※この作品はR-18です。

fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ   作:鰻天ぷら

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桜・エーデルフェルト編②

冷たい雨の滴が、アストルフォの差し掛ける傘をパラパラと叩き続けていた。

 

「わからないよ。だから……もっと、キミのことをボクに教えて?」

 

至近距離で囁かれたその言葉と、触れ合うつま先。吐息が混じり合うほどの近さに、桜・エーデルフェルトはハッと我に返り、弾かれたように身を引いた。

バシャリ、と彼女の豪奢な靴が水たまりを踏み抜く。

 

「……っ、無礼な真似はおやめください。私はエーデルフェルトの人間です。どこの馬の骨とも知れぬ方に、これ以上踏み込まれる謂れはありません」

 

冷たく、刃のように研ぎ澄まされた拒絶。

しかし、彼女が無理やり引き抜いた右手は、彼から与えられた熱を失った途端、ロンドンの凍えるような外気よりもずっと冷たく、ひどく心細いものに感じられた。

 

アストルフォは、拒絶されたことに対して怒るでもなく、ただ少しだけ困ったように眉尻を下げた。

 

「ごめんね。ボク、こういう距離感とかよくわからなくてさ。……でも、雨が強くなってきた。風邪を引いちゃうから、あそこの温室に入ろう?」

 

彼は無理に距離を詰めることはせず、ただ傘を桜の頭上にしっかりと掲げたまま、ガラス張りの温室へと彼女を促した。

その、押し付けがましくない純粋な気遣いに、桜は二の句を継げなくなり、無言のまま温室へと足を踏み入れた。

 

***

 

温室の中は、外の陰鬱な灰色の世界とは別天地だった。

魔術的な空調管理によって一定の温度と湿度に保たれた空間には、季節を問わず様々な種類の薔薇が咲き乱れ、むせ返るような甘い芳香が満ちている。

ガラス屋根を叩く雨音だけが、BGMのように静かに響いていた。

 

桜はハンカチを取り出し、濡れた髪先を拭いながら、少し離れた場所に立つ桜色の騎士を盗み見た。

彼は温室に並ぶ花々を珍しそうに眺め、「わぁ、すっごく綺麗だね! 青子の目みたいな青い薔薇もある!」と無邪気な声を上げている。

 

(青子……。蒼崎青子先生の、サーヴァント……いえ、ただの使い魔には見えないわ。この圧倒的な魔力の質、そしてあの人間離れした美しさ……彼は、英霊?)

 

桜は、自分の内側で渦巻く感情の正体を持て余していた。

遠坂の家から「より優秀な魔術回路を残すための部品」として、エーデルフェルトへと譲渡された自分。養父や義理の姉であるルヴィアゼリッタは、桜を「次期当主の片翼」として大切に、そして厳しく育ててくれた。

だから、彼女は完璧な「エーデルフェルトの令嬢」として振る舞わなければならなかった。誰に対しても優雅で、隙を見せず、誇り高く。

その完璧な仮面を、出会って数分の、名前しか知らない彼に「寂しそうな顔」だと一蹴されたのだ。

 

「あの……アストルフォ、さん。蒼崎先生とは、どのようなご関係なのですか」

 

沈黙に耐えきれず、桜の方から口を開いた。探りを入れるような、魔術師としての計算を含んだ問いかけだった。

 

「ん? 青子? うーん……一緒に世界を旅してる、大切な人、かな! 青子ってば、すっごく強くてカッコいいのに、いっつも一人で無茶ばっかりするから、ボクがついててあげないと心配なんだよね」

 

アストルフォは薔薇の花びらをそっと撫でながら、一切の淀みなく答えた。

その言葉に、桜は微かに目を見張った。あの、時計塔でも恐れられる第五魔法の体現者・蒼崎青子を捕まえて、「心配だからついていてあげる」などと宣う存在がこの世にいるとは。

 

「あなたは……自由なのですね」

 

ふと、桜の唇からそんな言葉がこぼれ落ちていた。

どこにも縛られず、誰の評価も気にせず、ただ自分の心の赴くままに生きている。名門という巨大な鳥籠の中で、常に「価値ある自分」を演じ続けてきた桜にとって、彼という存在はあまりにも眩しく、そしてひどく妬ましかった。

 

「そうだよ! ボクはライダーだからね。風の吹くまま、どこへだって飛んでいける」

「……羨ましいです。私には、一生手に入らないものですから」

 

自嘲気味に微笑んだ桜の横顔は、温室に咲くどの薔薇よりも美しく、そして悲痛だった。

彼女は自分の失言に気づき、ハッと口元を押さえた。何を言っているのだろう、私は。初対面の、しかも他所の陣営の英霊に対して、自分の内面を曝け出すなど、魔術師としてあり得ない失態だ。

 

しかし、アストルフォは彼女を嘲笑うことも、同情めいた言葉をかけることもしなかった。

彼はゆっくりと歩み寄り、桜の目の前で足を止めた。

 

「キミは、この温室のお花みたいだね」

 

「……え?」

 

「すっごく綺麗に咲いてるけど、ガラスの壁に守られて、外の風も、本当の太陽の光も知らない。……キミを育てた人は、キミが傷つかないように大事に大事にしてるんだろうけど、それって、ちょっと退屈じゃない?」

 

アストルフォの紫水晶の瞳が、桜の心の最も柔らかく、痛みを伴う部分を真っ直ぐに見透かしていた。

 

「大事に、なんて……。私は、遠坂の家から……」

 

言いかけて、桜は唇を強く噛んだ。

『不要になったから手放された』。その事実を口にするのは、自分の存在価値を根底から否定するようで、恐ろしかった。

けれど、目の前に立つこの不思議な騎士は、そんな魔術師の家系のしがらみなど、まるで気にしていないように見えた。

 

「遠坂? よくわかんないけど、キミはキミだよ」

「……」

「キミがどんな名前で呼ばれてても、どんな立派なお家に住んでても、ボクの目の前にいるのは、すごく綺麗で、すごく寂しがり屋の女の子だ。それ以上でも、それ以下でもないよ」

 

アストルフォは、先ほど拒絶されたはずの桜の手を、今度は極めてゆっくりと、彼女が逃げる隙を与えるように、そっと両手で包み込んだ。

 

「あ……」

 

今度は、振り払えなかった。

温室の湿った空気の中で、彼の手から伝わる熱が、ひどく心地よかったからだ。

 

「キミが本当は外の世界を見たいなら。ガラスの壁を壊して、冷たい雨に濡れてでも、誰かに『自分自身』を見てほしいなら……ボクが、一緒に外に連れ出してあげる」

 

それは、甘く、そして決定的な誘惑だった。

「エーデルフェルトの桜」としての価値ではなく、「ただの桜」という一人の少女としての存在を、彼は全身で肯定してくれている。

長年、凍りつくような緊張感の中で張り詰めていた桜の心の糸が、プツンと音を立てて切れた。

 

「私……っ」

 

桜の大きな紫の瞳から、ポロリ、と大粒の涙がこぼれ落ちた。

一度決壊した感情は、もう止めることができなかった。声を出さずに、ただポロポロと泣き続ける桜の華奢な肩を、アストルフォは優しく、ひどく大切に抱き寄せた。

 

「うん。泣いていいよ。ずっと、一人で頑張ってきたんだね」

 

「あ……ぁ、ああぁっ……!」

 

桜は、アストルフォの白いジャケットの胸元を両手で強く握りしめ、顔を埋めて声を上げて泣きじゃくった。

雨音と、少女の嗚咽だけが温室に響く。

魔術師としての誇りも、名門の令嬢としての矜持も、すべてが彼のもたらす圧倒的な熱量と優しさの中で溶け去っていく。

 

アストルフォは、泣き続ける桜の艶やかな髪を、何度も何度も撫で続けた。

彼女の涙が枯れ、その心の壁が完全に崩れ去るのを、急かすことなく、ただじっと待ち続けていた。

 

やがて、桜の泣き声が小さなしゃくり上げに変わり、彼女がゆっくりと顔を上げた時。

至近距離で見つめ合う二人の間には、先ほどまでの「他人」としての距離感は完全に消え失せていた。

 

濡れた瞳。熱を帯びた吐息。

桜は、自分を抱きしめるアストルフォの力強い腕の感触に、今まで感じたことのない、強烈な「女」としての甘い疼きを覚え始めていた――。

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