fate/Apocrypha偽書 千人斬りのアストルフォ 作:鰻天ぷら
時計塔が手配した五星ホテルの、さらに最上階に位置するプレジデンシャル・スイート。
ロンドンの煌びやかな夜景を一望できる巨大な窓ガラスを背に、蒼崎橙子は革張りのソファに深く腰を下ろし、細いグラスの中で琥珀色の液体を揺らしていた。
「……なるほど。あの青子が、魔術の深淵を覗くことよりも、家庭的なエプロンを身につけて君の帰りを待つ生活を優先していると。それは確かに、天地がひっくり返るほどの異常事態ね」
橙子は、赤い眼鏡の奥の瞳で、対面に座る桜色の騎士――アストルフォを観察していた。
彼女の口調は穏やかで、知的だ。眼鏡という魔術的・精神的な防壁(スイッチ)を入れている状態の彼女は、どこまでも冷徹な観察者であり、感情に流されることはない。
「うん! 青子、すっごくご飯作るの上手なんだよ! いっつもボクのこと甘やかしてくれるし、ボクも青子のこと、いっぱいいっぱい愛してるもん!」
アストルフォは、高級なブランデーには口をつけず、用意されたオレンジジュースを両手で飲みながら、屈託のない笑顔で青子との生活を語る。
(……脈拍、魔力波形、共に嘘の兆候はゼロ。純度百パーセントの事実、か)
橙子は、心の中で静かに舌を巻いた。
会話の端々から引き出した、エーデルフェルト別邸の魔術的な防衛構造。天体科や現代魔術科の君主たちとの力関係。そして何より、妹である青子の精神状態。
アストルフォ自身に機密を漏らしているという自覚はない。ただ「家族の幸せな日常」を語っているだけなのだが、冠位人形師である橙子の頭脳にかかれば、それらは時計塔の勢力図を完全に書き換えるほどの超一級の有益な情報へと変換されていた。
そして、橙子の分析は、目の前に座る「特異点」そのものにも向けられている。
(エーデルフェルトの魔窟に集う、世界最高峰の女たち。彼女たちのプライドと魔術回路を、こうも容易く束ね、ドロドロに溶かしてのける熱量。……なるほど、これは魔術や呪いの類じゃない。ただ、果てしなく純粋で、理不尽なまでの『存在の在り方』そのものだ。これでは、妹たちが抗えるはずがないね)
橙子は、手元のグラスをテーブルに置いた。
情報収集は完璧に完了した。彼という存在の危険性も、そのメカニズムも、赤い眼鏡越しに完全に理解(スキャン)できた。これ以上、彼に関わるのは魔術師としてのリスクが高すぎる。
本来であれば、ここで「有意義な時間だったわ。気をつけてお帰り」と追い返すのが、蒼崎橙子という冷徹な魔術師の正しい選択だ。
しかし。
橙子の胸の奥底で、一つの「知的好奇心」が、鎌首をもたげていた。
(……憎き妹が、あれほどまでに必死に隠そうとし、骨の髄まで依存している極上の猛毒。……それを、ただ観察するだけで終わらせてしまっていいのかしら?)
橙子の視線が、アストルフォの硬く引き締まった首筋から、シャツの隙間から覗く逞しい胸板へと滑る。
眼鏡の防壁越しであっても肌が粟立つほどの、むせ返るようなオスのフェロモン。
それはまるで、親から「絶対に飲んではいけない」と厳命されて地下室に隠された、極上のヴィンテージ・ワインを見つけてしまった未成年の少女のような感覚だった。
ほんの一口。舌先で転がすだけでいい。
私は妹たちのような馬鹿じゃない。この男の熱の正体は完全に理解しているのだから、溺れる前にグラスを置くことなど造作もない。ちょっとした、姉としての意地悪と、背徳的な味見(ゲーム)だ。
橙子は、アンティーク調の置時計に視線をやった。時刻は深夜の一時。
「……さて。有益な話はこれくらいにしておこうかしら」
橙子は、長い脚を組み替え、赤いフレームの眼鏡に手をかけた。
「ボク、もう帰ったほうがいい? 青子、心配してるかな」
アストルフォが、小首を傾げる。
「いいや。帰るのは、朝の六時だ。……それまでは、君は私のものだ」
カチャリ、と。
赤い眼鏡が、サイドテーブルに置かれた。
その瞬間。
スイートルームの空気が、一変した。
蒼崎橙子を取り巻いていた知的な気配が霧散し、代わりに、苛烈で、野性的で、生々しい「大人の女」の匂いが爆発的に膨れ上がる。防壁(スイッチ)の完全解除。
「……さあて。青子をポンコツにしたそのデタラメな熱ってやつがどれほどのモンか、私にもたっぷり味見させてもらおうじゃないか」
口調が変わった橙子は、ソファから立ち上がると、アストルフォの隣に腰を下ろし、その細く長い指で彼のネクタイを乱暴に引き寄せた。
「わっ……トーコ? なんだか、雰囲気が変わったね!」
「うるさいね。黙って私のオモチャになりな」
橙子は、挑発的な笑みを浮かべ、アストルフォの唇を自らの唇で塞ごうとした。
自分から仕掛け、自分から離れる。完全に主導権を握った、大人の女の火遊びのつもりだった。
だが、彼女は致命的な思い違いをしていた。
「防壁(眼鏡)を外す」ということは、彼から放たれる無尽蔵の熱量を、何のフィルターも通さずに直接、魔術回路の芯で受け止めるということだ。
「――んっ!?」
唇が触れ合うより早く、アストルフォの大きな手が、橙子の華奢な腰をガシッと力強く抱き寄せた。
「トーコ、手がすっごく冷たいよ。ボクがいっぱいいっぱい温めてあげるね!」
「なっ……! ちょ、待っ……!」
密着した瞬間、タイトスーツの生地を完全に無視して、彼のがっしりとした大胸筋から、火傷しそうなほどの圧倒的なオスの体温が流れ込んできた。
(……嘘だろ!? なんだこの熱……っ、服の上からで、こんな……っ)
計算していたはずの「微熱」などというレベルではない。橙子の全身の細胞が、未知の快楽に警鐘を鳴らすと同時に、子宮の奥底がビクンと激しく跳ねた。
「トーコ、すっごくいい匂い。大人の女の人の、ドキドキする匂いがする」
アストルフォの熱い吐息が、橙子の耳たぶを直接撫でる。
「ひっ……! あ、馬鹿なこと、言ってんじゃ……っ、んんっ!!」
抗議の声は、彼からの深く、甘い口づけによって完全に塞がれた。
「んぁ……っ、んちゅ……っ、ふぁ……っ!」
強引にこじ開けられた口腔を、彼のしなやかな舌が縦横無尽に蹂躙する。甘い唾液が交わるたびに、橙子の明晰な頭脳が、まるでショートした基盤のように白く濁っていく。
(……思考が、まとまらない……っ。味見、だけのつもりだったのに……この男の熱、直接触れると……私の中の冷たいところを、容赦なく溶かして……っ)
「トーコのお腹、きゅってなってる。ボクの熱、奥まで届いてる?」
彼の手が、タイトスカートの裾から滑り込み、ストッキング越しの滑らかな太ももをじっとりと撫で上げる。
「あぁっ……!! ぁ、あ……っ! そこは、だめ……っ」
橙子の口から、冠位人形師としては絶対にあり得ない、甘く蕩けた嬌声が漏れた。
自分から「朝の六時まで」と時間を区切ったという事実が、逆に「それまではどれだけ乱れてもいい」という免罪符になり、彼女の理性を急速に奪う強烈なスパイスへと変貌してしまっていた。
「……っ、あんた、本当に……規格外だ……っ」
橙子は、もはや彼を突き放すことなどできず、自ら腕を回して彼の逞しい首にしがみついた。
「トーコも、すっごく柔らかくて、あったかいよ。……朝まで、いっぱいいっぱい愛してあげるからね」
時計の針が、夜の深淵へ向かって静かに時を刻む。
妹の持つ極上のワインをほんの一口、盗み飲みするつもりだった蒼崎橙子は。
その一口がもたらした致死量の甘い毒と快楽に完全に溺れ、自らグラスの底まで飲み干そうと狂おしく喘ぐ、ただの一人の恋する雌へと成り果てていたのだった――。