fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
聖堂教会の最強の代行者・シエルが、自らの暗殺任務と冷徹な教義を完全に放棄し、アストルフォの放つ底なしの熱にドロドロに溶かされてから数週間。
ロンドン郊外のエーデルフェルト別邸は、彼女という新たな「家族」を迎え入れ、かつてないほどに甘く、賑やかな日常を謳歌していた。
「……アストルフォ。お口の端、ソースがついていますよ。ふふっ、子供たちのお世話ばかりしているから」
柔らかな朝の陽射しが差し込むダイニング。
青いエプロンを身につけたシエルが、隣に座るアストルフォの口元を、自らの指先でそっと拭う。かつての氷のような殺気は見る影もなく、彼女の丸い眼鏡の奥の瞳は、愛するオスを慈しむ純度百パーセントの『雌』の熱を帯びて、トロンと甘く濁っていた。
「あ、ほんとだ! ありがとう、シエル! 今日のオムレツもすっごく美味しいよ!」
アストルフォは、拭ってくれたシエルの指先をチュッと軽く吸い上げ、極上の笑顔を向ける。
「ひゃうっ……」
朝から不意打ちのスキンシップを喰らい、シエルの雪のような肌が一瞬で真っ赤に染まる。
「だ、だめです……っ。子供たちも、見ているのに……っ」
彼女は抗議の声を上げながらも、アストルフォの大きく熱い手が自らの太ももにそっと置かれている事実を受け入れ、むしろその圧倒的な体温を求めて自ら身をすり寄せていた。
「あら。すっかり『うちの旦那様』の熱なしでは生きられない身体になってしまったみたいね、教会の犬殿は」
向かいの席で、遠坂凛がコーヒーカップを傾けながら呆れたように溜息をつく。
「当然よ。あの方の底なしの愛とフェロモンを前にして、狂わずにいられる女なんて、この世に存在しないもの」
天体科の君主(ロード)として、そして彼の妻として美しく成長したオルガマリーが、艶やかな銀髪を揺らして微笑む。彼女の金色の瞳には、アストルフォへの絶対的な独占欲と、同類(シエル)が増えたことへの余裕が同居していた。
「やあやあ。朝から随分と熱いね、アストルフォの可愛い新妻たちは」
そこへ、現代魔術科の次期当主であるライネスが、分厚い封筒をヒラヒラと揺らしながらダイニングへと入ってきた。
彼女の足取りは軽く、悪戯っぽい笑みを浮かべているが、その手にある封筒の封蝋を見た瞬間、凛やオルガマリーの表情がサッと引き締まる。
「……時計塔からの、公式の招待状ね。差出人は?」
凛がカップを置く。
「ああ。どうやら時計塔の上層部も、うちの『規格外の旦那様』の存在を、これ以上見て見ぬ振りはできないと判断したらしい。……民主主義派の重鎮、バリュエレータ家からの名指しの招待状だ。名目は、各派閥のトップを交えた友好のための晩餐会だよ」
ライネスは、封筒から一枚の豪奢なリストを取り出し、テーブルの中央に滑らせた。
「イノライ・バリュエレータ・アトロホルム……創造科の君主にして、あの保守的な時計塔でiPodを愛用し、ロックを聴きながら民主主義を掲げる、一筋縄ではいかないファンキーな老女ね」
オルガマリーが、眉をひそめてリストを眺める。
「私たち(天体科)やエルメロイならともかく……彼女が直接、アストルフォを呼び出すなんて。警戒したほうが良さそうね」
「ボクにご招待? わあ、美味しそうなご飯、いっぱい出るかな!」
当のアストルフォは、政治的な思惑などどこ吹く風で、目を輝かせている。
「まったく、あんたは呑気なんだから……。まあ、友好の場と銘打っている以上、屋敷ごと吹き飛ばすような露骨な罠はないでしょうけど」
凛が呆れ半分でリストを覗き込んだ、その時。
「――ちょっと待ちなさい」
キッチンの奥から、凄まじい魔力の波が膨れ上がった。
現れたのは、蒼崎青子。
世界に五人しか存在しない『魔法使い』であり、この大家族の頼れる姉御肌である彼女が、普段の余裕ある笑みを完全に消し去り、氷のように冷たい瞳でリストの一点を凝視していた。
「蒼崎先生……? どうかしましたか?」
シエルが、青子の異様な気配に気づいて身構える。
「……ライネス。この招待客のリスト、間違いないわね?」
青子は、リストに書かれた一つの名前を指差した。
そこにあったのは、『冠位(グランド)人形師・蒼崎橙子』という名。
「あ……」
凛が息を呑む。
魔術協会において最高位の称号を与えられながら、その気性の激しさと異端の魔術探求により、幾度も協会と衝突を繰り返してきた怪物。そして何より、青子の実の姉であり、骨肉の争いを繰り広げた因縁の相手だ。
「……ええ。彼女も時計塔には独自のパイプがあるからね。呼ばれていても不思議ではないが……」
ライネスも、少しだけ口調を硬くした。
「アストルフォ」
青子は、真っ直ぐにアストルフォの紫水晶の瞳を見つめた。
「いいこと、よく聞きなさい。……今回のパーティー、あんた一人で行きなさい。護衛をつけても、あの女(橙子)相手じゃただの足手まといになるだけよ」
「え? 青子のお姉ちゃんだよね? 一緒に行かないの?」
アストルフォが不思議そうに首を傾げる。
「行かないわ。私が行けば、会場ごと消し飛ばす姉妹喧嘩になるだけだからね。……それに、あの女(橙子)は私とは違う。完全に計算づくで動く、血の通っていない冷血漢よ」
蒼崎青子が、アストルフォの頬を両手で挟み込んで真剣な警告を発した、その直後だった。
「あら。だったら、私が行ってあげようかしら、私の王子様?」
ふわりと、空間そのものを支配するような甘く絶対的な声が響いた。
沙条愛歌である。彼女は、アストルフォの背後からその首に腕を回し、金色の瞳の奥に一切の感情を排した全能の光を宿して微笑んだ。
「青子さんが手をこまねくような泥棒猫なら……私が『根源』から、その存在ごと綺麗に消し去ってあげる。そうすれば、王子様は何も危険な目に遭わなくて済むもの」
比喩ではない。彼女がそう望めば、冠位(グランド)の称号を持つ魔術師であろうと、文字通り一瞬で宇宙の塵と化す。
青子も凛も、その愛歌の提案の恐ろしさに一瞬息を呑んだ。
しかし。
「だめだよ、愛歌! 誰も消しちゃだめ!」
アストルフォは、自らの首に回された愛歌の白い腕を優しく解き、振り返って彼女の鼻先をツンと突いた。
「ボク、喧嘩しに行くわけじゃないもん。青子のお姉ちゃんなんだから、きっとすっごく素敵な人だよ。いっぱいいっぱいお話しして、お友達になってくる!」
一切の打算もない、純度百パーセントの太陽の笑顔。
「……はぁ。本当に、貴方という人は……。わかったわ。私の王子様がそう言うなら、大人しく帰りを待っていてあげる」
愛歌は、全能の威圧感を一瞬で甘い乙女の吐息へと変え、彼のがっしりとした胸板にすり寄った。
かくして、青子の警告と愛歌の物騒な過保護を無邪気な笑顔で押し除け、一人の規格外の騎士は夜の社交界へと足を踏み入れたのだった。