fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
エーデルフェルト別邸にあてがわれた、豪奢なゲストルーム。
深夜の静寂の中、シエルは分厚い遮光カーテンを閉め切り、部屋の隅でひざまずいて祈りの姿勢をとっていた。
『――此処は、文字通りの魔窟です。時計塔の君主クラスが複数、魔法使い、さらには全能の根源接続者までが、ただ一人の異端(オス)の庇護下にあります。……ええ、私は現在、彼らに屈したフリをして懐に潜り込んでいます』
もっとも、今の彼女の口から紡がれているのは、神への祈りではない。
聖堂教会、埋葬機関の枢機卿へ向けた、暗号化された念話による定期連絡だった。
『対象の無警戒な隙を突き、私の黒鍵で確実に心臓と霊核を破壊します。……ええ、ご安心を。私に迷いはありません。主の敵は、必ずこの手で』
通信を切り、シエルはゆっくりと立ち上がった。
丸い眼鏡の奥の瞳には、代行者としての冷徹な光が宿っている。
(……そうです。私は埋葬機関第七位。不死の呪いを受けた、教会の兵器。……あんな、スパイスの調合が完璧すぎる極上のカレーと、少しばかり顔がいい男の甘い言葉で、懐柔されるはずがありません)
シエルは、自らの頬を両手でピシャリと叩き、気合を入れた。
昨日の昼、あの理不尽なまでの温もりとカレーの匂いに一瞬だけ理性を奪われかけたのは、ただの長旅の疲労と空腹のせいだ。そう、自らに強く言い聞かせる。
(奴らは、私が完全に屈したと思い込んでいる。ならば、決行は明日の昼下がり。あの男が一人で無防備に微睡んでいる隙を狙い、一撃で仕留めて、この異常な館から脱出する……!)
***
翌日の午後。
うららかな春の陽射しが差し込む、別邸の広大なサンルーム。
シエルの予測通り、アストルフォはふかふかの巨大なソファーに横たわり、無防備な寝息を立てていた。子供たち(イリヤや美遊たち)は中庭で遊んでおり、他の魔術師の女たちの気配もこの部屋にはない。
(……好機)
シエルは、修道服の衣擦れの音すら完全に殺し、静かに、影のようにサンルームへと滑り込んだ。
彼女の右手には、すでに魔力で編まれた投擲用概念武装『黒鍵』が握られている。
(首の頸動脈か、あるいは心臓か。……確実に急所を貫き、息をさせずに終わらせる)
数歩の距離。
アストルフォの無防備な寝顔が、射程圏内に入った。
シエルが右手に殺意を込め、黒鍵の切っ先を彼に向けようとした、まさにその時。
「――おや。その立ち位置は、あまりお勧めしないよ、代行者殿」
「なっ……!?」
背後から、不意に鼓膜を打った声。シエルの全身の筋肉が硬直した。
振り返ると、サンルームの入り口の死角になっていたティーテーブルの席で、現代魔術科の次期当主・ライネスが、優雅にカップを傾けていたのだ。
そして、その隣には、銀色の髪を揺らし、気品ある大人の色香を纏った天体科の君主・オルガマリーの姿があった。
「驚くことはないでしょう?私たちはただ、食後の紅茶を楽しんでいただけなんだから。……もっとも、貴女が『鋭利な魔力』を隠し持って、うちの旦那様に忍び寄る足音はずっと聞こえていたけれど」
オルガマリーが、金色の瞳を細めて妖艶に微笑む。
(……気づかれていた!? いえ、それだけじゃない。この女たち、私が殺意を持っていることを完全に把握した上で、わざとこの男を一人にしていたというのか……!?)
シエルの背筋に、冷たい汗が流れる。
「どうしたんだい? 早くその物騒な刃物で、彼を刺せばいいじゃないか。……まあ、君がそれを振り下ろした瞬間に発動する『自動反撃(カウンター)の結界』が、このサンルームには三十層ほど重ね掛けされているのだけれどね」
ライネスが、悪戯っぽくクスクスと笑う。
シエルはギリッと奥歯を噛み締めた。
完全に、罠(ゲーム)の盤上に乗らされていたのだ。彼女たちはシエルを排除するのではなく、自らのおぞましい「愛の巣」へと絡め取るために、余裕の態度で彼女の暗殺計画を観察して楽しんでいる。
「……くっ」
シエルが黒鍵を消し去り、後退りしようとした瞬間。
「んん……? あ、シエルだ!」
騒ぎに気づいたのか。ソファーで眠っていたアストルフォが、パチリと紫水晶の瞳を開けた。
「あ……」
シエルが身構えるより早く。
アストルフォは跳ね起きるなり、無邪気な笑顔でシエルの腰に両腕を回し、ぐいっと自らの身体ごとソファーの上へと引きずり込んだ。
「わぷっ!?」
「シエル、ボクとお昼寝しに来てくれたの? すっごく嬉しい!」
暗殺の標的による、想定外すぎるゼロ距離のハグ。
シエルは、アストルフォの広い胸板の上に半ば乗り上げるような体勢で、完全にホールドされてしまった。
「ち、違います……っ! 離して、ください……っ、私は、貴方を……っ」
「シエルの身体、少し冷たいね。ボクが温めてあげる」
シエルの拒絶など、彼にとっては「照れ隠し」にしか聞こえていない。
アストルフォの大きな手が、シエルの修道服の上から、彼女の華奢な背中をすっぽりと包み込んだ。
ドクンッ、と。
シエルの心臓が、恐怖とは全く別の理由で大きく跳ねた。
(まただ……。この男の、異常なまでの体温……っ。服の布地をすり抜けて、直接、皮膚の下に……熱が、流し込まれてくる……っ)
「シエル、すっごくいい匂いがするね。……お日様みたいな匂い」
アストルフォの顔が、シエルの首筋にすり寄せられる。
至近距離で放たれる、彼の熱い吐息。それが、シエルの耳たぶからうなじにかけての敏感な皮膚を、直接甘く撫で回す。
「んんっ……!! ぁ、あ……っ」
シエルの口から、代行者としては絶対にあり得ない、艶めかしい嬌声が漏れた。
「不死身」の肉体を持つがゆえに、彼女の感覚は普通の人類よりも遥かに鋭敏だ。その鋭敏な神経が、彼から放たれる『圧倒的なオスのフェロモンと愛情』を、致死量の快楽として脳髄で処理してしまっている。
「だめ、です……っ。こんなの……教義に……っ」
「シエルのここ、ボクの腕の中でトクトク鳴ってる。……すっごく可愛い」
アストルフォの手が、背中からゆっくりと腰のラインへと滑り下りる。
彼には、彼女を屈服させようという魔術的な意図も、卑劣な計算も一切ない。ただ純粋に、目の前の女の子を愛おしみ、自分の熱を分け与えたいという無垢な情動。
だからこそ、シエルの持つどんな強固な精神防壁も、一切の抵抗を許されずにドロドロに溶かされてしまうのだ。
(……あぁっ。思考が、まとまらない……。暗殺、しなきゃいけないのに……この人の腕の中、熱くて、甘くて……息が、できない……っ)
シエルの冷たい瞳が、瞬く間に情欲の涙で潤み、トロンと濁っていく。
彼女の指先から力が抜け、彼を突き飛ばすはずだった手は、いつの間にかアストルフォの逞しい肩にすがりつくように回されていた。
「……ふふっ。見て、ライネス。神に仕える気高い代行者様が、あの方に触れられただけで、もうあんなに蕩けた声を出して……立派な『雌』の顔になっているわよ」
「ああ。教会が誇る殺戮兵器も、うちの旦那様の前では、ただの恋する仔猫に早変わりだ。……実に痛快じゃないか」
少し離れた席で、オルガマリーとライネスが、完全に骨抜きにされつつあるシエルの姿を眺めながら、極上の紅茶を嗜んでいる。
彼女たちからすれば、シエルの暗殺計画など、アストルフォという太陽の熱で彼女の冷たい理性を溶かすための、楽しい「前戯」でしかないのだ。
「シエル、ボクのこと、好きになってくれた?」
アストルフォの紫水晶の瞳が、至近距離でシエルを真っ直ぐに見つめる。
「ぁ……わ、私は……っ」
シエルは、完全に熱に浮かされた頭で、それでも必死に首を振ろうとした。
しかし、彼の手が彼女の太ももの内側を修道服越しに優しく撫でた瞬間、子宮の奥底から込み上げた強烈な快感が、彼女の口から真実の言葉を引きずり出した。
「はぁっ……あ……っ! あつい、です……っ。貴方の、熱が……私の中を、めちゃくちゃに……っ」
もはや、教会の任務などどうでもよかった。
彼女は無意識のうちに、自らの柔らかな胸の膨らみをアストルフォのがっしりとした胸板へと押し付け、さらなる熱を求めて身をよじらせていた。
「シエル、大好きだよ。……ずっと、ボクのそばにいてね」
アストルフォの熱い唇が、シエルの震える唇を塞ぐ。
「んんっ……!! ぁ……っ、んちゅ……っ、ふぁ……っ」
甘い唾液が交わる音が、サンルームに響く。
聖堂教会の代行者としての冷徹な仮面は、この昼下がりの微睡みの中で完全に焼き尽くされた。
ヒロインたちの残酷で甘い計略と、アストルフォの純度百パーセントの愛情によって、シエルは抗う術をすべて奪われ、自分でも気づかないうちに、彼なしでは生きていけない極上のヒロインの一人として、その深い愛の沼へと完全に堕ちてしまったのだった――。