fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
重厚な防音扉に閉ざされたVIPルーム。
最高級のシガーの香りが漂う室内で、時計塔の三大貴族にして民主主義派の重鎮、イノライ・バリュエレータ・アトロホルムは、耳にかけていたiPodのイヤホンを外し、目の前のソファに座る青年を値踏みするように見つめていた。
「……で? あんた、うちの若い衆や貴族の娘っ子たちを、随分と骨抜きにしてるらしいじゃねえか。エルメロイの小娘や天体科の嬢ちゃんまで囲い込んで、時計塔をひっくり返す気か?」
威圧感たっぷりの老女の凄み。並の魔術師であれば、そのプレッシャーだけで息が詰まるだろう。
だが、桜色の髪を揺らす騎士は、出された紅茶のカップを両手で持ちながら、屈託のない極上の笑顔を咲かせた。
「ひっくり返す? ううん、そんなことしないよ! ボクはただ、みんなが笑顔で、美味しいご飯を食べて、幸せに笑っててほしいだけだもん! 凛もルヴィアもオルガマリーも、みーんなボクのすっごく可愛いお姫様だからね!」
一切の裏表がない、純度百パーセントの宣言。
政治的な駆け引きも、魔術的な計算も、彼の中には一ミリも存在しない。ただひたすらに真っ直ぐな、太陽のような熱量。
イノライは数秒間アストルフォの紫水晶の瞳をじっと見つめ返し――やがて、腹の底から快活な笑い声を弾けさせた。
「がははははっ! 言い切りやがった! いいぜ、その阿呆みたいな真っ直ぐさ、オレは嫌いじゃねえ!」
イノライは葉巻を灰皿に叩きつけ、身を乗り出した。
「さっきの会場での振る舞い、上から見せてもらったぜ。ただの節操なしの種馬かと思いきや、筋の通った騎士道精神を持ってやがる。……オレたちバリュエレータは民主主義だ。古い血や伝統に縛られて縮こまってる連中とは違う。お前さんみたいな規格外の馬鹿が、この腐りかけた時計塔に新しい風を吹き込むってんなら、オレは歓迎するぜ」
イノライが、皺の刻まれた右手をスッと差し出す。
「オレたちバリュエレータは、お前さんたちの『城』に手は出さねえ。その代わり、オレの派閥の若い奴らが何かやらかした時は、少しばかり融通を利かせてくれや。……どうだ?」
「うん! イノライおばあちゃん、すっごく話がわかるね! これからよろしく!」
アストルフォは迷うことなく、その手を力強く握り返した。
複雑な条約も、血の誓約も必要ない。時計塔のパワーバランスを大きく揺るがす「バリュエレータ派の不可侵と暗黙の庇護」という特大の取引が、一人の騎士の無邪気な笑顔によって、いとも容易く成立した瞬間だった。
***
「ばいばーい! また遊びに行くね!」
重厚な扉が開き、アストルフォが明るい声を残して廊下へと出てきた。
その無防備な背中を見送り、分厚い扉が完全に閉まった直後。
「――随分と、老嬢(バリュエレータ)に気に入られたみたいじゃない」
静寂に包まれた廊下の影から、ひどく冷たく、知的な声が響いた。
アストルフォが振り返る。
そこに立っていたのは、真紅のタイトスーツを隙なく着こなし、赤いフレームの眼鏡をかけた大人の女性だった。
彼女の指先に挟まれたタバコから、細い紫煙が蛇のように立ち昇っている。
「え? あ、キミは……」
アストルフォが目を瞬かせる。
(……来たわね。情報の通り、規格外の魔力と……この、むせ返るような体温)
蒼崎橙子は、赤い眼鏡の奥の瞳で、数歩先に立つ青年を冷徹に分析していた。
彼が振り返った瞬間、空気の温度が2度ほど上昇した錯覚に陥る。目に見えないフェロモンが、致死量の甘い毒のように橙子の肌にまとわりついてきたのだ。
しかし、橙子の表情は一切崩れない。
彼女の脳内には、すでに何十重もの魔術的・精神的な防壁(ファイアウォール)が構築されている。遠坂凛やルヴィア、そして妹の青子が陥落したという「無自覚なオスの熱」を、彼女は完全にデータとして処理し、自らの感情から切り離していた。
(心拍数の変化、ゼロ。魔術回路の異常、なし。……ふん。妹たちはこんなものに当てられて理性を溶かしたというの? 愚かしいことね)
「私は蒼崎橙子。しがないフリーランスの魔術師よ。少し、君に興味があってね」
橙子は、完璧な大人の余裕を漂わせながら、ヒールの音を響かせてアストルフォへと歩み寄った。
その名前を聞いた瞬間、アストルフォの瞳がパァッと明るく輝いた。
「あ! 青子のお姉ちゃんだね! ボク、アストルフォ! 青子にはいっつもすっごくお世話になってるよ!」
アストルフォは、警戒するどころか、満面の笑顔で橙子の両手を自らの手でガシッと包み込んだ。
「なっ……」
橙子の指先が、微かにピクリと動いた。
事前の計算にはなかった、ゼロ距離への物理的な接近。
彼の手のひらから、火傷しそうなほどの圧倒的な体温が、薄い手袋越しに直接流れ込んでくる。
(……この熱量。なるほど、確かに常軌を逸しているわね。直接触れられれば、並の魔術師なら一瞬で思考を焼き切られる)
橙子は冷静に脳内で分析を続ける。彼女の「赤い眼鏡」は、彼女自身の感情を完全に封じ込める絶対的なスイッチだ。どれほど彼が熱を放とうとも、今の彼女の心は氷のように冷たく、微動だにしない。
「……青子が、私の話をしているとは思わなかったわね。あの子、私のことが心底嫌いだから」
橙子は、自らの手を握られている事実を完全に無視し、極めて客観的なトーンで探りを入れる。
「そんなことないよ! 出発する前も、『あの女は冷血漢だから気をつけなさい』って、ボクのことすっごく心配してくれてたもん! 青子、いっつも怒ってるみたいに見えるけど、本当はすっごく優しいんだよ!」
「……そう」
橙子の口元に、微かな嘲笑が浮かぶ。
(あの青子が、必死になってこの男を私から遠ざけようとしている。……それほどまでに、この男に依存し、狂わされているというわけね。傑作だわ)
「で、お姉ちゃんはボクに何か用なの? 会場に戻らなくていいの?」
アストルフォが、純粋な不思議そうな顔で首を傾げる。
「ええ。君のその『魅力』が、一体どれほどのものか。……少し、静かなところで二人きりで話がしたくてね」
橙子は、自らの手をアストルフォの手からゆっくりと引き抜き、その赤い眼鏡の奥の瞳を、蛇のように細めた。
「私の部屋(スイート)で、極上の酒でも飲みながら……時計塔の連中には聞かせられない『大人の会話』をしましょうか。……それとも、可愛い妹の言いつけを守って、逃げ帰る?」
挑発的で、冷徹な誘惑。
罠だとわかっていても、決して断らせない巧妙な心理的誘導。
だが、太陽の騎士は、そんな彼女の計算など一切気にする素振りも見せず、パァッと顔を輝かせた。
「わあ、行く行く! ボク、お姉ちゃんといっぱいいっぱいお話ししたかったんだ! 青子の昔の話とか、聞かせてね!」
(……馬鹿な男。自分の置かれている状況すら理解していない)
橙子は、内心で冷たく嗤った。
彼女の目的は、この男から有益な情報と、妹たちが狂わされた「熱の正体」を解剖学的に分析すること。
決して自分が、他の女たちのようにドロドロに溶かされることなどあり得ないという、冠位人形師としての絶対的な自信。
「ええ。たっぷり聞かせてあげるわ。……さあ、いらっしゃい」
かくして、冷徹な計算式に守られた蒼崎橙子と、無尽蔵の熱量を放つ太陽の騎士の、静かで危険な「密室の夜」が幕を開けようとしていた――。