fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
初夏のロンドン。
うららかな日差しが降り注ぐエーデルフェルト別邸のエントランスには、これから数日間の小旅行に出発しようとする四人の姿があった。
「やあやあ! みんな、お留守番よろしくね! お土産、いーっぱい買ってくるから!」
桜色の髪を揺らし、ラフなサマージャケットを着こなしたアストルフォが、満面の笑みでぶんぶんと手を振っている。
彼と一緒に英国屈指のリゾート地、コーンウォール半島へと向かうのは、沙条愛歌、沙条綾香の姉妹、そして玲瓏館美沙夜の三人だ。
方やルーマニア、方や日本で彼に拾われ、この愛の城に迎え入れられてからというもの、彼女たちはすっかりこの大家族の一員として(そしてもちろん、彼の妻の一人として)馴染んでいた。今回は、日頃から「バカお姉ちゃん」の世話や魔術の研究で疲れている綾香たちを労うための、アストルフォ発案の特別バカンスである。
「……はぁ。本当に、どうして私がこんなに大荷物を持たされているのかしら」
綾香が、丸い眼鏡を押し上げながら、自分よりも大きなリュックサックと二つのキャリーケースを前に特大の溜息をつく。不思議系森ガールを装う彼女だが、中身は生真面目な苦労人そのものだ。
「仕方ないでしょう、綾香。愛歌が『私の王子様に見せるための水着』だけでトランクを三つも満杯にしてしまったのだから。……まったく、少しは自重というものを覚えなさい」
隣で、黒髪を気品高くまとめた玲瓏館美沙夜が、呆れたように肩をすくめる。
完璧主義の魔術師である彼女だが、その装いは洗練された夏のリゾートワンピースであり、彼女自身もこのアストルフォとの旅行を心底楽しみにしていることが、ほんのりと上気した頬から隠しきれずに溢れていた。
「いいじゃない、美沙夜ちゃんも綾香も。だって、太陽の下で私の王子様と過ごす特別な時間なのよ? 完璧な私を見てもらわなきゃ、意味がないもの」
愛歌は、日傘を優雅に回しながら、トロンと甘く濁った瞳でアストルフォの広い背中を見つめている。全能の天才たる彼女の脳内は、すでに海辺で彼にどんな風に愛されるかという甘いシミュレーションで完全に埋め尽くされていた。
そんな四人を見送るべく、エントランスにはエーデルフェルト邸の女主人たちが腕を組んで並んでいた。
「……いいこと、愛歌。あんたがどれだけ規格外だろうと、うちの馬鹿旦那の体力を海で全部吸い尽くすような真似は許さないからね。帰ってきたら、私たちもたっぷり可愛がってもらう予定なんだから」
遠坂凛が、チクリと釘を刺す。
「そうですわ。わたくしたちが寛大な心でバカンスを許可して差し上げたのです。夜のベッドで抜け駆けばかりしたら、帰国後に裁判ですわよ?」
ルヴィアゼリッタが扇子を揺らし、その隣では桜も「お土産話、楽しみにしていますね」と極上の黒い笑みを浮かべている。
「ちょっと、愛歌さんたちばかりずるいわ! アストルフォには私がいるのに……っ! 帰ってきたら、真っ先に私のお部屋に来てもらうからね!」
すっかり大人の女(妻)として成長し、彼への独占欲を隠さなくなったオルガマリーが、頬を膨らませて抗議の声を上げる。ライネスがその横で「やれやれ、これだから血気盛んな新妻は」とクスクス笑っていた。
「あはは! 大丈夫だよ、凛もオルガマリーも! ボク、みんなのことすっごく愛してるから! じゃあ、行ってきまーす!」
女たちの嫉妬の炎すらも無邪気な笑顔で全肯定し、アストルフォは軽やかに手を引いて愛歌たちを車へと乗せた。
***
ロンドンから特急列車と車を乗り継ぎ、数時間。
四人が到着したのは、イギリス南西部、コーンウォール半島の北岸にある「ティンタジェル」の村だった。
切り立った断崖絶壁と、荒々しいケルト海の波が打ち寄せるこの地は、古くから『アーサー王生誕の地』として語り継がれる伝説の場所である。
海辺のリゾートホテル(フィストラルビーチ)へ向かう前に、少しだけこの歴史的な城跡を観光しようというのが、美沙夜の提案だった。
「……ここが、ティンタジェル城跡。伝承によれば、魔術師マーリンの導きによって、ユーサー・ペンドラゴンがアーサー王をもうけたとされる城よ」
美沙夜が、海風に黒髪をなびかせながら、観光ガイドのパンフレットを片手に解説する。
「へえー! すっごい絶壁だね! ここにお城が建ってたなんて、昔の人ってすごいなー!」
アストルフォは、崖の下で砕け散る白い波を見下ろし、目を輝かせてはしゃいでいる。
「本当に、すごい風……。お姉ちゃん、崖のそばに行き過ぎないでよ」
綾香が、飛ばされそうな麦わら帽子を押さえながら姉に注意を促す。
本来であれば。
この地は、沙条愛歌にとって特別な意味を持つ場所になるはずだった。
彼女がかつて『絵本の中の白馬の王子様』として夢見、聖杯戦争において狂信的なまでに愛を捧げる運命にあった騎士王――アーサー王(セイバー)の、生誕の地なのだから。全能の彼女であれば、この土地に残るかすかな神秘の残滓から、かつての王の息吹や光の記憶を読み取ることなど造作もないことだった。
しかし。
「……ふーん。ただの古い石ころと、潮の匂いがするだけの場所ね」
愛歌は、眼下に広がる壮大な歴史のロマンに、ただの一瞥もくれなかった。
彼女の全能の瞳には、過去の幻影など微塵も映っていない。
「愛歌! こっちこっち! ここからの景色、すっごく綺麗だよ!」
少し離れた岩場から、桜色の髪を風に揺らし、屈託のない笑顔で自分に手を振る青年。
愛歌の視界は、彼という強烈な太陽の光だけで完全に満たされていた。
(……アーサー王。過去の英雄。絵本の王子様。……そんなもの、今の私にはどうだっていいわ)
愛歌は、日傘をたたんで彼のもとへと歩み寄る。
(だって、私の王子様は、絵本の中なんかじゃなく……今、目の前で私に向かって笑いかけてくれているんだもの。私に触れて、私を熱く溶かしてくれる、本物の王子様が)
「わっ、愛歌、危ないよ! 足元滑るから!」
愛歌が少しだけヒールのバランスを崩した瞬間。
アストルフォの大きく、火傷しそうなほどに熱い手が、彼女の細い腰をガシッと力強く抱き留めた。
「ひゃうっ……」
愛歌の口から、全能の魔術師とはかけ離れた、甘く無防備な吐息が漏れる。
薄いサマーワンピース越しに伝わってくる、彼のがっしりとした大胸筋の感触。そして、イギリスの冷たい海風を完全に遮断するような、圧倒的なオスの熱量と薔薇の香りが、彼女の全身を包み込んだ。
「ごめんね、愛歌。風が強いから、ボクから離れちゃだめだよ」
「……ええ。離れないわ。……絶対に」
至近距離。
紫水晶の瞳に見つめられ、愛歌の脳髄はあっという間に甘く痺れていく。アーサー王伝説の神秘など、彼から放たれるオスのフェロモンの前では、ただの埃のようなものだった。愛歌は完全に理性を手放し、周囲の観光客の目も気にせず、自らアストルフォの首に腕を回してその広い胸板に顔を埋めた。
「んんっ……あ、王子様……。あなたの匂い、すごく落ち着く……」
「あはは! 愛歌も、すっごくいい匂いだよ!」
アストルフォは照れることもなく、愛歌の金色の髪を優しく撫でる。
「……はぁ。また始まったわね」
その光景を少し離れて見ていた美沙夜が、呆れたようにため息をついた。
「お姉ちゃん、完全に自分の世界に入っちゃってる……。公共の場なんだから、少しは自重してほしいんだけど」
綾香も、疲れたように眼鏡のブリッジを押さえた。
しかし、アストルフォの無自覚な熱は、姉妹のストッパー役である彼女たちをも容赦なく巻き込んでいく。
「美沙夜も、綾香もおいでよ! みんなで一緒に海見よう!」
アストルフォは、愛歌を片腕で抱きしめたまま、空いているもう片方の腕を大きく広げ、極上の笑顔で二人を呼んだ。
「えっ……? わ、私は別に、景色なんて……っ」
「ちょ、ちょっとアストルフォさんっ……!」
躊躇する美沙夜と綾香の腕を、彼の手が優しく、けれど絶対に逃げられないオスの力強さで引き寄せる。
「わぷっ!?」
「ひゃああっ!」
結局、四人は断崖の上の限られたスペースで、アストルフォの逞しい身体に三人娘が密着するという、傍から見れば異常なほど濃密な状態で身を寄せることになった。
「ほら、あったかいでしょ?」
アストルフォの体温が、三人の肌にじんわりと、けれど強烈に浸透していく。
右腕に愛歌、左腕に綾香を抱え、正面からは美沙夜の背中を包み込むような形。
「……あったかいけど……近すぎよ、貴方……っ。私の心臓の音まで、聞こえちゃいそうじゃない……っ」
美沙夜が、顔を真っ赤にして彼に背中を預けながら、抗議の声を上げる。しかし、その声はすでに甘く震え、彼から逃れようとする意志は微塵もなかった。
「アストルフォさんの……熱……。背中から、お腹の奥まで……溶けちゃいそう……っ」
綾香もまた、日頃の苦労人の仮面を剥がされ、彼の胸板にすがりついてトロンと目を細めている。
ケルト海の冷たい風が吹き付けるティンタジェルの岬。
本来なら荘厳な歴史を感じるはずのその場所は、一人の規格外の騎士が放つ無尽蔵の熱量によって、むせ返るような愛欲と甘い吐息が渦巻く、極上の熱帯へと塗り替えられていた。
「さあ、お城の観光はおしまい! 次はいよいよ、フィストラルビーチのホテルだ! 海でいーっぱい遊ぼうね!」
アストルフォの無邪気な宣言と共に、彼女たちの理性を完全に焼き尽くす、狂おしくも甘い夏のバカンスが、本格的に幕を開けようとしていた――。