分でも無意識の内に作っていた孤独な表情。それを、出会って数秒の、得体の知れない青年に見透かされたことに、彼女は動揺を隠せなかった。
「私は、寂しくなどありません。エーデルフェルトの次期当主候補として、何一つ不自由のない生活を与えられていますから」
それは、自分自身に言い聞かせるような、氷のように冷たく、理路整然とした魔術師としての模範解答だった。
「ふーん。頭ではそう思ってるのかもしれないけど、身体は正直みたいだよ?」
アストルフォの大きな手が、雨の冷気で少しだけ冷たくなっていた桜の白い手を、ふわりと包み込んだ。
「あっ……!」
桜の口から、驚きの声が漏れる。
彼の手のひらから伝わってくるのは、常人を遥かに超える、火傷しそうなほどの圧倒的な熱量だった。
それは、彼女の心の中にずっと横たわっていた「自分は不要なものとして譲渡された」という冷え切った感情を、物理的な熱で直接溶かしにくるような、強烈な温もり。
「冷たいね、キミの手。ほら、魔術なんて使わなくたって、誰かに温めてもらえばすぐにポカポカになるんだよ」
「や、やめてください……離して……っ」
桜は手を振り払おうとした。しかし、アストルフォのしなやかな指先は、彼女の指と深く絡み合い、決して逃がそうとはしなかった。
それどころか、彼はさらに一歩、桜へと距離を詰めた。
二人のつま先が触れ合うほどの至近距離。傘という狭い密室の中で、アストルフォから発せられる熱気が、桜の全身をじっとりと包み込み始める。
「キミは、綺麗な箱の中に大事に飾られてるお人形じゃない。……血が通ってて、温もりを欲しがってる、一人の女の子だ」
「な、なにを……っ、あなたのような人に、私の何がわかるというのですか……っ!」
桜の紫の瞳が、僅かに潤みを帯びてアストルフォを睨みつけた。
それは、彼女が初めて見せた、理性を欠いた「感情」の露露だった。
アストルフォは、その潤んだ瞳を愛おしそうに見つめ返し、ゆっくりと、彼女の顔へと自分の顔を近づけていった。
「わからないよ。だから……もっと、キミのことをボクに教えて?」
彼から吐き出された熱い息が、桜の震える唇を掠めた。
息遣いが混じり合うほどの距離。心臓が、自分のものではないように激しく高鳴り始める。
エーデルフェルトの令嬢としての優雅な仮面が、この無邪気で、残酷なほど真っ直ぐな熱を持つ騎士の引力によって、音を立てて剥がれ落ちていく。
ロンドンの冷たい雨音だけが響く静寂の庭園で、桜・エーデルフェルトの凍てついた心を溶かす、濃密で甘い熱の侵食が、今まさに静かに始まろうとしていた――。